祟り姫と変態王子の怪異録

「でも、ありがとう……お陰で少し目が醒めた」
 織姫は目を瞑ると、ゆっくりと息を吐いた。身体を満たしていた怒りが少しだけ遠のいていく。
 娘を庇うように、西原の母とさよが身を寄せ合っている。
 織姫は三人の前へ静かにしゃがみ込み、穏やかに告げた。
「その願い、聞き届けました」
 そして、そっと、西原の背中へ手を当てる。
 すると、西原を包む黒い靄が生き物のようにうねり、激しく蠢いた。
「あひゃっ、あはははっ……わたし、わたしねぇ……あっ、いや……いやぁぁっ!」
 錯乱状態の西原は身体を激しくよじり、壁や床へ何度も頭を打ちつけようと暴れ出した。白目を剥き、口から意味の分からない言葉が次々と溢れ出る。
 織姫は危惧した。このままでは、彼女は二度と元の人格には戻れない。
「王子!西原さんを押さえて!頭をぶつけさせないで!」
「了解!」
 王子は必死に西原を取り押さえた。細腕の王子に力担当を任せるのは酷だが、それでもこの場の女性達よりはまだマシだろう。
「織姫ちゃん、私たちは?」
「さよさん達は塩と卵と酒を! ありったけ用意してください。お供えにします!」
「分かったわ!」
 織姫の指示により、部屋中が慌ただしく動き始める。
 織姫はその場へ静かに正座し、深く息を吸った。目を閉じ、心を澄ませる。
 これから行うのは除霊ではない。
「浄霊」だ。
 その場から一時凌ぎで霊を追い払うだけの除霊とは違う。恨みも、怒りも、悲しみも浄め、魂を安らかな場所へ送り届けるための祈りだ。
 浄霊に必要なのは、一点の曇りのなき真心と純粋な愛だけ。
 織姫は鈴を鳴らした。
 ……ちりん。
 澄み切った音色が部屋へ響く。
『……シロ太、シロ太!』
(何が祟り姫だ。
特別な力があっても、小さな命1つ守ってあげられなかった。
いや、シロ太は私を憎んだ西原に殺されたのだから、私が殺したようなものだ。
私が関わらなければ、シロ太は死ぬことはなかったんだ。そうしたら、きっと今もあの裏山で……)
『シロ太……私が……私のせいで……ごめんね……』
 鈴の音は乱れた波動を整え、穢れを祓う。
 織姫は何度も、何度も。鈴の音に合わせて心の中で優しく名を呼び続けた。
「王子!」
「は、はい!」
「あんたもシロ太に話しかけて」
「……え?」
「私達がいつもしていたみたいに……お願い」
 織姫の声は震えていた。王子は一瞬だけ戸惑うも、それから静かに頷いた。
「シロ太、君に出会えて楽しかったよ。短い間だったけど、君がぺろっと舌で舐めてくれたあのく感触、今でも覚えてる。喧嘩ばかりのママとパパでごめんね。いつかまた……君に会えるといいなぁ」
 その声に応えるように、シロ太を包む黒い靄が僅かに揺らいだ。
 織姫はさらに祓詞を唱える。
「蛇神よ。彼らの反省の心は確かに届いております。西原穂乃果は、その身をもって罪を知りました。片足を失うのは、人の代償としては十分です。祓え給え。清め給え。どうか、その怒りを鎮め給え。その傷ついた御魂を癒し給え」
 精いっぱいの祈りを込めて。それは織姫がシロ太へ贈る最後の餞だった。
 祓詞を唱え切ると、視界が眩しい光に包まれた。部屋を覆っていた禍々しい瘴気が、輪郭を失い、小さく小さく縮んでいった。
やがて、そこに現れたのは一匹の小さな白蛇だった。
「……シロ太」
 織姫がそっと名前を呼ぶと、シロ太は生前と変わらぬ愛らしい姿で首をもたげた。
 するりと織姫の腕を伝い、続いて王子の肩へと移った。
 二人の周りを一周する。
 まるで「ありがとう」と伝えるように。
 しゅるる……。
 聞き慣れたその音だけを残し、シロ太の身体は柔らかな光へと溶けていく。
「多々羅さん、シロ太が……シロ太がいまっ!」
 興奮気味に話す王子。織姫は静かに頷いた。
「……うん。行っちゃった」
 シロ太は、天から現れた光に溶けて、そのまま消えた。それは、雨上がりの朝日のように柔らかく温かかな光だった。
「穂乃果っ!」
 西原の身体から邪気は完全に消えていた。苦しそうだった呼吸も穏やかになり、今は深い眠りについている。
「ううっ! 穂乃果っ!」
「ありがとう! 織姫ちゃん、本当にありがとう……!」
 娘の安否を確認した西原の母が泣き崩れた。さよも涙を目尻にいっぱい溜めて、何度も頭を下げる。
「あなたは命の恩人よ……何てお礼をしたらいいのか……」
 織姫は静かに首を振った。
「安心するのは、まだ早いです」
「それはどういう……」
「神の祟りは気まぐれなもの。これから1年間、毎日シロ太へ手を合わせてください。命を奪ったことを忘れず、心から供養してください。そうすれば、いつか本当に赦される日が来るかもしれません」
 本来、蛇の祟りは末裔七代まで続く程に強く恐ろしいものだ。
 でも、シロ太は西原穂乃果だけを祟りの対象とした。証拠に西原の家族は傷一つない。自分を殺した相手に情けをかけるなんて。どこまで優しい神なのだろう。
「シロ太の優しさに感謝して、一生生きなさい。それが、あんたに残された唯一の贖罪よ」
 織姫は気を失い眠っている西原に語りかける。いつの間にか、織姫の瞳は元の黒へ戻っていた。
 けれどもう、その場の誰一人として彼女を恐れる者はいなかった。