少し歩いて到着したのは、いつもの調理室。ただ今日は、その隣の準備室の扉の鍵を先輩が開けた。
「ここ、今の時間は立ち入り禁止だから、内緒な」
唇に人差し指を当て、いたずらっぽく笑う先輩はたまらなく色っぽい。こんなかっこいい人が俺の恋人なんだと思うと、顔がちょっと火照る。
中はほかの教科準備室と同じように細長く狭い部屋で、食品棚が備え付けられ、家庭用よりも大きいシルバーの冷蔵庫が置かれていた。その前にちょうど二脚、丸椅子がある。
俺はその一つに腰かけるよう言われ、先輩は冷蔵庫を開けて中を探った。
「ほら」
「わ、冷たっ」
振り返った先輩が俺の頬に当ててきたのは、シリコンのチューブ型に棒が付いているやつ。
「ちょっと前に作ってたんだ。フルーツ缶のアイスバー」
「やった! 外、暑かったから冷たいのが嬉しい!」
「ん。あーん」
先輩はシリコンのカバーを外し、桃やみかん、パインが詰め込まれた直径三センチくらいの棒アイスを俺の口元に向けた。
「自分で食べるって」
「いーから。ほら」
もう……。先輩、俺に食べさせるの好きだよな。これも子ども扱いじゃなく、彼氏扱いで下心ありなのか? いったいどんな下心なんだ。
軽く首をかしげてから先をパクッと咥えた。
うま! 優しい甘さに自然と瞼が閉じる。
「ん……結構おっきぃ……でも、おいし……」
「かーわいい。ヒナ、ホントかわいいね。煽られる」
「んぐっ?」
男の俺がかわいいなんて言われるのは全然慣れない。それに、煽るってなにを!?
恥ずかしくなってシャクっとアイスをかじり、残りの棒アイスから口を離した。
アイスの溶けた雫が唇の端にちょっと垂れかける。それを手の甲で拭おうとしたその瞬間、すかさず先輩の唇が重なった。
「んっ……!」
俺が驚いている間にペロッと唇を舐めてきて、先輩は離れた。
「ホントだ。甘くてうまい」
「ちょ……ここ、学校!」
「だから、内緒な」
入室前と同じように唇の前に人差し指を当て、ウインクしてくる先輩。俺がグヌヌと黙ると、満足そうにアイスを食べ始めた。
二人で並んで椅子に座り、シャクシャクと食べ進める中、先輩が話してくれる。
「……学校でヒナのこと見つけたけど、俺のことを覚えてないのはすぐにわかったんだ。それでどうやって近づこうかと様子を見てたらさ、皆から餌付けされてるんだもんな」
「餌付けって」
「合ってるでしょ。いろんなやつからお菓子やパンをもらって、サッカー部の二年や三年まで、ヒナを見かけたらグミとかガムとか口の中に入れていくんだから」
たしかにそれは否定できない。俺の口癖は「腹減った」だし、なんでもおいしくいただくから、面白がってお菓子をくれる人が多かったのだ。
「ガクッときたよ。ヒナの身体に負担じゃないものを考えて製菓してきたのに『おまえなぁ~!』ってなった」
「……ごめん」
「いや、これは俺の勝手。ヒナは悪くないでしょ。それに、なんでも食べられるようになったんだってホッとしたのはホントだし。……だけどさ」
どうしてか先輩の目つきがちょっと鋭くなった。男っぽいバージョンの先輩だ。
「……だけど?」
「男でも女でも、俺以外のやつがヒナに食べさせてるのを見ると、吐きそうなくらい腹が立った。それ、俺の役目なんだけど、って。ヒナに幸せそうな笑顔をさせるのは俺の役目なんだけど、ってさ」
「それで俺を試食係にして、他のオヤツは禁止って言った……? 本当は舌を自然素材に慣らすためじゃなくて、他の人からオヤツをもらわないようにするために?」
「まーね。それで、どっちにしろ早いうちに呼び出して囲っちまうつもりだったけど、どうしたもんかなって思いながらタルトタタンを作った翌日、ヒナが一人っきりでベンチにいるのを見つけた。今行くしかないと思ったね。で、即行動した」
