やがて梅雨が明けると、本格的な夏がやってきた。
夏休みに入ると、学校からは一気に生徒の気配が消え、校舎全体がじっとりとした静寂に包まれる。けれど園芸部にとっては、朝夕の水やりが欠かせない過酷な季節の始まりでもあった。
「ふぅ……、あつ」
ジリジリと照りつける太陽の下、俺はホースのノズルを握り、中庭の花たちに水を撒いていた。
きらきらと光る水飛沫が、じりついたロータリーの空気をじゅわりと冷やす。
「鮎沢さん」
背後からかけられた低い声に、心臓が小さく跳ねた。
振り返ると、そこには白のTシャツにハーフパンツというラフな姿の桜が立っていた。ジョギングをした帰りなのか、首筋には汗の粒が光っている。
「桜、おはよ」
「うす。俺もやっていいですか」
「もちろん。けど、濡れないように気をつけろよ」
まさか、夏休み中も顔を出してくれるとは。
休み中も来るんですか? と訊かれはしたけれど──まさか、だった。
内心浮き足立ちながらホースを渡すと、桜の大きな手が肌をかすめる。そのわずかな接触だけで、鼓動が逸った。
桜は俺の仕草を倣うように、器用にホースの先を絞って水を注ぎ始めた。
「これでいいすか」
「うん。うまいうまい」
「気持ち良さそうですね」
「ん?」
「水浴びできて、千日紅が気持ちよさそうに見えます」
なんだか、少し泣きそうになった。
最初は植物への興味なんてあまりなさそうだったのに。大切に育てている花たちを、桜も優しい目で見つめてくれる。この居場所を受け入れてもらえたような気がして、視界が滲むのをどうにかこらえた。
特に千日紅は桜のお気に入りらしく、丸椅子に座って眺めている姿を、最近よく見かけていたっけ。
「そうだな。桜が水やってくれんの、俺も嬉しい」
照れ隠しに笑うと、桜は花壇に視線を落とす。日焼けのせいか、露わになった項がほんのり赤い。
その姿にまた、さらに鼓動が逸る。
白Tシャツの背中に浮かび上がる、しなやかで逞しい肩甲骨のライン。水を吸い上げるように上下する喉仏。首筋から鎖骨へと流れていく汗。
無愛想に見えるけど真っ直ぐで、自分を慕ってくれる可愛い後輩。それなのに、二人きりの庭で見上げる彼の身体は、容赦なく一人の男としての印象を刻みつけてくる。同じ男のはずなのに、自分とはどうしてこうも造りが違うのだろうと、触れてしまいたくなる。
――ああ、くそ……カッコよすぎる。
精悍な彼の空気に中てられ、視線を逸らそうとしたそのときだった。
「鮎沢さん」
「うわっ、ちょっと、桜!」
呼ばれて振り向けば、いたずらっぽく向けられたホースの先から水飛沫が舞う。それはスプレーのように首筋や顔を冷やして、思わず体を弾いた。
「暑そうだったので」
え、あ、そういうこと? と納得しかけた瞬間にまた、水飛沫がプシューッと舞う。冷たい。
「ちょっ……バカ、」
「少しは涼しくなりました?」
いたずらなんて無縁だと思っていた桜の、無邪気な笑顔にきゅんとする。カッコいいのに可愛くて、なんだよそれ、反則だろ。
とはいえ、やられっ放しのままではいられない。
「仕返しだっ!」
「うわっ」
ホースを奪おうと手を伸ばした拍子に、桜はそれを避けようとして大きく水が跳ねる。計算通りではなかったけれど、今度は桜の胸元を派手に濡らした。
蝉の声が響く中庭で、弾ける水飛沫がキラキラと光を反射する。お互い水浸しだ。
「鮎沢さんより濡れました」
「ははっ、先輩にいたずらするからだぞー」
勝ち誇ったように歯を見せると、桜は肌に張り付いたTシャツの胸元を軽くつまみ、困ったように眉を下げた。けれど、その瞳は太陽を吸い込んでひときわ美しくきらめいた。
「鮎沢さんも、顔すげぇ濡れてます」
「お、本当だ。けっこうかかったなぁ」
袖口で顔を拭おうと、ほんの少し視線を落とした瞬間だった。
視界が、ふわりとなにかに覆われる。桜の匂いが、これまでと比にならないくらいに鼻腔を満たす。
「……え?」
桜が自分の首にかけていたタオルを、頭からすっぽり被せてきたのだ。
驚いて動きを止めた俺の頭上から、タオル越しに大きな手が添えられる。そしてそのまま、頬や額についた水滴を驚くほど丁寧に、ゆっくりと拭い始めた。
「っ、待っ、自分で拭けるから……」
「すぐ終わりますから」
遮られた声はいつもより少しだけ大人びていて、俺は口を噤んだ。
ふと、タオルの隙間から覗いてみれば、桜の首元が映し出される。ほんの少し顔を持ち上げれば、じっとこちらを見据えた瞳とかち合って、身動きが取れない。
呼吸を、忘れる。
「さくら……」
無意識だった。熱を持て余した体から、不意に零れ落ちる。すると、桜の薄い唇もわずかに開いて、熱い吐息が鼻先をかすめた。
「鮎沢さん」
掠れたその響きに、心臓が跳ね上がる。
桜の手が、頭上からするりと首元へ降りてくる。
さっきまで冷たいとわめいていたはずなのに。ゾクリと肌は粟立つのに、体には熱がこもったまま。見つめ合う瞳の奥で、何かが濃密にどろりと融けていくような錯覚に陥った。
——男相手に、こんなこと。
けれどブレーキが全部焼き切れてしまったみたいに、俺はただ、桜の手の中で立ち尽くすことしかできなかった。
