二人きりの庭

 静寂に、引きずった足音が迷い込んできだ。
 放課後の喧騒をろ過してくれる中庭は、俺にとって唯一の、穏やかな居場所だったのに。
「なんだ……?」
 花を愛でて、凪いでいたはずの心がざわつく。向こう側からジリジリとやってくる、物騒な足音のせいだ。
 傷みかけたパンジーに手を添えたまま、俺は恐る恐る振り返る。と、座っていた円形花壇の反対に大きな人影が落ちた。
「……っ、クソ!」
 今度は地を這うような男の声が、空気を震わせる。
 スラリと伸びた上背に、艶のある黒髪が目を引くその男。俯いているせいで顔は見えない。幸いなことに、彼がこちらの気配に気付く様子はなさそうだけど、俺は無意識に息を潜めていた。
 悪いことなんてしてない。
 ただいつも通り、園芸部の活動をのんびりこなしていただけなのに、冷ややかな空気がまとわりつく。見上げた男の気迫はそれほどに恐ろしかった。

 背はかなり高いけど、一年生か……?
 ジャージの色から見当を付けると、彼は花壇の縁へ崩れ落ちるように腰掛ける。その拍子、容赦なく下ろされたエナメルバッグが、パンジーの株をぐしゃりと押し潰しそうになった。
「あ、待って……!」
 声を上げると同時に、俺の体は動いていた。花を守ろうと夢中でバッグのストラップを引っ張った。
 おもっ、つーかさすがに鈍ってるな……。
 削げ落ちた筋力を思い知って、苦い自嘲が胸をよぎる。その時だった。
「うわ、」
 バッグを引いたせいで、男の上半身が不自然に揺らぐ。彼は咄嗟に足を踏ん張ろうとしたようだが、次の瞬間、片方の膝がカクンと砕けた。
 あ、と思う間もなかった。
「——ッ⁉︎」
 目の前に体が倒れてくる。衝撃に身構えた瞬間には、視界のすべてがジャージの紺色に埋まっていた。
「いっ……」
 レンガの縁に背中を打ちつけ、鈍い痛みに顔を歪める。だけど、それ以上に思考を奪ったのは、肌を突き刺すような運動部の気配だった。
 生ぬるい体温に、制汗スプレーのツンとしたシトラス。そして、乾いた土の匂いが容赦なく溶け込んでくる。
「すんません。大丈夫ですか」
 掠れた声が響いて、目の前の体は慌てて退こうと動く。けれど、彼は左足を突っ張らせたまま低く呻いた。見上げた先にある濡羽色の瞳が、苦痛を滲ませている。
「いや……引っ張ったのは俺の方だし。どっか痛めた? 大丈夫?」
 敷かれたまま訊ねると、彼はぶんぶんと頭を振る。
「平気っす」
 とわずかに動いた唇は薄く、こちらを見据えたままの瞳はビー玉のように綺麗で。男だとわかっているのに、そのあまりの近さに心臓が跳ねた。
 彼はどうにか起き上がると、再び花壇に腰かける。俺もその隣に座った。
「背中とか、怪我してねぇっすか」
 抑揚のない声に気遣いが滲む。
 最初は気迫に圧倒されてしまったけど、もしかしたらあまり怖い子ではないのかもしれない。
「うん、俺は平気……あ、」
 ——しまった。
 視界の端に、守ったはずのパンジーが散っている。たぶん、背中で下敷きにしてしまったのだろう。
「どうかしたんですか」
 彼は不思議そうに、俺の視線を追う。
「……ううん、なんでもない。それより、どっか痛めてんなら保健室行った方がいいぞ」
「え……なんでそれ、」
「あ、でも場所わかんない? 一年だよな?」
 せっせと花びらを集めながら訊くと、彼は立ち上がって視線をおろおろ泳がせる。恐ろしくクールで怖い第一印象が嘘のようだ。
「これ終わったら案内するから、ちょっと待ってな」
「あの、手伝います」
 そう言うと、彼は見よう見まねで花びらをかき集めた。あまり器用な方ではないのか、俺よりも手は大きいはずなのに、指の隙間からはらはらと黄色のパンジーが溢れていく。
 ふっと息を零して笑えば、彼の眉間に力がこもった。そのあまりの真剣さに、ふふっ、とまた声が溢れる。
「……なんか変ですか」
 不服そうな瞳で睨まれると、やっぱりすこし怖い。俺はごめんごめんと目尻を擦った。
「花をそんな風に見つめる人、見たことないから。ちょっと可笑しくて」
「はあ」
「けど、手伝ってくれてありがとう」
 解せない様子の彼は、戸惑ったように視線を下げる。そして、またひとつずつ花びらを拾い上げた。壊れ物を扱うように優しく掬っていた。
 指からはらはらこぼれ落ちていた理由が、わかった気がする。
「すんませんした」
 花びらを入れるためにと袋を差し出すと、彼は軽く頭を垂れた。
「俺のせいっすよね。この花、ダメにしたの」
 視線の先には、痛々しく折れたパンジーの茎。それから手元に集まった残骸を見据えて、さらに深く頭を下げた。
「すみませんでした」
 硬く、ひび割れた声だった。花を散らしてしまったことだけではなく、なにかもっと。彼自身を咎めるような鋭さに、俺は一瞬だけ息を詰めた。
「頭上げて。大丈夫だから……えっと、名前は――」
「桜です。桜 颯天(はやて)、一年です」
 ゆっくりと持ち上がった瞳にドキリとする。宥めるように触れた肩からピリリと電流が押し寄せる。そう錯覚するくらい、間近に捉えた顔つきはひどく精悍だった。
「桜くん……」
「桜でいいです。先輩ですよね」
 指を差された辺りを見れば、そこには学年カラーが施されている。自分もジャージ姿だということをすっかり忘れていた。
「赤ラインは二年生、で合ってますか」
「うん。二年の鮎沢(あゆさわ)瑞来(みずき)、よろしく」
 手を差し出すと、桜の手が遠慮がちに触れる。指の長い大きな手は、花びらを掬い上げるかのような温度でそれを包んだ。
「鮎沢さん……」
「そう。花屋なのにアユって呼ばれてんの」
「ハナヤ、ですか?」
 花屋なんて初めて口にした。そう言われても納得できるくらい、うぶな口ぶりだ。
「俺、園芸部なんだよ。だから、お花屋さんの"花屋"。まあ、名前で言ったら桜の方が花屋っぽいよなぁ」
「俺には、似合わないと思います」
「そう? 桜はちゃんと、大事にしてくれそうだと思ったよ。この中庭も、花も」
 ――入学直後だったらスカウトしてたなぁ。
 喉まで出かかった言葉を、俺はそっと呑み込んだ。彼がここにやってきたときの、息が詰まるような気迫を思い出したからだ。
 きっと、何かあったのだろう。
 それを暴こうとは思わなかった。

