まだ薄暗い早朝。鬱蒼とした木々が生い茂る山の中。
木々の隙間から差し込む朝日が、まだ冷たい空気を照らしている。
織姫は1人で血の痕が残る場所にいた。シロ太の墓を作る為に。スコップで穴を掘っている間中、涙が溢れた。
結局、西原の脚は半身麻痺が残ったらしい。元通りにはならないが、リハビリすればかろうじて動けるようになるかもとのことだ。
仕出かした事を思えば、命が助かっただけでもマシだろう。西原はその後、学校を退学した。
完成した墓にシロ太の亡骸をそっと埋めた。半紙を敷き、その上に日本酒、卵、塩を供える。
「ごめんね……シロ太……」
手を合わせると、またさらに胸の奥に押し込めていた感情が溢れ出した。
もう二度と、あのひんやりとした舌の感触に触れることはできない。
傷ついた霊魂は、その傷を癒やすために長い眠りにつく。
シロ太の魂は完全に消滅したわけではない。
いつか回復すれば、また霊魂にはで会えるだろう。
それでも。
直接触れられない温もりは、やはり寂しい。
「新聞配達、辞めたんだって?」
頭上から脳天気な声が降ってくる。見上げると、木の幹にもたれかかった王子がいた。
「……何?」
織姫は、急いで涙を拭って奴を睨みつける。
「やだなぁ。夫婦が傍にいちゃいけない理由ってある?」
「帰れ」
「嘘嘘!田代さんにこれを渡して欲しいって頼まれたんだ」
立ち上がった織姫に、王子は慌てて茶封筒を差し出した。
「お給料とお祓い代だって……」
それは給料袋だった。最後の出勤日はあの日の前日で止まっている。
雇い主の夫人は何も悪くないのだけれど、織姫はどうしても仕事に行く気にはなれなかった。夫人も気まずさを感じているのだろう。一方的に止めるとだけ伝えた織姫を責めはしなかった。
織姫は中身を確認するとお札を1枚だけ引き抜いて、それ以外を王子に突っ返した。
「残りはあんたが貰って」
「え、でも」
「借金返済。いらないなら、シロ太のお供え物代に使って」
「……分かった」
王子はそれ以上は何も言わずにそのまま受け取った。
「優しいね。西原さんを助けてあげたんだ」
「助けてないし……」
織姫は顔を伏せた。西原がどうなろうと、本当は知ったことではない。
けれど、憎しみに囚われた霊魂は、果てのない闇を彷徨い続けてしまう。
シロ太を憎しみに囚われたままにしてしまうのだけは嫌だった。
「またまたぁ、素直じゃないんだから」
「は?!本当に助けてないし!むしろ、シロ太の為じゃなかったら、そのまま呪い殺されてしまっ……」
興奮した織姫が声を荒げる。その瞬間、背中に、とすん、と重みがのしかかった。
「なっ……」
振り返ると、王子が遠慮なく織姫の背中に自分のそれを預けてきた。
「夫婦喧嘩はシロ太が悲しむよー?」
……馬鹿らしい。そう思うのに、不思議と怒鳴る気力が湧いてこない。
さっきまで胸を埋めていた黒い感情が、少しだけ薄れている気がした。
「……本気?」
「何が?」
「結婚のこと。いくら力がないからって、家の都合で道具みたいに結婚相手なんか決められて。あんたは、それでいいわけ?」
しばらくの沈黙の後、王子は苦笑して言った。
「僕は妾の子だから」
「……え?」
「母親が愛人だったの。だから人権ないんだよね、僕」
重大な事のはずなのに、それを話す声は驚くほど軽くて、織姫は拍子抜けしてしまった。
「なんかごめん……」
「いいんだよ。僕みたいな家じゃ昔からよくあることだし」
「よくある……」
「でも、もし、多々羅さんが結婚相手なら楽しそうだと思って。織姫さんなら守ってくれそうだし」
笑って言った。
相変わらず腹の底が見えない男だ。
黄金色の髪が朝日に照らされ、きらきらと輝いている。
その眩しさに目を細めながら、織姫は小さく呟いた。
「……祟りより、人間の方が怖い」
「え?」
「名前、織姫でいい」
織姫が何気なく漏らした言葉に王子の目が大きく開く。
「それって、結婚相手として認めてくれるってこと!?」
「か、勘違いしないで!」
顔が熱くなるのを誤魔化すように言葉を続けた。
「アンタは魑魅魍魎ばっかりに狙われて危なっかしいし……どうせ体張って誰かを守んなきゃいけないなら、金払いの良い人間の方がマシってだけ」
「へえ」
「バイト先も無くなったわけだしね。利用してやんの。アンタを。だから優しくなんかない!」
怪異を祓うのは、人間の為じゃない。シロ太のように、悪意に踏み躙られる声無き者の存在の為だ。
織姫はそう自分に言い聞かせるように言葉を放った。
「織姫は優しいよ……ずっと前から」
織姫は風に紛れそうなその声に聞こえないふりをした。
気づけば涙は止まっていた。
山の向こうから昇る朝日だけが、二人を静かに照らしていた。
