調理部、スイレン先輩の専属試食係


 カラッ、カランッ、と小気味いい音がした。そっちのほうに視線を向けると、アイスティーのグラスがたくさんの汗をかき、中でロックアイスが溶けている。 

「アイスティーがぬるくなっちゃうな。ケーキ、食べよっか?」
 
 頭を優しく撫でられて、「うん」と言いかけて我に返った。

「ぅあ!」

 変な声が出てしまった。だって俺、先輩と抱き合ってる。しかも、なんと俺が先輩を床に押し倒したらしく、馬乗りになって身体をまたいでいたのだ。

 慌てて離れようとしたものの、腰に回っている先輩の腕はほどけない。

 俺は床に倒れている先輩の顔の横に両手をつき、結果的に先輩と至近距離で見つめ合うことになってしまった。

「あ、あ、あの……その」

 そわそわする。落ち着きなく目をそらすと、頬にそっと手を添えられた。

「ヒナ、教えて。さっきの『好き』はどっち?」
「どっちって、そんなのまだわかんないって……」

 なんて、モゴモゴ言いながらも本当はわかりかけてる。これまで感じたことのないソワソワ感と、特別なときにしか起こらない胸の熱さ。頭に響いてくるほど騒がしい鼓動の高鳴り。これがきっと……。

「ヒナ、こっち見て」
「……っ」

 先輩の声がちょっと強い。抗えずにゆっくりと視線を先輩の瞳に戻すと、めちゃくちゃ男っぽい、力強い瞳がそこにあった。

 射抜くように見つめられて、胸の中の熱さがブワッ! と全身へと広がっていく。

「俺、今からヒナにキスするよ」
「えっ」
「ヤだったら顔そむけな」
「え、ぁ……」

 先輩が俺の頬を包んだまま上半身を起こした。

 俺の身体は自然と先輩の太ももに座り込む形になる。

 腰に添えられていた手が背へとすべり、グッと身体を抱き寄せられた。

 顔と胸が近づく。

 スローモーションに見えたけど、それは全部一瞬の出来事で、俺は逃げることができなかった。

 ……違う。逃げなかった。

 唇が重なる。

 薄くて柔らかな感触。

 ふわりと香るりんごの爽やかさと甘さ。

 重なり合った唇の隙間から息を吸い込むと、身体じゅうが優しい甘さで満ちていく。

 幸せ……。ああ、そうだ。俺、これを知ってる。これは、間違いなく「幸せの味」だ。

「……先輩、ケーキの味見、してきた?」

 唇が離れて一番に問いかけたのはそんなこと。

「フッ」

 先輩は息を漏らすように笑うと、ペロッと紅い舌を出した。

「バレたか」
「ずる。俺も食べる」
「俺が食べさせてやるよ。よっ……と」
「わわ」

 身体を軽々と持ち上げられ、今度は先輩の足の間に座らされた。ローテーブルの前で、後ろからすっぽりと抱きしめられる姿勢になっている。

「これは……いつもの子ども扱い?」
「違うよ。彼氏扱い。今まで子ども扱いだと思ってた? 俺はいつも、下心たっぷりでヒナに触れてるよ」
「……先輩、あんま恥ずかしいこと言わないで」
「これからもっとヒナが恥ずかしくなること言うし、していくけど?」
「はっ!?」
「とにかくほら、腹がぺったんこだ。アーンして」

 先輩はフォークにタルトタタンのひとかけらを刺しつつ、空いた手で俺の腹をサワサワと触る。指先がスラックスの中にそっと忍び込んできた。

「ちょ! ストップ。そこまで! じっとできない!」
「じゃあ大人しく食べな」

 俺の耳たぶに柔らかな唇が触れ、甘い息と声が耳の中に入ってくる。

 スイレン先輩の甘〜い誘惑には抗えない。俺はパク、パク、と口を開け、最後の一口まで先輩に食べさせてもらった。

 そのあいだ、先輩は日焼けした俺とは違う、陶器みたいな白い肌をうっすらピンク色に染め、ずーっと目を細めて俺を見つめていて……。

 俺はといえば、首から上が、熟れたりんごの皮と同じくらい真っ赤になっていたはずだ。

◆◆◆

 翌週、月曜日の昼休み。
 俺とスイレン先輩は、シーナとダイチ、それと、スイレン先輩の友達のハヤト先輩とユウ先輩と一緒に、中庭のテラス席にいた。

 先輩と俺が正式に付き合うことになった報告会みたいなことをしている。

 向かいの長椅子席では、ハヤト先輩とユウ先輩が相次いでスイレン先輩に突っ込みを入れていた。

「結局、ヒナちゃんの奥手さが決定打ってことだもんな。ウケる」
「フリから頼もうとしたスイレンがヘタレなんだって」
「うっせーわ。ヒナが純粋すぎるってわかってるからゆっくり進めようと思ったんだろうが。つーか、お前らが「ヒナ」って呼ぶな」

 二人に飄々と言い返すスイレン先輩。だけど、ハヤト先輩とユウ先輩はスイレン先輩を指さして大笑いだ。

「「姑息〜、心せま〜!」」
「ぁあ? 人を指でさすなって、小学校で習わなかったか?」

 スイレン先輩がブスッとして言葉が悪い! お父さんとのやり取りでも思ったけど、こんな一面もあったんだ。……というより、こっちが本当の先輩だったりする?