囲う!? そのパワーワードにはびっくりだけど、そうだったのか……。あの日も余裕の雰囲気をまとっていた先輩だけど、実は心の中は騒がしかったりしたんだろうか。
ねぇ、先輩。俺、今日も先輩がくれる熱い思いに胸がキュンキュンして苦しいよ。だけどすごく幸せで……心も、口や胃の中も幸せなんて、すごい贅沢だ。
アイスの最後の一口を飲み込み、しばし幸せの余韻に浸ってからお礼を言った。
「すごくおいしかった。また幸せもらっちゃった。ごちそうさまです」
「うん。ヒナが俺の作ったものを食べて幸せな気持ちになってくれるの、嬉しい。小さい頃からの俺の願いが叶った」
先輩も心底幸せそうに笑ってくれた。それから食べ終えたあとのアイスの棒を俺から受け取ると、流しでシリコンの型と一緒に手際よく洗ってくれる。
「あのさ、先輩。……おやつのコンテスト、出るよね?」
先輩の隣に立ちながら、脈絡もなく俺はそう問いかけた。
前にコンテストのことを聞いたとき、曖昧な返事だった。さっき俺に会って願いが叶ったと言った先輩だから、満足してもう辞めてしまうのかと気になったのだ。
先輩のおやつは本当においしいから、多くの人に知ってほしい。
「ん~? そだね。元はヒナにちょっとでも認知されたらって思いからだったけど、ヒナと付き合えた今、もっと多くの人に優しいオヤツで幸せを届けてみたい、と思うから出るよ」
「よかったぁ」
ホッと胸を撫で下ろす俺に優しい笑みを向け、先輩は話を続ける。
「それに……コンテストの実績があれば、進路のことであの頑固親父を説得する強力な材料になるだろうから」
「お父さん!」
「うん。蕎麦屋のほうは弟がいるから……まあ、こっちも相談だけどね。とにかく一番の壁は親父だから、本気見せるために頑張るつもり」
先輩の高い志の前に立ちはだかる、あの厳つい壁――お父さんの姿が頭に浮かぶ。俺はゴクリと喉を鳴らした。
これは俺も、ただ食べて幸せになってるだけじゃいけない。鉄壁のゴールキーパーを突破するシュートを打つつもりで先輩の力になる!
「じゃあ俺も、試食係としてもっと役に立つよう感想の技術を磨くね。ほかにもなにかできることがあったらやる!」
「ありがと。でも……そういうのより、もっとすごい応援になることがあるんだけど」
キュッと音を立てて水栓をひねり、水を止めた先輩が俺をじっと見つめる。
「すごい応援?」
首をひねると、やたらと色気のある表情をした先輩が、俺の耳元に唇を近づけてきた。
「また新しいお願いができたんだ。優勝したら叶えてくれる?」
うわ……声もめちゃくちゃ甘い。脳みそが蕩けてしまいそうだ。
「な、なに?」
付き合うっていうお願い事はもう叶った。その次のお願いっていえば……も、もしかしてアレ? 俺たち青少年の頭の中にすぐに思い浮かぶ、恋愛のセカンドステージ?
……ど、どうしよう。俺、まだそこまで考えられない!
無意識に自分の身体を抱きしめようとしていた。途端にその両手をひとまとめにしてギュッと握られる。
「せ、先輩?」
ドッドッ。ドッドッ。ドッドッドッドッ。
心臓が爆発しそうだ。サッカーボールが胸の中で激しく跳ねているかのように。
「ヒナ。俺が……――」
「え……」
囁くように告げられたそのお願いは、俺の想像のずっと上を行っていた。
俺はコクコクと頷き、先輩の手を強く握り返す。
「先輩、絶対に優勝しようね!」
頬が熱い。俺の顔は、今日も熟れたリンゴの皮くらい真っ赤になっていることだろう。
「もちろん!」
先輩が花を咲かせるように笑う。幸せそうなその顔を見て、スイレンの花をあとで調べようと思う俺だった。
――ヒナ。俺がコンテストで優勝したら、将来結婚して。
完



