たくさんギュッして、甘えさせて

「ねえ」
「! はぃぃい!」
「……ここ、数字が間違って──」
「あああ直します、申し訳ありませんでしたぁッ!」
「……」

 別に怒ってもないのに。働き始めて数年、僕には後輩が出来るようになり課長に企画書を提出する前に書類を確認する仕事が多くなった。誤字脱字や表記ミスのままはいけないから後輩に渡された書類を持って彼の元へ行き間違えた部分をペンで指差せば恐れ慄いたようにすっ飛んで何処かへ消えていってしまった。
 周りのデスクからはヒソヒソ、と囁き合う声。

嶌田(しまだ)さん、おっかね〜……あの下には付きたくないな)
(あの目に睨まれたら終わりだよ……)

 嶌田。僕の苗字。そんなに僕は恐ろしいのだろうか。
 確かに180センチと皆よりは高いし、髪は一切染めたことないし、目が悪いから黒縁眼鏡をかけているから……目つき悪いということもないだろうけど。

(いつから、僕は恐れられてしまうようになってしまったのかな)

 自分のデスクに戻り作業に戻ろうとすると。

「先輩ッ。……田嶋(たじま)先輩ッ! ちょっと、いいスか⁉︎ 聞きたいことが……!」
「んぁ……? なに、今昼寝してんだけど……」
「少しだけ、頼みますよ〜!」

 僕に指摘された部下は直し方がわからないのか、向かいで顔を伏せて居眠りしていた田嶋──僕の同期──に声をかける。田嶋も、目を擦りながら渋々質問を聞いている。

「あ〜……これね。ここを、こうして……こう」
「お、おお〜! 流石田嶋先輩ッ! わかりやすいッス!」
「じゃ、俺寝るから」

 田嶋は欠伸をしてまた目を閉じた。

(……指摘した僕に尋ねた方が早いはずなんだけどな……)
 
 同期だけど、彼は平社員。僕はその上の人。指導者になるのは、田嶋のはずだったのに。彼はある時から突然仕事にやる気を失くして、黒髪から茶髪になって、前髪で目元が隠れるくらい伸ばしてしまった。接客業じゃないから、いいんだけど。……だから、僕が後輩を指導する人になった。

 それでも、後輩に慕われているのは田嶋の方。僕が間違いを指摘して、田嶋が後輩のフォローをする。だから結局は田嶋が直してるって感覚。

(あれ、また同じ部分で間違えてる……)

 同じ後輩が、別の書類で表記ミスしていることを再び確認してしまう。声をかけようとして……彼が今目の前のミスを直していることを見。……時計を見て定時5分前と気づき。……僕が直した方が早いか、と手元に戻した。

 定時になると後輩はミスした書類を最後までやることなく帰宅の準備をする。それ、明日の朝期限のものだけど。……わかってなさそうだ。

「……終わってないよね? 提出、してほしいんだけど」

 思ったよりも低い声が出てしまった。後輩は「そ……ッスすけど〜……」と頭を掻きながらこの後の予定をつらつらと言う。どこまで本当かは知らない。僕はため息をつき「わかった」と言う。

「もういい。僕が直す。その書類机の上に置いておいて」
「いや、明日やりますよ」
「間に合わないから言ってるんだよ」

 3回訂正させているのに、ずっと間違い続きだから期限が明日になってしまった。あまりにも自由にさせすぎるのは良くないと今知った。

 後輩は肩を竦めながら「お疲れッした〜……」とそそくさといなくなり、田嶋も「お疲れ〜」と出ていく。

「あ、田嶋先輩! この後一緒にご飯でもどうすか!」
「ん〜、俺疲れてるからパス」
「今日も基本眠っていたじゃないスか〜!」

 後輩と田嶋が帰りながら会話しているのが聞こえる。……予定、あるんじゃなかったのか。

 僕はため息をつき、手元にある書類と、後輩のデスクにある2つの書類を直す作業に入る。





 *





「ただいま〜……」

 1つの書類にありえないほどの訂正。ほとんど僕が手直しした。これはもう一度指導し直す必要があるな、と思いながらなんとか2時間で済ませ……。
 ボロボロになりながら家の鍵を回し中に入り込む。途端に、ふわりと漂う美味しそうな香り。

「しーくん、おかえり〜」
「たぁちゃん……僕もう、疲れたよお〜〜〜‼︎」

 エプロン姿で出迎えてくれたのは同期の田嶋。……いや、仕事場以外ではたぁちゃんと呼んでいる。田嶋も僕のことをしーくんと呼ぶ。僕たちはある時をきっかけに、一緒に暮らすことになり、そして恋人同士だった。

「おいで」

 微笑んで両手を広げる田嶋の胸に飛び込み限界だった涙が溢れる。

「うう〜〜、もう疲れたああ〜〜〜、明日行きたくない〜〜〜……っ」
「うんうん。お疲れ様。頑張ったね」

 田嶋はこんな僕を見ても引くことなくよしよし、と背中を撫でてくれる。

「親子丼作ったんだ。食べるでしょ?」
「……うん」

 後輩に誘われた田嶋は断り帰りが遅い僕のために夕飯を作ってくれていた。「お風呂も沸いてるよ」と囁く田嶋に「ありがとう……」と涙声で言えば「こーんな情けない嶌田を見れるのは俺だけなんだぁ」と幸せそうに笑う。

「親子丼食ったらさ。お風呂でゆっくり休んでさ」
「……うん」
「眠るとき、ギュッてしてあげる」
「…………えっちは」
「明日もあるから駄ぁ目」
「うー」
「明日の夜は、金曜日だからいいよ。……準備して待ってるから。頑張れよ、指導」

 頑張れないけど、頑張る。
 田嶋がいるから、頑張る。
 会社の人には知られていない秘密の関係。

 なんでも器用に出来たのは田嶋だった。僕はずっと不器用で、田嶋に教えてもらうことが多くて。

(たぁちゃんが指導者だったら、いいのに)

 そう言いかけて、飲み込んだ。
 田嶋にとっても、僕にとっても、結局今の形が最適解だろうから。

 だから僕は明日も頑張ることにする。

「たぁちゃん。後でたくさんギュッてして。甘えさせて」
「いいよ」

 田嶋は「早く食べよ」と僕の手を引いてリビングまで歩かせる。

 これからもずっとずっと、こんな日常が続きますように。





 嶌田さんと田嶋さん【完】