 新しい発見が驚きでもあり楽しくもある俺。そんな俺が座るこっち側の長椅子席では、シーナとダイチが小声で会話を交わしている。

「この席、注目の的でソワソワするね」
「二年の有名人三人と、その中のスイーツ王子と付き合ってるヒナタがいるからな」
「あ……巻き込んでごめん」

 肩をすくめて謝ると、シーナが俺の身体に両腕を回してきた。

「違う違う。嬉しいんだって! ヒナが僕たちのお仲間で、なんたって幸せそうなんだもん!」

 ギューッと抱きしめられる。これは、幼馴染の昔からのスキンシップだけど、秒でスイレン先輩に睨まれ、ダイチにはひっぺはがされてしまったシーナである。

 俺はシーナと席を代わった。さっきまで俺の向かいにいたスイレン先輩も、ハヤト先輩に「席代われ」と立ち上がっている。
 だけどハヤト先輩は俺の前を陣取ったまま、顔を下から覗き込んできた。

「ヒナちゃん、ほんとにいいのか~? スイレンって結構粘着質で猛獣なんだぜ?」
「そうそう。なんたって初恋の子に再会したときに、ちょっとでも好印象持たれるようにって何年来も王子の皮をかぶってきた激重男。漬物石どころの重さじゃないよ?」

 スイレン先輩が席を立った分、詰めて座ったユウ先輩がニヤニヤと笑う。

「え。それ、本当ですか?」 
「あー、マジでおまえらウザい。絶対手に入れたい相手がいるんだから手段を選んでられるか。ヒナが俺を選んでくれるならなんだってやるに決まってるだろ」

 スイレン先輩がすかさず俺の質問を遮った。そして結局、俺の隣のわずかな隙間に無理やり身体を滑り込ませてくる。

 これじゃ狭すぎ。先輩がちゃんと座れるようにと、俺はシーナの方へ詰めるために腰を浮かせた――その瞬間、スイレン先輩に腰をガシッと掴まれた。

「ひゃ」

 情けない声が出ると同時に、身体がふわりと宙に浮いた。抵抗する隙もなくあっさりと抱え上げられ、気つけば先輩の膝の上に座っている。

 秒で周囲のテラス席からも窓が開け放たれた食堂からもどよめきが起こった。

「せ、先輩。恥ずかしいって! 子ども扱いやめてよ」
「なに言ってんの。彼氏扱いだってこの間も言ったでしょ」

 腰にしっかりと両腕を回され、耳元で囁かれる。
 ハヤト先輩とユウ先輩と話すのとは全然違う、めちゃくちゃ甘い声。これ、耳や首筋がゾワゾワするんだってば。

「っとにかく、皆が見てるところでは……」

 ダメ! と反論しようとすると、隣でシーナがダイチの膝に乗った。

「僕も僕も!」
「いいぞ。しっかり座れよ、シーナ」
「やったあ!」
「シーナは可愛いな」
「いや……お前ら、なに相乗りしてんだよ」

 俺が唇を尖らせるも、シーナがキャッキャして嬉しそうで、ダイチも強面を崩してデレデレしている。
 しゃーない。こんな顔を見ては二の句が継げない。二人が幸せそうだと、なんか嬉しくなってしまうのだ。

「ここもハピハピかよ! やってらんねーな。俺も彼女ほしい!」
「俺もー! 膝抱っこしてえ!」

 向かいの席では、ハヤト先輩とユウ先輩が天を仰ぎながら言い合い始めた。

「……あれ? お二人って彼女さんがいるのでは。だってスイレン先輩が……」

 二人は彼女持ちだからウソ彼を頼めない、って言ってたよな?

 俺の耳の横に顔があるスイレン先輩を見上げると、スイ~と視線を反らされた。同時に、ハヤト先輩がプハッと吹き出す。

「ダッサ! スイレン、そんなウソまで」
「ヘタレ王子は必死だったんだって。ヒナちゃんを見つけてから、あっちこっちで餌付けされてる姿にヤキモキして、無理やり試食係にしたくらいだもんな、な~?」
「黙れ、チャラ大王とキノコ王子」

 先輩三人のやり取りに俺は目を瞬き、その会話に割って入る。

「あの、それってどういうことですか?」
「ヒナちゃん、それはだね……」
「俺がちゃんと話してやるからここでの話は終わり」

 ユウ先輩の話を遮り、スイレン先輩が俺をヒョイッと立たせた。
 そのままごく自然に手を繋がれ、皆のいる席から移動させられる。

「え? え? なんで?」
「たとえアイツらでも、俺の目の前でヒナが別の男と話してるだけでムカつく。俺といるときは俺だけ見ててほしい」

 ……もしかして、それってやきもち? 

 口には出さなかったけど、確かめなくてもそうだってわかった。
 俺といるときはたいてい柔らかく上がっている唇が真一文字になってるし、歩くペースがだいぶ早い。俺の手首を握る力もちょっと強めだから。

 ……やばいなあ、俺、やきもち嬉しい。先輩が俺のこと、好きでいてくれてるんだって実感する。