調理部、スイレン先輩の専属試食係



 くつろいでてと言われたものの緊張している俺は、先輩の部屋の真ん中にあるローテーブルの前で正座をしている。オヤツを用意すると言ってくれた先輩が戻るのを待っているのだ。

 それにしても、先輩は部屋までお洒落だ。
 脱ぎ捨てた部活のジャージが床に転がり、ぐちゃぐちゃのベッドの上には漫画やタブレット、アダプターが置きっぱなし。壁には数年来のサッカーのポスターがベタベタ貼ってある俺のガキっぽい部屋とは大違い。

 アイボリーとグレーでまとめられた先輩の部屋には流線型のお洒落なデスクが置かれ、半分がパソコンスペースで多分残り半分が勉強スペース。そして、ローテーブルを挟んだ向かいにはきれいに布団が整えられたベッドがあって、その上に棚が備え付けてある。
 そこには横文字のタイトルが並ぶお菓子のレシピ本や、分厚い製菓専門書がぎっしりと収められていた。

 ……すごいな。本当にお菓子作りに真剣なんだ。

 尊敬と感心の気持ちで本の背表紙を眺めていると、先輩が戻ってきた。

「お待たせ」

 先輩は学校のワイシャツの袖を肘まで捲り上げ、片手にトレイを持っている。

 先輩って、文化部なのにけっこう引き締まった身体してるんだよな。噂じゃ細マッチョらしい。

 なんて腕をぼんやりと見ていると、ローテーブルにトレイが置かれた。そこにはアイスティーと、べっ甲色のりんごが敷き詰められたケーキが載っている。

「あ……これ」

 あの日、手招きされて入った調理室で、先輩から食べさせてもらったケーキだった。

「うん、タルトタタン。昨日さ、ヒナとのことを考えたら居ても立ってもいられなくなって、夜中までかけて夢中で作ってた。家ではクソ親父がうるさいからほとんどやんないんだけど、昨日ばかりはね」

 ……きゅん。

 きゅん!? きゅんってなんだ。……ぅう、だって照れ顔でそんなこと言われたらさ……。

「ほら、食べな。腹減ったろ」

 ケーキとアイスティーをトレイからローテーブルへと移してくれる。

 いつもなら秒で食らいつくところだ。さっきまで本当に腹ぺこだったし。だというのに、今はフォークに手が伸びない。

 理由はわかってる。胸のこの絞られる感覚に慣れないのと、さっき薄く思い出した幼い頃の記憶にスイレン先輩の言った『奥の手』。ハヤト先輩とユウ先輩の言葉も……いろんなことが気になっている。

「先輩、俺のこと、知ってたんだね。 俺が入学したときより、もっと前から」 
「ん……。俺が二年になってしばらく経った頃かな。調理に一段落ついて、調理室からグラウンドを見ると、ちっこいのに誰よりも元気に走り回ってるサッカー部員がいるのを見つけてさ」
「ちっこい……」

 それって間違いなく俺だよね。
 その意味を込めてジト、と先輩を睨む。

「悪い悪い。でも、ちっこいから目立って、小鳥みたいに跳ねてるのを見るのがなーんか楽しみになった。それである日、校舎を横切ってグラウンドに向かうソイツと一瞬目が合った。それまで遠目で顔までわからなかったけど、その瞬間わかったよ。ヒナだ! って」
「どーせ顔、ちっさい頃のそのまんまですよー」
「いちいち自虐を入れんなよ。 まあ、それもあったけど……」

 クスクスと先輩が笑い、俺の髪を撫でてくる。いつものポンポンじゃなく、梳くように髪に指を入れられて、なんだかくすぐったい。

「ヒナの笑顔がさ。あの頃のままキラキラしてて。あーこの子の笑顔を独り占めしたい、この子に触れたい、って気持ちがここでブワッと広がった」

 自分の胸元をトントンと手のひらで叩き、先輩は言葉を繋ぐ。

「今まで俺がそんなふうに思ったのは、小三のときに一緒の部屋に入院してたヒナだけだ。ヒナはアレルギーで、俺は喘息をこじらせて入院してた。思い出せないかな。あの頃の俺は五分刈りだったけど……入院初日で夜を怖がって、トイレに一人で行けなかった情けない俺に、ヒナが声をかけてくれたこと」
「一緒の部屋……夜、トイレ……」

