二人きりの庭


 ◇


「つーか、アユが知らん間にこんなイケメン捕まえてるなんてなー」
「たしかに。お前らどういう繋がり?」
 クラスメートたちの、揶揄うような質問に眉をひそめる。
「まあちょっと、いろいろあってさ」
 焼きそばパンの袋を指先で弄びながら、俺はあいまいに言葉を濁した。

 どうしてこうなったのだろう、と息を吐く。
 昼に誘ってくれた桜と廊下で合流したとき、ちょうど通りがかったクラスメートたちに巻き込まれてしまったのだ。断る間もなく「いいじゃん、多い方が楽しいし」と桜ともども強引に背中を押され、この屋上まで流されてしまった。
 ——……桜からの、貴重な誘いだったのに。
「まあ良かったよ。アユにも慕ってくれる後輩ができてさ」
「そうそう。花屋は新入部員いないんだろ?」
「つーか、ほんとこの学校廃部になんねえよなぁ。部員一人って」
 園芸部のことを『花屋』と称して憐れむ友人たち。俺は「余計なお世話だ」と小突きながら、そばに座る桜を見上げた。
 人付き合いが苦手だと言っていた桜は入口の段差に座り、黙々とパンを頬張っている。ときどき質問が飛んでくれば「はい」「いえ」と淡白に応答していた。
 もっと話せば、面白いやつなんだけど。と、内心思わなくもない。無愛想に見えて意外と優しい——そういう桜の良いところを、たぶんこの場で俺だけが知っている。
「どうかしました? 」
 じっとその横顔を眺めていると、桜の表情がふっと解ける。
 友人たちに対しては表情を動かさない桜が、自分には特別心を許してくれているように思えて、心臓が静かに脈打った。
 そういえば、この集団に巻き込んでしまったことを、まだしっかり謝れていなかったっけ。
「あのさ、桜、」
 そう切り出したところで、言葉を詰まらせる。
 お調子者の木村が「なあなあ」と肩を組んできたからだ。わずかに汗ばんだ熱が肩に伝わる。木村は俺に体重をかけながら、桜を見上げた。
「もしかしてさ——桜くんって、あの桜くん?」
 屋上に吹く風が、冷たく肌を掠める。桜は動きを止めた。
「“あの”ってなんだよ」
「いや、サッカー部のやつらが言ってたんだよ。今年は一年がやべえって」
「そうそう。すごいのが入ってくるって騒いでたわ。まあ大した事ねぇって言ってるやつもいたけど、あれは半分嫉妬だな」
 桜と俺を取り残して、会話が進む。
「そこに『桜』って名前の一年がいるって聞いたんだよ。ほら、うちってサッカー強豪だろ? 監督直々にスカウトしたって噂」
 ふっ、と場が静まった瞬間、全員の視線が矢のように桜へ向かう。そして、それは徐々に下っていく。
 不自然に制服のズボンを押し上げるサポーターの形。その実物を目にしなくても、違和感には気が付くはずだ。
「なあ、その足さあ」
 沈黙を破ったのは、またしても木村だった。
 鋭い矢がその琴線に触れそうになる。胸の奥で、ドクンと嫌な鼓動が跳ねる。
 悪意のない周囲の詮索がどれほど心を削るのか。それを、よく知っていたから。
「あーっ、喉渇いた!」
 木村の腕を振りほどき、解放された体を伸ばす。突然大声をあげた俺に、周囲の目がぎょっとしたように見開いた。
 不自然なのは、こっちも承知だ。
「なんだよ急にー、ビビらせんなって」
「桜、悪いんだけどちょっと自販機付き合って。なんか奢るから」
 立ち上がってにっと笑い、桜の手首をすこし強引に掴みあげた。主導権はこちらにあるはずなのに自分のものより骨張っていて、不覚にもドキリとする。
 動揺を振り払うように、俺は足を動かした。
「は? おいアユ……」
背後から飛んでくる声を置き去りにして、重い鉄扉を押し開ける。指先で触れた桜の脈が、ドクドクと呼応してくれるようで心地いい。
抵抗ひとつせず、俺の歩幅に合わせてくれる桜を振り向けば、まだ少し驚いたような顔でこちらを見据えていた。