木々の隙間から差し込む朝日が、まだ冷たい空気を照らしている。
織姫は1人で血の痕が残る場所にいた。シロ太の墓を作る為に。スコップで穴を掘っている間中、涙が溢れた。
結局、西原の脚は半身麻痺が残ったらしい。元通りにはならないが、リハビリすればかろうじて動けるようになるかもとのことだ。
仕出かした事を思えば、命が助かっただけでもマシだろう。西原はその後、学校を退学した。
完成した墓にシロ太の亡骸をそっと埋めた。半紙を敷き、その上に日本酒、卵、塩を供える。
「ごめんね……シロ太……」
手を合わせると、またさらに胸の奥に押し込めていた感情が溢れ出した。
もう二度と、あのひんやりとした舌の感触に触れることはできない。
傷ついた霊魂は、その傷を癒やすために長い眠りにつく。
シロ太の魂は完全に消滅したわけではない。
いつか回復すれば、また霊魂にはで会えるだろう。
それでも。
直接触れられない温もりは、やはり寂しい。
「新聞配達、辞めたんだって?」
頭上から脳天気な声が降ってくる。見上げると、木の幹にもたれかかった王子がいた。
「……何?」
織姫は、急いで涙を拭って奴を睨みつける。
「やだなぁ。夫婦が傍にいちゃいけない理由ってある?」
「帰れ」
「嘘嘘!田代さんにこれを渡して欲しいって頼まれたんだ」
立ち上がった織姫に、王子は慌てて茶封筒を差し出した。
「お給料とお祓い代だって……」
それは給料袋だった。最後の出勤日はあの日の前日で止まっている。
雇い主の夫人は何も悪くないのだけれど、織姫はどうしても仕事に行く気にはなれなかった。夫人も気まずさを感じているのだろう。一方的に止めるとだけ伝えた織姫を責めはしなかった。
織姫は中身を確認するとお札を1枚だけ引き抜いて、それ以外を王子に突っ返した。
「残りはあんたが貰って」
「え、でも」
「借金返済。いらないなら、シロ太のお供え物代に使って」
「……分かった」
王子はそれ以上は何も言わずにそのまま受け取った。
「優しいね。西原さんを助けてあげたんだ」
「助けてないし……」
織姫は顔を伏せた。西原がどうなろうと、本当は知ったことではない。
けれど、憎しみに囚われた霊魂は、果てのない闇を彷徨い続けてしまう。
シロ太を憎しみに囚われたままにしてしまうのだけは嫌だった。
「またまたぁ、素直じゃないんだから」
「は?!本当に助けてないし!むしろ、シロ太の為じゃなかったら、そのまま呪い殺されてしまっ……」
興奮した織姫が声を荒げる。その瞬間、背中に、とすん、と重みがのしかかった。
「なっ……」
振り返ると、王子が遠慮なく織姫の背中に自分のそれを預けてきた。
「夫婦喧嘩はシロ太が悲しむよー?」
……馬鹿らしい。そう思うのに、不思議と怒鳴る気力が湧いてこない。
さっきまで胸を埋めていた黒い感情が、少しだけ薄れている気がした。
「……本気?」
「何が?」
「結婚のこと。いくら力がないからって、家の都合で道具みたいに結婚相手なんか決められて。あんたは、それでいいわけ?」
しばらくの沈黙の後、王子は苦笑して言った。
「僕は妾の子だから」
「……え?」
「母親が愛人だったの。だから人権ないんだよね、僕」
重大な事のはずなのに、それを話す声は驚くほど軽くて、織姫は拍子抜けしてしまった。
「なんかごめん……」
「いいんだよ。僕みたいな家じゃ昔からよくあることだし」
「よくある……」
「でも、もし、多々羅さんが結婚相手なら楽しそうだと思って。織姫さんなら守ってくれそうだし」
笑って言った。
相変わらず腹の底が見えない男だ。
黄金色の髪が朝日に照らされ、きらきらと輝いている。
その眩しさに目を細めながら、織姫は小さく呟いた。
「……祟りより、人間の方が怖い」
「え?」
「名前、織姫でいい」
織姫が何気なく漏らした言葉に王子の目が大きく開く。
「それって、結婚相手として認めてくれるってこと!?」
「か、勘違いしないで!」
顔が熱くなるのを誤魔化すように言葉を続けた。
「アンタは魑魅魍魎ばっかりに狙われて危なっかしいし……どうせ体張って誰かを守んなきゃいけないなら、金払いの良い人間の方がマシってだけ」
「へえ」
「バイト先も無くなったわけだしね。利用してやんの。アンタを。だから優しくなんかない!」
怪異を祓うのは、人間の為じゃない。シロ太のように、悪意に踏み躙られる声無き者の存在の為だ。
織姫はそう自分に言い聞かせるように言葉を放った。
「織姫は優しいよ……ずっと前から」
織姫は風に紛れそうなその声に聞こえないふりをした。
気づけば涙は止まっていた。
山の向こうから昇る朝日だけが、二人を静かに照らしていた。