 目を伏せ、靄がかかった記憶を探る。

 回転が早い入退院患者。俺は入院三日目にして部屋で一番の古株になった。
 俺もそうだったけど、皆、入院初日は、消灯時間になると不安になるもので……。

「……っあ!」

 突如霧が晴れたようだった。今不安そうにしている目の前のスイレン先輩の顔に、幼い頃のレン君の不安げな顔が重なった。

 ……先輩、そんな顔しないでよ。胸の切ないのがもっと切なくなる。

 俺はテーブルに置かれていた先輩の手をそっと握った。

 小学二年生だったあの夜も、こうして手を繋いでトイレについて行ってあげたんだった。それと、レン君が退院するまでこっそり同じベッドで眠ったっけ……手を繋いで。

「思い出した。レン君、だ」
「……ヒナ」

 先輩の表情がやわらぎ、泣きそうではあるけど笑顔を見せてくれた。
 思い出してしまえば、先に退院したレン君が、こんな顔して俺の退院日に駆けつけてくれた記憶も蘇ってくる。

 俺は先輩からタルトタタンに視線を移した。

「そう、だ……。俺の退院の日も、レン君はこのケーキを持ってきてくれたよね? 先輩のお母さんが、俺のアレルゲン材料を使ってないから先生が許可くださったよ、って言って……」
「うん。実はあれも、俺が作ったんだ。ほぼ母さんに手伝ってもらったけど」
「え! ほんとに!?」

 そうか……調理室で食べた日、懐かしく感じたのはそれでだったのかもしれない。

「アレルギーのヒナは皆と同じお菓子が食べられなくて、『治ったらお腹いっぱい普通のお菓子を食べるんだ! ケーキ丸ごととか夢だなー』ってよく言ってたよね」
「言ってた!」

 普通のお菓子は俺の憧れだった。だからアレルギーの数値が正常に入った途端、急に腹が減ったように思えてたくさんの市販のお菓子を買い込んだり、友だちや近所の人がくれるお菓子を遠慮なく食べたりして……。

「だからさ。ヒナがお腹いっぱい食べられるケーキを贈りたかった。市販もあるって母さんが教えてくれたけど、卵も牛乳も小麦も使わないで、それでもおいしくて、ヒナがたーっぷり食べられるケーキを、俺が作りたかった」
「そこまで考えてくれてたのに……俺、すっかり忘れてて……ごめん」

 申し訳なさから深くうなだれると、先輩の手に重ねていた俺の手に、さらに先輩の大きな手が重ねられる。

「幼かったからね。俺……五分刈りだったし」

 先輩、それ、二度目だ。今はお洒落な先輩にとっては黒歴史なのかな。
 俺が軽く首を横に振ると、先輩は苦笑しつつ話を続けた。

「その後は、母親もお互いの住所までは聞いてなかったし、学区が違ったから全く会えなかった。仕方ないよ」
「うん……。あ……そういえば、先輩が身体にイイおやつを研究してるのってもしかして……」 

 俺の問いかけに先輩が頷く。手をニギニギされているけど嫌じゃない。っていうか、どんどん泣きたいみたいな気持ちになってくる。 

 ……ニギニギ、俺もしたい。

「ヒナの笑顔、最初から好きだったけど、ケーキを受け取ってくれたときの笑顔が最高にキラッキラしててさ。ここにブワッときたんだ」

 さっきみたいに胸をトントンと叩いて、先輩はまた話してくれる。

「それで、ヒナのためにもっと作りたい、と思って。次に会えたら毎日でもたらふくオヤツを食べさせてやるんだって……そんな気持ちが、いつの間にか身体にいいオヤツっていうより身体に負担のないオヤツを考えるようになっててさ。コンテストも、少しでも新聞やネットに載ることがあればヒナの目に止まるかもって。それでずっと頑張ってきた」
「先輩……」
「頑張ってきたっていうよりは、楽しんでたけどね。これ好きかな。これ食べたらどんな顔するだろう。やっぱキラキラ笑顔かな、って考えると次から次に作りたくなってさ」
「もしかして、この間のお弁当も……?」 
「ん。一応ヒナのアレルゲンだったものを抜いて、極力自然な素材で作ってみた。全部食べてくれて、すげぇ嬉しかった」

 目の際を少し赤くして、全部、全部俺のことばっかり。

 やばいよ。俺の身体、おかしくなってきた。先輩みたいに胸のとこ、ブワッてなってる。負け確実の試合に勝ったときみたいに、腹の底やケツの後ろの骨のとこらへんから、熱い震えがじわじわ上がってくる。

 やばいやばいやばい。手をニギニギしたいどころか、俺。

「先輩……!」

 たまらなくなって、飛びつくみたいに先輩にギュッと抱きついた。

「……好きだ……好き……」
「……っ。ヒナ? 今、『好き』って言ってくれた? それって……」 
「わかんない! まだわかんないよ。でも、昨日までとはなんか違う……もっと大きくて熱い。じっとしてられないっ」

 もっと抱きつく。力の限り抱きつく。

「苦しっ、ヒナ、苦しいって!」

 そう言いながらも先輩は楽しそうに笑って、俺をギュッと抱きしめ返してくれた。