遠ざかる足音が聞こえなくなるのを待っていたかのように、ポツ、ポツと少しずつ雨脚が強まる。ピカッと、稲光があたりを一瞬だけ白く染めた。すこし遅れて、ゴロゴロと低い雷鳴が響く。
このままここにいたら、すぐずぶ濡れになってしまうだろう。
「桜……はやく中入ろう。雨、強くなりそうだし」
声をかけると、背を向けていた桜の身体がゆっくりとこちらに振り向いた。
湿気を含んだ前髪から、小さな雫がぽつりと落ちる。
「……桜?」
久しぶりに絡んだ視線に、息を呑む。桜の瞳が、いまにも泣き出しそうなほど酷く揺れていたからだ。
「どうした、さく──?!」
その表情を覗き込むより早く、強い力で腕を引かれる。次の瞬間には柔らかな衝撃とともに、桜の香りに満たされる。
それが腕の中だと気づいたときにはもう、身動きひとつ取れなくなっていた。
「どうした……?」
トントン、とその背中を叩けば、骨がきしむほどの強さで、ぎゅうっと抱きすくめられる。
「鮎沢さん……」
耳元で、深い呼吸が聞こえる。
さっきまで冷徹に水川を圧していた身体が、いまは嘘のように細かく震えていた。
「俺……怖かったです」
「え……?」
「鮎沢さんが、あの人に何かされると思ったら……すげぇ、こわくて」
ぽつりと落とされる声。俺はそっと背中を撫でた。
「心配しすぎ。女の子じゃあるまいし」
「心配、しますよ」
そう言いながら、俺の肩口に深く顔を埋める桜。湿った前髪が首筋に触れて、思わずぴくんと体を弾いた。
「うっ、つめたっ、」
「すんません」
「謝るなら離れろよー」
「それは嫌です」
きっぱりと言い切られ、思わず小さく吹き出した。だけど、鼓動は逸ったままだ。
「桜さ。今日、来るの早かったな」
「……はい。なんか、嫌な予感したんで」
「え、それだけ?」
「はい」
野生の勘かよ。
「鮎沢さんにあれ以上の危害加えてたら、アイツのこと殴ってました」
「殴ったらダメだぞ」
「……だから、我慢したんす」
持て余した熱を吐き出すように、桜はぎゅうっと腕に力を込める。
そんな風に言われたら、こんな風に抱き締められたら——期待してしまう。
「鮎沢さんが言ってくれたこと、嬉しかったです」
「えっ、きこえてた?」
「俺のこと、見ててくれたんすね」
その声だけで、柔らかく微笑む表情が浮かんでくる。いったいどこから聞いてたんだと問い詰めたくもあるけれど、それより、気持ちが溢れてしまいそうで怖かった。
「……桜」
名前を呼んだ瞬間、バラバラと音を立てて雨脚が強くなる。大粒の雨が頭上から容赦なく降り注ぐ。それでも離れることができないのは、桜の熱が心地良いからだ。
冷たい水滴が伝うたび、桜の気配がより鮮明に肌へ染み込んでくるようだった。
「鮎沢さん」
掠れた声が、雨音に紛れて届く。
ようやく腕を緩めた桜は、前髪の隙間から探るような瞳で俺を見つめた。激しく地面を叩く雨のカーテンが、中庭の世界を白く閉ざしていく。
「鮎沢さん。好きです」
それは激しい雨音を突き抜けて、まっすぐに鼓膜を震わせた。
探るようだった桜の瞳が、真っ直ぐにこちらを捉える。胸の奥がどくんと大きく跳ね、喉の奥が熱くなる。
「……バカ」
掠れた声で呟くと、桜の眉がわずかに寄せられた。同時に窄められた口も、拒絶は受け入れないと言いたげな仕草で、なんとも可愛らしい。
俺は少し迷って、だけど今度はその背中に、自分から腕を回した。
「勘違い、とかじゃない……?」
「はい?」
「気の迷いとか、俺の勘違いとか」
「……よくわかんないっすけど、多分違います」
鮎沢さんも、俺のこと——。
耳元で囁かれて、体が芯から火照り出す。確信犯か!と突っ込んでやりたいけれど、もちろんそんな余裕はない。
「好きだよ。桜のこと……大好き」
しがみつくように抱き締めれば、ふっ、と桜の声が漏れる。
「何笑ってんだよ」
「いえ。ただ……嬉しくて」
ああ、もう。降参だ。
再び桜の腕のなかに収まって、白旗を上げる。格好いいのに可愛い後輩が、好きで堪らない。
「……俺も、うれしい」
気持ちを溢れさせると、これ以上ないくらい強く抱きしめ返される。素肌にぴったりとくっついたシャツのせいで、熱がダイレクトに伝わってくる。
心臓が、張り裂けそうだ。
視界の端で、中庭のひまわりが揺れている。
容赦なく降り注ぐ水滴に叩かれながら、けれど強かに上を向いていた。