「喉、渇いてないですよね」
 ガコン。自販機から重い音が響く。
 俺はスポーツ飲料を拾い上げ、桜にそれを見せつけるように掲げた。
「渇いてるよ。だから買ったんだし」
 まあ、本当は桜の言う通りなんだけど。
「ほら、桜も好きなの押しな。奢っちゃる」
「いえ……俺はまだ残ってるんで」
 桜は顔を持ち上げる。その視線の先では屋上のフェンスが太陽を反射していた。先ほどまで一緒にいた友人たちの姿は、さすがにこの校舎裏からは窺えない。
「飲みモノ、置いてきちゃったか」
「はい」
「じゃあ新しいの買っていいぞ」
「いや、でも」
「大丈夫。残ったのは後で回収しとくから」
 きっとあいつら、持ってきてくれると思うし。
 そこまで言うと、桜は渋々ボタンを押す。そして、今度はコトンッと軽快な音を立てて落ちてきた。
 果汁百パーセントのオレンジジュースが、桜の手のひらにすっぽりと収まる。意外なチョイスだ。
「……あざす」
 ぺこりと軽く頭を下げて、桜はストローの袋を剥がす。その隣で俺はキャップを回し、冷たいスポーツ飲料をぐっと喉に流し込む。
 屋上の騒がしさから離れたおかげか、二人になれたことへの安堵が、冷えた液体と一緒に染み渡っていくようだった。
「桜、あのさ。……ごめんな、せっかく昼誘ってくれたのに」
「いえ」
 ストローをパックに刺しながら、桜はぽつりと言った。
「こっちこそ、急に誘ってすんませんした」
「いやいや、謝んなよ。俺すげぇ嬉しかったから。つーか、なに邪魔してくれてんだお前らーって感じで。あ、アイツらに対してな?」
 まくしたてるように言ってから、あ、と内心で頭を抱える。桜の少し縮こまったような態度を見ていたら、誤解されたくないという焦りが勝って、思わず剥き出しの本音が滑り落ちていた。
 やってしまった、と耳の付け根がじわじわと熱くなっていく。
「……」
 案の定、桜はストローを咥えたまま動きを止める。気まずさに耐えかねて、顔を覆った。 
 ……くそ、恥ずかしすぎる。
「良かったです」
 そのとき、柔らかくほどけるような桜の声に、指の隙間を少し広げた。
「ほんと?」
 と尋ねれば、桜の耳元はほんのりと赤くなる。まるで、こちらの熱が伝播したように。
「次、また誘ってもいいですか」
「……っ、あたりまえだろ」
 そんなこと言われたら、これ以上続けられなくなる。胸の奥がくすぐったいような、心臓が跳ねるような。甘い熱がじわじわと広がっていく。風通しの良い校舎裏が、急に狭い空間に思えて仕方がなかった。
 そして、どこか照れくさい静寂を破るように、桜はぽつりと言った。
「あの、鮎沢さん」
「……ん?」
「俺の足——前十字靭帯の断裂ってやつです」
 何の前触れもない、ひどく乾いた響きだった。
「鮎沢さん、気づいてましたよね。俺が足に爆弾抱えてるって」
 言われて、喉がきゅっと締まる。
 桜の言う通りだった。最初に出会ったときから、本当は気づいていた。
 サッカー部で大きな期待を背負わされていたことを知ったのは、ついさっきのことだけど。
「桜。話したくなかったら、話さなくて良いから」
 知りたい、と思うのは傲慢だ。腫れ物に触るような視線も、無神経な期待も、今の桜にはすべてが重荷になるだろうと思っていた。
 だから、小さく首を振る桜には驚かされた。本当に、話す相手は俺でいいのだろうか。と、もう一度問おうとして飲み込んだ。今は桜の気持ちを大切にしたかったから。
「最初の練習試合で、たぶん気負いすぎてたんだと思います」
 桜はストローの縁を見つめたまま、ぽつりと落とす。 
「病院で診断書をもらって、監督からインハイ予選には出せないって言われました。そんでむしゃくしゃして、あの中庭に」
 淡々と言葉を紡ぐ桜のなかに、初めて会った日の彼を重ねる。刹那、初夏のまばゆい光の中で、冷たく凍りついている桜の横顔。
 その表情が、胸の奥に眠っていた(おり)を静かにかき乱す。

