二人きりの庭

 中庭はまた、元の静寂を取り戻していた。
 たった数時間、一緒にネモフィラの種を取っただけなのに。手元に残った小さな黒い粒を見つめていると、あの時間だけがなぜか特別なものに思えてしまう。肌をかすめた石鹸の匂いも、たまに素っ頓狂な発言をする声も、ゆっくり日常の隙間に溶け始めていた。
 その“特別”が、容赦ない質量を持って戻ってきたのは、一週間が過ぎた木曜日のことだ。

 四限目の授業が早く終わり、友人と渡り廊下を歩いていたとき、ふとグラウンドに視線が向いた。
 まばゆい初夏の光の向こう、ベンチにぽつんと大きな背中が座っている。
 ――桜だ。
 声にはならなかった。
 ただ、心臓の奥が冷たく爆ぜる。周囲の賑やかな熱気から一人だけ切り離されたようなその後ろ姿は、見ているこちらが苦しくなるほど寂し気だ。
「アユ、どうした?」
「ごめん、ちょっと先戻ってて」
 友人の声を置き去りにして、俺は吸い寄せられるように駆けていた。
 グラウンドでは、赤と黄色のビブスが砂埃の中で激しく翻っている。
「桜」
 呼びかけると、ジャージ姿の後輩が顔を上げた。気だるそうだった濡羽色の瞳が、俺を認めた瞬間にぱちぱちと瞬く。
 その些細な変化だけで、満たされる自分がいる。
「……ちわっす」
「中庭以外で会うの、初めてだな」
 なんでここに? と言いたげな桜。その隣に腰を下ろして、グラウンドを見据えた。
「授業早めに終わってさ。化学室にいたんだけど」
「そうなんすね」
「桜は見学?」
「はい」
「そっか。今日は暑すぎなくて気持ちいいよなぁ」
 ぐっと伸びをすると、軽やかな風がふたりの隙間をそっと抜ける。
 そのとき目に入ったのは、ハーフパンツの下で露わになった桜の脚だ。投げ出されたその膝には、黒い太幅のサポーターが巻きつけられている。
 ――やっぱり、そうだったか。
 推測が確信に変わる。中庭ではジャージに隠れていたけれど、桜が脚を悪くしていることには気が付いていた。それが、桜自身の枷になっていることにも。
「化学って、俺まだやってないです」
「だ、よな。一年だと文理選択もまだだしな」
 俺はなんでもないように笑いながら、グラウンドへ視線を逃がした。
「桜はどっちにするとか、決めてる?」
「いえ、そういうのはまだ」
「だよなぁ。まだ入ったばっかだもんな」
「鮎沢さんは理系なんすか」
「うん。まあ特別優秀ってわけじゃないけど、得意な方をとったって感じ」
「え……数学もっすか」
「お、なんだなんだ。桜は数学が苦手かー?」
「まあ……つーか俺、勉強はほとんど苦手です」
 そう言って眉間をわずかに寄せる顔は、どこか居心地が悪そうで。だけど、はじめの緊張感はふっと薄れた。
「なんか意外。桜はそういうの、卒なくこなすタイプかと思ってた」
「それっぽいこと、クラスの女子にも言われました」
 クラスの女子ねえ……。と、食指が動く。
「なんて言われた?」
「勉強できそうなのに、って言われました」
「それなら私が教えてあげる、とか?」
 わざとらしく声のトーンを変えれば、桜は「なんでわかったんすか」と目を白黒させる。おそらく女子の下心にはこれっぽっちも気付いていないのだろう。そのあまりの鈍感さが、桜らしくてなんだか可笑しい。
「桜は格好いいからなー。女の子がそう言う気持ちもわかる」
「はあ。俺はよくわかりません」
「あっはは、そう言うと思った」
 力を緩めるように笑えば、桜は顔の周りにハテナを散らす。この様子を見るに、女子たちへの反応も芳しくなかったのだろうなと少し同情した。と同時に、そんな桜に安堵を覚える。反対に、桜が『教えてあげる』と迫られる場面を浮かべると、胃の奥がじりじりと灼けるような嫌な熱がこみ上げた。
「――鮎沢さん?」
 覗き込んできた綺麗な瞳に、ハッと我に返る。
 知り合って間もない後輩の交友関係に、何を焦っているのだろう。
「ごめん、なんでもない。じゃあ、そろそろ戻るな」
 四限の終わりを告げるチャイムが鳴り、立ち上がる。すると、桜はあからさまに肩を落とした。分かりやすく淋しそうな顔を見ていると、先ほどまで胃を焼いていた靄がすうっと引いていく。代わりに、心臓が鷲掴まれた気分だ。
「あの、鮎沢さん」
「ん?」
「昼、一緒にいいっすか」
 射貫くような視線に、思わず息を吸い込む。
 後輩からの誘いがこんなにも嬉しいなんて。いや、嬉しいのはきっと――相手が桜だからだ。
 頷くと、桜はサポーターの巻かれた左足を慎重にかばいながら立ち上がる。
「じゃあ、またあとで」
 俺が手を振る間もなく、その背中はグラウンドのなかへ溶けていった。