「——あれ? 桜くんじゃん。よーっす」
唐突な来訪だった。
密度の高い空気はその声によって弾け飛び、首元に添えられていた温度は名残惜しそうに離れていく。頭にかかったタオルを慌てて剥がすと、じりじりと焼けるような夏の光が、一気に視界を焼いた。
「なんだ、やっぱりアユもいんじゃん」
「木村……」
中庭の入り口に立っていたのは、クラスメートの木村だった。桜と対面しているところを見るのは、屋上で昼を共にしたとき以来か。
肩にスポーツバッグを提げているところを見ると、これから部活なのだろう。
「てか、なんでお前らそんなびしょ濡れ?」
木村は俺たちの格好を見てケラケラ笑う。
「もしかして水遊び? 意外とやんちゃだなー」
「ちが……花の手入れして、掛かっちゃったんだよ」
心臓の音が漏れてしまわないように、必死に声を絞り出す。まだ熱をもったままの頬を、桜のタオルで軽く覆う。すると木村はすでに興味を失くしたようで、「つーかさァ」と俺の肩を組んできた。
「今日部活何時までよ」
「は? いや、別に決めてないけど……」
「野球部のやつらに誘われたんだけどさー、六時からの合コン」
野球部——そのフレーズに脈がドクンと深く沈む。
木村は桜を傍目に捉えながら、ひそひそ話をするように耳元に手を添えた。言いたいことは、もうなんとなくわかる。
「でさ、桜くん連れて来てくんない?」
「やだ。無理」
被せ気味に拒絶すると、木村は「えー、冷たっ!」と大袈裟に肩をすくめた。
「つーか離れろよ、ちけぇし」
「なんだよー。俺たちの仲じゃん」
木村はへらへら笑いながら、首元に腕を絡めようと距離を詰める。男同士の、いつもの悪ふざけ。だけど、その腕が俺の肌に触れるより早く、ぬうっと大きな影が滑り込んできた。
ザザッ、と中庭の乾いた砂が乱暴に踏まれる音がする。——桜だった。
「あの、嫌がってます」
「い、だだだだだっ」
木村の腕をがっしり掴み上げた桜は、俺の目の前に立ちはだかる。まだ水を吸い込んだままのTシャツは、その大きな背中を透かしていて、ちょっとだけ目に毒だ。
「桜く、っ、ギブギブッ! わかった連れてかないから放して!」
悲痛を叫ぶ木村の声で、桜はようやく腕を解放する。だけど、俺を庇うように聳えた背中は、冷ややかな憤りを堪えているように思えた。
「……ほら木村、そろそろ部活遅れるぞ」
「うわっ、まじぃ。桜くん、もう無理に誘わないから! ごめんな!」
後ろから助け船を出してやると、木村は慌てて中庭から去っていく。最初に出会ったとき、俺自身も桜の気迫に圧倒されたことがあるので、木村の反応には頷ける。……ただ、理由もなく人を威圧するような奴ではないはずだ。
静寂が戻った中庭で、蝉の声だけが降り注ぐ。
木村の姿が見えなくなっても桜は前に佇んだまま、地面の千日紅を見つめていた。まるで、叱られるのを待っている犬のようだ。
「桜?」
正面に回り込むと、桜はゆっくり顔を上げる。濡羽色の瞳が、あからさまに不満を孕んでいた。
「……あの人、いつもあんなんですか」
ぽつりと、掠れた声が落ちる。
「気悪くした? ごめんな」
「どうして鮎沢さんが謝るんですか。あの人の代わりに」
ぐいっと近づく顔面に、思わず仰け反る。
「いや……だって、合コンがどうとか言ってたろ?」
「はい?」
「桜を連れてきてほしいって、聞こえてたんだろ?」
勝手に話を進めるなって。だから、木村に怒ったんだろ?
そう訊いてみたけれど、桜は訝し気に眉をひそめる。ゴウコン? と、まるで初めてその単語を聞いたかのように反芻する。
「え、違うの?」
「違います」
「じゃあ、なんで……」
まばたきを繰り返す俺に、桜は一歩、逃げ道を塞ぐように踏み込んできた。濡れたTシャツから、彼の高い体温がじりじりと伝わってくる。
「あの人が、鮎沢さんに触ってたから」
「え……?」
「屋上のときもっすけど。あんな距離、簡単に許さないでください」
ぽつり、ぽつりと、低く掠れた声で吐き出される言葉が、都合のいいように変換される。
——これって、もしかしなくても……いや、いやいやいや。
「鮎沢さん、あの人には遠慮ねぇし」
それは、真っ先に拒絶したときのことを言っているのだろうか。
確かに木村とは同じクラスで仲が良い。だけど、あんな風に言ってのけたのは『野球部』というフレーズを出されたからだ。……桜を合コンに連れて行きたいと、言われたからだ。
「桜、あのな……」
「俺は——誰にもここを、邪魔されたくないです」
期待を鎮めようとしていた矢先、真っ直ぐな瞳に射抜かれる。どうしようもなく甘く、重い独占欲が心を満たしていく。
気付けば俺は、桜の顔に手を伸ばしていた。
「……」
親指が吸い付くように、頬に触れる。掬ってやるものなど何もないのに、何度もそこを滑らせた。
「水……ちょっとついてた」
「そう、すか。……あざす」
桜は拒むこともせず、俺の手のひらに頬を預けるようにして、小さく目を細めた。すりすりと手に擦りつけられる温度が愛おしい。
──もう、誤魔化せない。
年上としての理性が、夏の生ぬるい空気の中で心地よく。けれど確実に、崩れていく音がした。
