二人きりの庭

 桜のことが好きだ。
 そう自覚してからも、日常は何事もなく過ぎ去っていた。だけどあの日芽生えた気持ちは、胸の奥でチリチリと熱を帯びている。
 いまだって時々、隣に座る桜の大きな手を見ているだけで、手のひらに寄せられた頬の温度が蘇る。部に復帰するため、毎朝ジョギングを怠らないその篤実な性格にも、胸が締め付けられる。
 だけど、同性からの想いはきっと桜を困らせる。伝えるつもりはないけれど、その代わり、桜が復帰するまでの間はそばで見守らせてほしい——俺は密かにそう願った。
「ひまわりって、こんなに早く育つんすね」
「発芽まではな。ここから開花するまでは、もうちょいかかるけど」
 じょうろの先から零れる水が、真夏の光を浴びて輝いている。ふと視線をやれば、数日前まで頼りなかった緑の茎が、ぐんぐんと天に向かって背を伸ばしていた。
「なんか、焦るな。置いていかれそうで」
「え?」
「いや、なんか……あっという間に花を咲かせちゃいそうだなって」
 この花と同じように。どんどん膨らんでいくこの感情が、少し怖い。
「俺は、早く見たいです。……鮎沢さんと」
 桜がひどく甘い声で言うから、蓋をしようとしていた想いがふと溢れそうになる。隣をこっそり見上げれば、最初に出会ったときには想像できないくらいの柔らかい笑みが、息を詰まらせた。

 そんな、穏やかで愛おしい日常。
 それを覆すような事件が起きたのは、夏休みが明ける一週間前のことだった。

 その日は、じっとりとした湿気を含んだ朝の空気が、校舎の隙間に淀んでいた。
 休み中もすっかり日課になった水やりをするため、俺はいつものように一番乗りで中庭へ向かった。じょうろを片手に、千日紅を植えた花壇の角を曲がる。
「……え」
 視界に飛び込んできた光景に、思考が真っ白に染まった。
 じょうろが手から滑り落ち、硬いコンクリートの床にカラン、と高い音を立てて転がる。

 荒らされていた。
 二人で土を耕し、汗を流して水をやり、ようやく紫やピンクの丸い花を咲かせ始めていた千日紅。その半分以上が、見るも無惨に踏みにじられていたのだ。
 黒い土に塗れて潰された花びら、そして、まだ瑞々しい緑の茎が、鋭い刃物か何かでなぎ倒されたように散乱している。
「嘘だろ……なんで……」
 震えそうになっていた足をどうにか動かし、泥の中にへたり込む。
 飛び散った土の上には、不自然な靴の跡が残っていた。
 鳥や野良猫の仕業なんかじゃない。明確な悪意を持って、人間がこの場を踏み荒らしていったのだと分かった。
 ——誰が、どうして。
 せり上がる怒りと戦いながら、俺は必死に散らばった花を拾い集めた。
「鮎沢さん? どうしたんですか」
 背後から足音が近づいて、弾かれたように顔を上げる。少し前まで不自然に引きずられていた足音も、最近は違和感がなくなってきたな、と。場違いなことを考えながら、俺は息を整えた。
「これ……何すか」
 説明するよりも先に、桜の瞳が泥にまみれた千日紅の残像を捉える。
 ハーフパンツから覗く右足が、微かに震えている。冷たい気配が、中庭の空気を支配していくのが分かった。
「おはよ、桜。たぶん……カラス、かな」
「カラス?」
 無理やり作った笑顔を桜に向ける。散らばった花びらを両手で隠すようにして、嘘を重ねた。
「せっかく二人で育てたのに、残念だけど」
 桜は何も言わなかった。泥にまみれの俺の手と、不自然に踏み潰された土の跡を、ただ静かに眺めていた。
「……俺も、手伝います」
 静かに深く、感情を押し殺した声だった。
 土に残る足跡からも、人の仕業であることは明らか。それでも桜は、ついた嘘を咎めたりはしなかった。
 誰かの悪意によって、中庭が荒らされた——そんな陰惨な事実を突きつけたくないという意図を、桜は受けとめてくれたのかもしれない。
「大丈夫。また違う種も調達してくるし」
「はい。……けど、悔しいっす」
 うん。俺も、めちゃくちゃ悔しい。
 残骸を拾い集めながら、拳を強く握りしめる。

 —— “千日紅(はな)が気持ちよさそうに見えます”

 大切に花を育ててくれていた桜の横顔が浮かんで、怒りが沸き上がる。守れなかった自分にも腹が立つ。
「絶対、つぎはさせないから」
 自分にも言い聞かせるように呟くと、桜は「俺もです」と頷いた。