二人きりの庭


 正体不明の悪意が再発したのは、学校が再開してから一週間がたった頃。学校全体が騒がしさを取り戻すなかで、中庭にはあの日と同じ淀んだ空気が満ちていた。
 入口に土が散乱していて、嫌な予感に急き立てられるように足を踏み入れる。
「……っ、また……」
 生き残っていた千日紅の花壇が、また破壊されていた。
 前回の比ではないほどの執拗さで踏み荒らされ、紫やピンクの可愛らしい花びらは、土を被って真っ黒に潰れている。
 だけど、不思議なことが一つあった。
 そのすぐ隣で花を咲かせているひまわりは、葉一枚傷つけられることなく、青々と佇んでいたのだ。
 ——ただの嫌がらせじゃない。標的は、千日紅……?
 千日紅もひまわりも、二人で世話していたことには違いない。だけど、桜が特に慈しむようにして育てていたのは千日紅のほうだ。よく丸椅子に座って、花の成長を待ちわびていた。
 まさか、と。
 かつて、桜を捉えていた鋭い視線が蘇る。あの(・・)視線が、じっとりとした悪意に置き換えられる。
 でも、どうしてこんなこと……。
 俺はただ、泥まみれになった手を強く、白くなるまで握りしめることしかできなかった。

 ◇

 九月だというのに、まだじっとりとした朝の空気が淀む。
 サッカー部の朝練が始まるよりも、ずっと早い時間。中庭の円形花壇に腰掛けていると、まだ生徒の気配がない静寂を破って、ざり、と砂を擦る足音が響いた。
「——鮎沢、だよな」
 声をかけてきたのは、サッカー部のジャージを着た男だった。

 二年三組、水川深尋(みひろ)
 屋上で昼休みを過ごしたあの日、二階から桜に視線を注いでいた男だ。
 花壇を荒らされたあと、俺は木村づてにサッカー部の写真を入手して、事前に調べ上げていた。
 切れ長の瞳が、値踏みするような光を宿してこちらを見下ろす。
「うん。はじめまして、水川くん」
 まさか、こっちも知られていたとは。
 まだ誰もいない早朝の中庭。逃げ場のない空間で、水川は薄く唇を歪めた。
「よく今日(・・)だってわかったな」
 その口ぶりは、荒らしの犯人だということをすでに自白している。
 俺は花壇から立ち上がり、水川を正面に捉えた。
「別に、今日だけ張ってたわけじゃない」
「はっ、嘘だろ。毎日?」
「うん」
「こんなバカ早い時間に?」
「そうだよ」
 淡々と、真っ直ぐ水川の目を射抜くと、彼は一瞬だけ怯んだように瞳を揺らした。けれどすぐに鼻で笑い、距離を詰めてくる。
「執念深いな、たかが園芸部のくせに」
「それはどうも」
「で、なんだよ。待ち伏せして俺を捕まえて、教師にでもチクるのか?」
「そんなことしない。ただ、知りたかっただけだ」
 自分と同じくらいか、少しだけ高い上背。だけど、近づけば近づくほど、その身体は違う造りなのだと思い知らされる。
 “たかが園芸部” で過ごした一年で、確かに筋肉は削げ落ちた。でも、ここで過ごした時間がかけがえのないものだということも事実だ。
 俺は傍に佇むひまわりの前で、袋に残しておいた千日紅の残骸を差し出した。桜と修復に努めた花壇の千日紅は、もう残り少ない。
「どうしてこんなことしたんだよ」
「どうしてって、たかが花だろ。気に入らねぇから踏んづけた。そんだけだ」
 水川は残骸と花壇を退屈そうに見下ろす。花の命など、そこには微塵も映っていないかのように。
「嘘だ」
 そう言うと、水川は鬱陶しそうに頭を掻く。めんどくせぇな、とでも言いたげな表情で。
「——桜が育てた花、だからか」
 けれど、その名前を口にした瞬間、水川の薄笑いがぴたりと止まった。ポケットに突っ込まれた彼の拳が、ジャージ越しに硬く握りしめられたのがわかる。
「本当はインハイに出る予定だったはずの桜が育てた花だから、」
「、っせぇよ!」
 鋭い叫びが、曇天の中庭に響き渡る。水川の瞳に初めて感情が宿った。
「てめぇ……外野のくせに知ったような口叩いてんじゃねえぞ」
「木村に写真見せてもらったときに聞いたよ。桜の代わりにレギュラーになったのが、お前だって」
 静かに告げると、水川は歯を食いしばって睨みつけてくる。
 写真を見せてもらったあの時、木村は言っていた。

 ——“桜くんが怪我したせいで、水川が繰り上がりでレギュラーになったらしいんだけどさ。そんで周りのやつら、今回はインハイ予選落ちも覚悟してるって言ってたわ”

