二人きりの庭


 ◇

 本当に来るだろうか。
 翌日の放課後、俺は低い花壇の前にしゃがみ込みながら悶々としていた。無心になって作業できることが園芸部の、中庭手入れの美点だと思っていたのに、今日はそわそわと落ち着かない。
 昨日はあの後、足を引きずっていた桜を保健室へ連れて行こうとしたけれど、丁重に断られてしまった。
 ――原因は分かってるんで。
 と、やはり淡白に告げられた。だけど、その響きのなかに脆さを感じたのも事実だ。

「鮎沢さん」
 不意打ちだった。西日を遮るように影が落ち、弾かれたように振り返る。
 そこにはジャージ姿の桜が立っていた。すらりと伸びる長い影を見上げれば、表情の薄い、それでいて冷ややかなまでに整った顔がこちらをぬうっと覗き込む。
「すんません、遅くなりました」
「お……ほんとに来た」
 そう言うと、桜は不服そうに眉をひそめた。
「疑ってたんですか」
 責めるような響きはない。ただ、わずかに声を低くして目を逸らす。クールな見た目なのに、感情の機微が分かりやすくて少しおかしい。
「ううん、待ってた。それより桜、ここ座って」
 俺は足元に用意していた、背の低い丸椅子をぽんと叩く。備品庫から引っ張り出してきた代物で、座り心地が良いとは言えないけれど。
「あの、これは……」
「ないよりマシだと思って。慣れてないとしゃがむのキツいだろ?」
 ほら、と差し出せば、桜は目を瞬く。そして、すでに盛りを過ぎたネモフィラの花壇をじっと見つめた。
「ありがとうございます。……鮎沢さんは平気なんすか」
「俺はもう慣れっこだから」
 にっと見上げて笑えば、桜はようやく丸椅子に身体を預ける。左足をそっと投げ出すようにして、大きな身体が同じ目線まで降りてくる。昨日のツンとした香りとはまた違う、やさしい石鹸の匂いがふわりと漂った。
 そうか。今日は『直接』ここに来たから――。
 ただの口約束を果たすために来てくれた。それにきっと、自分のことを気にかけてくれている。
 やっぱり律儀でいい子だよなあ、と頬を緩めれば、隣に沈んだ気配がまた不服そうにしているのが分かった。何をまた笑っているんだ、と訴えるように。
「じゃあ、さっそく――」
 気配が近づいたのは、そのときだった。段取りを切り出そうとした唇がかすかに戦慄く。
「さ……さくら……?」
 すぐ目の前、桜の顔が驚くほど至近距離にある。目線がぴたりと、同じ高さで絡み合う。さっきまで高いところにあったはずのふてぶてしい顔が、一気に視界を埋め尽くす。
「土、付いてます」
「へ?」
 素っ頓狂な声で応えた瞬間、頬にひやりとした体温が触れる。土を拭ってくれたのだと理解するまで、俺はしばらく放心していた。
「あ、ありがと……」
「いえ」
 いやいや、男相手に何ドキドキしてんだよ。
 内心で頭を激しく振り、花壇のネモフィラへ視線を逃がす。その間もまっすぐな視線がじっと焼きつくようで、心がちっとも休まらない。
「え、ええと! じゃあ、さっそく始めるか」
 上擦った声が、中庭にひどく間抜けに響いた。今度は別の意味で、耳まで熱くなっていく。今日の目的である『ネモフィラの種取り』を説明している間も、しばらくその熱は収まらなかった。

「わかりました。やってみます」
 桜は大きな手を伸ばし、茶色く乾いたサヤをそっと指先で摘む。カサと小さな音がして、割れた殻から小さな粒が、俺の差し出した手のひらへとこぼれ落ちる。
 桜の手先は想像以上に器用だった。繊細な作業がよく似合う指だ、なんて。思わず見惚れてしまうくらいには。
「ん、そうそう。うまいなぁ」
「あざす」
「これでまた種を植えるんだ。ネモフィラ、見たことある?」
「いえ、ないです……たぶん」
「あははっ、俺も最初は似たような反応したなぁ」
「そうなんすか?」
 傍らに置いていたタッパの中に種を落とす。すると底に敷いたキッチンペーパーの上に、黒い粒がちいさく転がった。
「この部に入ったときは花に詳しくなかったからなぁ。見たことはあっても、名前と実物が一致しないってやつ」
「わかります。ネモフィラ……も、見たことあるかもしれないけど」
「綺麗だぞー。青くて、涼し気で」
「そうなんすね。それは、見てみたいです」
 淡々とした、けれど嘘のない言葉に頬が緩む。
「じゃあ、次の春まで待っててもらわないとなぁ。ここ一面に咲かせるからさ」
 そう笑うと、乾いたサヤの音が二人の間に小さく響いた。
 もちろん、社交辞令でもなんでもない。桜の瞳に青い絨毯が映し出される瞬間、その反応を隣で見てみたいと思った。

「あの、鮎沢さん。そういえば、他の部員の人たちは来ないんですか」
 しばらく作業をしていると、桜はふと気づいたように中庭を見渡す。
「いないよ。園芸部は、俺一人だけ」
「ひとり?」
「去年先輩たちが卒業しちゃったからなぁ。だから、今日は桜が来てくれて結構うれしい」
 へらりと笑うと、桜は目を丸くした。それから少しだけ肩の力を抜くように、形の良い唇をわずかに緩める。
「良かったです。人付き合い、あんま得意な方じゃないんで」
 遠くのグラウンドから、威勢のいい掛け声やホイッスルの音が届く。賑やかな喧騒から逃げるように、桜は手元に目を落とした。その横顔にふと滲んだ陰りが、きのう別れ際に見た表情と重なる。
「鮎沢さんと、二人で良かった」
 畳みかけるような言葉に、俺は喉を鳴らした。
 桜のことだ。もちろん他意はないだろうけど、相手が女子だったら絶対に勘違いするぞ。と、表情を硬くする。本人は事もなげに作業を続けているところが、さらに罪作りだ。
「そんな風に言われると照れんなぁ」
「そうですか。それは……すみません」
 って、なんで謝るんだよ。
 素っ頓狂な受け答えに、思わず肩を外しそうになる。だけど、桜はいたって大真面目。萎れたように顔を俯かせていた。
 ——こういうところが、やっぱり可愛い。
 俺は桜の肩を小突くように、自分の肩をこつんとぶつける。
「この照れるってのは、その……嬉しいってことだよ」
 反動で軽く揺れた桜は、目を瞠ってこちらを見つめた。大型犬のようでいて、ふるりと揺れる瞳は仔犬のようだ。
「……嬉しい、んすか」
「おう。だから謝る必要なし! ほら、今日中に種取り終わらせちゃうぞ」
 これ以上見つめられたら、今度は本気で取り返しがつかなくなりそうで。俺は慌てて手元のタッパを差し出す。一瞬だけ何かを咀嚼するように黙り込んだ桜も、すぐに指を動かし始めた。
 大きな手のひらで、小さな種をそっと守るように集めていく。その優しさが、胸の奥をじんわりと満たしていった。