 傷口を執拗に突つかれる痛みがどれほど空しいものか、俺は知っている。
 空を見上げることすらできなかったあの頃、うつむいた視線の先で静かに揺れる花だけが、荒んだ心を凪いでくれた。

「……あの」
 袋に収めた花を見つめていると、頭上から声が降ってくる。
 顔を上げると、桜は自分の手のひらを見つめていた。指先にはまだ微かにパンジーの粉が残っている。
「俺、弁償します」
「え? 弁償?」
「鮎沢さんの……園芸部の花を潰したのは俺なんで。責任取らせてください」
 丁寧に、深く上体を折った姿勢からは、体育会系の礼節が痛いほどに染みついていた。
 地面に置かれた重いエナメルバッグを一瞥し、そっと息を吐く。責任なんて感じなくていい。そう宥めるつもりで口を開きかけたけど、彼の拳が小刻みに震えているのを見て、言葉は喉の奥へ引っ込んだ。
 とはいえ、金を払わせるわけにもいかないし。
「弁償なあ。たとえばどうやって?」
「金は……ねえんで、その……体で払います!」
 いいこと思いついた!と言わんばかりの瞳が持ち上がる。西日をキラキラと反射するその目は純に満ちていて、俺は思わず噴き出した。
真面目な顔でほんと、何言ってんだ。
「桜って、意外と天然?」
「は?」
「いや、まあいっか。そしたら、体で払ってもらおうかな」
「ハイ!雑用でもなんでもします!」
 また真面目な顔で声を張る彼に、俺はもう一度くすくすと笑った。
 第一印象の恐ろしさはどこへやら。不器用なまでの純真さに、胸の奥をくすぐられたような心地がした。
「じゃあ、約束。明日の放課後、ここ集合な」