 主力だった三年生が卒業し、期待の一年が怪我で出場ができなくなってしまった。そんな状況で押し出されるようにレギュラー入りした水川のプレッシャーは、ひどく重いものだったのかもしれない。
「怖かったんだろ。自分の実力に向き合うのが」
「黙れ」
「桜の影に隠れられたら、自分の役不足を知らずに済んだ。周りから憐憫の目を向けられていたほうが良かった」
「……黙れ」
 身勝手な八つ当たり。歪んだ恨み。
 だけど、必死にプライドを守ろうとする気持ちに共感できないわけじゃない。劣等感に押し潰されそうになりながらもがいている水川の姿が、どうしようもなく一年前の自分に重なって見えた。
 去年の夏、エラーを起こしてグラブを外してしまった俺に。
「……だから、この状況を作った桜を許せなかったのか」
「っ、」
「お前はただ桜を言い訳にして、戦うことから逃げたかっただけだろ」
 水川の顔が真っ赤に染まる。
 次の瞬間、視界がぐらりと揺れた。凄まじい力でジャージの胸元を掴み上げられ、背中が校舎の外壁に打ち付けられる。
 厚い雲の向こうで、音もなく雷の光が走った。
「部外者が、知ったような口聞いてんじゃねえぞ」
 声色は低く、震えていた。至近距離でぶつかる息は荒く、その切れ長の瞳には抑えきれない怒りが、ドロドロと渦巻いている。
「怪我して可哀想な桜クンだの、監督に期待されてた天才だの、うっせえんだよ。周りの奴らみんな、プレー中に注ぐ視線は同じ。俺がしくるたびに『桜がいたら』って顔で見やがんだよ……、直接言ってこねぇくせに……!」
 腫れ物に触るような周りの態度に、自分のプライドが削られていく音を何度聴いたか分からない。水川の痛みも怒りも、あって当然のものだ。
 でも、じゃあお前は、桜の心が削られる音を聴いたことはあるのか。
「だからって、花を荒らしていい理由にはなんないだろ」
 声の波を殺して言えば、水川は頬の筋肉をピクリと弾いて、胸ぐらをさらに強く締め上げた。
「周りに期待を植え付けたまま、アイツは逃げたんだよ。仲間からも、サッカーからも。なのに最近になって、アップに顔出すようになりやがった」
 それを訊いて、胸の奥が一気に沸き立つ。
 桜がどんな気持ちで耐えてきたのか。もう一度チームに戻るため、どれほど必死に前を向こうとしているのか。
 考えるだけで、じわりと視界が熱くなる。
「向き合うまでの時間が欲しかったんだよ。桜は、逃げてなんかない」
「……こんなとこで花に現抜かして、どこが逃げてねえんだよ」
「逃げてない」
「アイツは俺の気持ちなんて、これっぽっちも分かってねえんだよ!」
 その叫びが一年前の自分と痛々しいほど重なり、胸の奥が軋む。だけど同時に、現実から目を背けるために桜を利用していることが許せなかった。
​ 胸ぐらを掴む腕を、俺は目一杯の力で掴み返す。
​「じゃあ、お前にだって——桜の気持ちなんか分かんねえだろ!」
​ 早朝の中庭に響いた叫びに、水川が息を呑む。そのときだった。
「鮎沢さん——ッ!」
 これまでに聞いたことのない、地鳴りのような怒号が飛ぶ。その質量は、水川の身体がビクリと硬直するほどだった。
「桜……」
 中庭に訪れたその姿を認めて、俺は視界を歪めた。感情的になっていたせいか、歯を食いしばっていないと涙が溢れてしまいそうだ。
 桜は焦燥に駆られた足取りで、あっという間に距離を詰める。そして水川の手首を、へし折るほどの力で荒々しく掴んだ。
​「っつ……お前、なんでここに……ッ」
「あんたこそ。なんでここにいんですか」
 よろめいた水川の前、桜は俺を背中に隠すようにして立ちはだかる。その大きな背中が、怒りで硬く強張っているのが分かった。
「お前もわかってんだろ。——俺が、花壇を荒らした犯人だって」
「……はい」
 間を置いて頷く桜に、目を瞬く。
 もしかして、最初から勘付いていたのか。自分が原因だとわかっていたのか。
「すみません、鮎沢さん」
「え?」
「俺が部に戻って、結果で示すべきだって思ってたんすけど」
 背を向けられたまま溢れていく、優しい声。見えていないとわかっているのに、俺はぶんぶんと首を振った。
「謝んなよ。桜も、色々考えてたんだな」
「いえ。遅くなって、すんません」
 それは、俺が隠そうとしたからだ。桜の傷つく顔が見たくなかったんだよ。……わかる?
 後ろからそっと制服の裾を掴むと、わずかに目の前の肩が跳ねる。表情が見えない代わりに、ほんのりと耳が赤くなっていた。
「水川さん」
 桜が口を開いた瞬間、遠くの空で、低く重い雷鳴がゴロゴロと鳴り響く。空気を震わせるように、降り始めの雨粒がアスファルトを叩く。
「あんたには、絶対負けません」
​ その声はひどく静かで、けれど逃げ場のない確信に満ちていた。
​「……は? なんだよそれ」
​ 水川の手が小刻みに震える。歪んだ笑みを浮かべる姿は、いま必死に自分を保つための手段なのかもしれない。
​「期待の天才が、鮎沢センパイを庇ってお怒りか? 足壊して、脳みそまでおままごとに染まったわけ?」
「あんたがそう思いたいなら、それでいい」
「はっ。俺がどんな目で見られてるか、これっぽっちも興味ねぇんだろ。……目障りなんだよ、お前」
​ 吐き捨てられた毒に、桜は眉ひとつ動かさない。ただ冷徹に、その退場を促すように見下ろしている。
 水川はチッと苦々しい舌打ちを残すと、乱暴な足取りで中庭を去っていった。