 ——忘れもしない。
 一年前、夏の野球選手権地方大会準決勝。
 八番を背負った俺は、その日も颯爽と守備についていた。高く打ち上がったボールの軌道を読むことには長けていたし、いつも通り空を仰ぐだけ。
 それなのに、ボールは燦々と照る夏の太陽に重なって、視界から消えた。
 ——ごめ、なさい……ごめんなさい……。
 あれがなければ、勝っていた。あのアウトひとつで、先輩たちの悲願が達成されていたかもしれない。だけど、光のなかに見失った白球は無情にもグラブのわずか先へと落ち、芝生の上を転がっていた。
“タイムリーエラー”
 歓声が悲鳴に変わり、世界の音が遠のいていく。
 あのとき、自分のせいで終わってしまった試合の、眩しすぎる青空と焦げ付くような土の匂いは、今でも脳裏に焼きついて離れない。

 空を仰ぐことさえ怖くなった。
 責任をとる格好を見せながら、その実、責任から逃げるように園芸部へ転部した。
 グラウンドから姿を隠せる中庭が心地よくて、最初は花の名前も知らないような状態で居座った。だけど、先輩たちとともに花の命を数えるたび、俺にとってかけがえのない居場所になっていた。
 ——ネモフィラの花言葉は、“あなたを許す”って言うんだよ。
 花壇に青い絨毯が広がった春の日。先輩たちは餞別として、俺にその言葉をくれた。
 だからあの日、傷だらけの桜が中庭に迷い込んできたことを、どこか運命のように感じていたのかもしれない。

「そっか。……ありがとな、話してくれて」
 俺は自分より高いところにある頭に手を伸ばす。風になびく髪をくしゃっと撫でてやれば、桜はそっと目を眇めた。
 喉がひくりと上下する。耳元から首筋まで、みるみる赤く染まっていく。
「鮎沢さん……っ」
 縋るように名前を呼ばれて、胸がきゅんと締め付けられる。桜には悪いけど、なんだか大型犬を手懐けているようで、少し癖になりそうだ。
「うん? どうした?」
「あの俺、子どもじゃないんすけど」
「やだ?」
「……いや、ってゆーか」
 撫でている手の下で、きゅっと口を窄める仕草が可愛い。だけどさすがにやりすぎだったのか。桜は頭上においた手をとって、
「もう大丈夫です」
 と不服そうに告げた。なにかに抗うように、ぎゅっと握られた手。伝わる体温が妙に熱い。
「……桜?」
 そのとき、放そうとした手は再び桜の手のひらに捕らえられる。今更「子どもじゃない」と言った彼の言葉が、心臓を貫いた。
 ――男相手、なのに。どうしてこんな……。
 動けなかった。手を引くことも、声を出すことも忘れて、自分の手を握り込んだままの桜を見つめ返した。
 キーンコーン──。
 予鈴が鳴り響いたのは、そのときだった。
「あ、」
 心臓を素手で掴まれたような衝撃に、弾かれたように我に返る。桜もハッとしたように目を見開き、慌てて手を放した。
 解放された手のひらが、急に触れた風の冷たさにじんわり痺れる。
「も、戻るかっ、授業始まるし」
 どうにか声を絞り出したが、喉の奥がカラカラに乾いている。間違いなく、動揺も隠しきれてない。
 ——桜も桜だ。男相手に、あんな真剣な顔するなんて。
 俺は逃げるように背を向けて、早足で歩き出す。すると、さっそく後ろから「鮎沢さん」と呼ばれてしまった。
 逃げたいと思っていたのに、嬉しいなんて。もうだいぶ重症だ。
「今日も、中庭行ってもいいですか」
 不安げに向けられる視線がかわいくて、思わず口をキュッと結ぶ。
「うん。いいよ」
 待ってる。
 そう笑ってみせれば、桜はふるりと瞳を震わせた。不安が解けたからか、あからさまに嬉しそうなその表情に心が浮つく。
「じゃあ、またな」
「……うす。お疲れ様です」
 名残惜しそうに歩き出す背中を見送りながら、自分の胸に手を当てる。
 ドクドク、と。うるさいくらいの鼓動がもたらす甘い痛み。その正体は、心にゆっくりと根を張り始めていた。


「ん……?」
 それは、校舎内に戻る直前のこと。
 なんとなく二階の窓を見上げて、首を捻る。一人の男が、去っていく桜の背中をじっと見据えていたからだ。
 爽やかな陽気の中でそこだけがじっとり湿った、嫌な気配を放っていた。