「んぁー。腹減ったぁ」
放課後、ホームルームが終わるなり口をついて出た。
「ヒナタ、いちごパッキーがあるからこっちおいで。部活の前に食べていきなよ」
すかさず小四からの幼馴染、椎名虎太郎――通称シーナが、窓際の席からピンク色の箱をフリフリしてくれる。
そこに、パッキーの箱を奪い取る筋肉質の手が伸びた。
「シーナ、ヒナタを甘やかすな」
犯人は小野田大地――通称ダイチ。中学からの俺たちの親友で、先々週からシーナの彼氏だ。
「ええー。だって、ヒナタは万年ガス欠なんだよ? お腹を空かせたまま部活に行ったら倒れちゃう。可哀想」
おばあちゃんが日本舞踊の先生で、本人も踊りをやってるシーナがダイチの腕にしなっと両手を絡めれば、柔道部期待の新人のコワモテがだらしなく崩れる。
「燃費が悪すぎるヒナタが悪いんだって。そもそもヒナタにはもう食べさせてくれる人がいるんだから、シーナは俺にだけ甘くしてればいいいんだ」
「も、もう。ダイチってば……」
おっとぉ。この教室で、二人のいるそこだけパッキーの箱と同じ色に見えますけどぉ?
やっと結ばれた二人を感慨深く眺めていると、背中から声をかけられた。
「咲坂君、こっちのお菓子食べる?」
振り返れば、四人の女子グループのうちの一人だった。カントリーメエムの袋を持っている。
他の三人は、シーナとダイチを凝視して「尊い」「このまま壁になりたい」など言っている。このグループの女子たちは読書しながら同じような言葉をつぶやいていることが多いけど、シーナとダイチに関しては俺も同感だ。
二人の幸せそうな姿は尊い。恋愛未経験の俺には眩しいくらいだ。
「ありがと。でもいいや。もうすぐ迎えが来るから」
「だよね」
「うん」
「あのね、咲坂君にも期待してるね」
「ん? なんの話?」
首をかしげたところで、廊下にいる女子たちの華やいだ声が聞こえてきた。
「お迎え、来たみたいだね」
「だね。じゃ、また明日」
「いってらっしゃい。なにかあったらお話聞かせてね!」
「? うん」
なにかあったらって、どんな話を聞きたいんだろう。この子たちの言葉は、ときどき意図がわかりにくい。
そう思いつつ、俺はカントリーメエム女子にバイバイ、と手を振り通学リュックを背負う。シーナとダイチにも軽く声をかけてから教室後ろの出入口へ向かった。
「ヒナ」
廊下に出ると「迎えに来た人」がすぐそこにいて、母親にしか呼ばれたことのないその呼び方で俺に手を振っている。
この人は二年生の水光廉先輩。通称スイレン先輩は、今日も周囲の熱い視線を一身に浴びていた。
それもそのはず。スイレン先輩は韓流アイドル顔負けの王子様系イケメンなのだ。センター分けのサラサラウルフヘアに色気のある切れ長の目。身長は飛び抜けて高いわけじゃないけど、頭が小さくてスタイル抜群。
『立てばスイレン、座ってもスイレン、歩く姿はもろスイレン』
なんて、名前をもじって言われるほどである。
まあ俺は、スイレンの花をよく知らないけど。
なんせ俺の目的は、先輩が作ってくれるオヤツだから。
「先輩、腹減ったぁ。今日も約束守ったから、早くオヤツちょーだい」
百六十センチの俺より十五センチほど背の高いイケメンを見上げてねだれば、先輩は俺の頭をポンポンとして微笑んだ。
「ん。いい子。おいで」
ごく自然に肩に手が回ってくる。女子たちの「きゃー!」という高い声がそこかしこで上がり、羨望と嫉妬の眼差しが俺に注がれた。
羨望はともかく、嫉妬は不要だぜ、レディーたち。
俺は男だし、頭ポンポンといいさっきの「いい子」といい、特に名前の呼び方が「雛」を連想させることといい、先輩は完全に俺を子ども扱いしているのである。
先輩だけじゃない。チビで小学校の頃から顔が変わっていない俺は、初対面の人からほぼ百%の確率で中学生だと思われる。
いまだに近所のおじいちゃんおばあちゃんたちが飴をくれたり、学校じゃ同級生だけじゃなく、先輩たちまでもお菓子を恵んでくれたりするのは、万年腹ペコの俺にとってはありがたいけど。
ただ、今は全部のお菓子を断ってる。それがスイレン先輩との約束だから。
――あれは先月、中間テストが終了して部活動が再開された日のことだ。
シーナとダイチ、他のクラスメイトたちからも口にお菓子を入れてもらい、たらふく食べて出たのにサッカー部で走り回った俺の腹と背中は、部活終了後にはくっつきそうになっていた。
腹が減るとぼやっとする。で、ベンチに水筒を忘れてきてしまい、部室に向かう皆の流れに逆らい取りに行った。
そのとき、サッカー部の用具室の軒先に巣を作っているツバメが俺の視界を横切り、その姿を目で追いかける途中で、本館一階の教室の一つから俺のことを見ている人がいるのに気づいた。
正確に言えば、距離があったから見てるかどうかは定かじゃなかったけど、その人は窓を開けると手招きをしてきたんだ。周囲を見渡しても誰もいなかったから、俺は校舎に近づいた。
……おお? 校内で人気の王子様、二年のスイレン先輩?
途中でそう気づいて、有名人が俺になんの用だろうと戸惑っていると、「教室に入っておいで」みたいなジェスチャーをされた。
そして、おそるおそる足を踏み入れた調理室。先輩が俺を見ていた窓以外、びっしりとカーテンが締め切られたそこには先輩しかいなくて、きれいな焼色のついた丸いケーキにナイフを入れているところだった。
カフェの店員さんっぽい、腹の前で黒のリボンを結ぶ青のエプロンに青のキャップ。そんな調理部のユニフォーム姿の先輩は、なんか、すっげえ、雰囲気があったなぁ。
『こっち、おいで』
ポケーっと見惚れているともう一度手招きされて、俺は隣に立った。
『これ、タルトタタンっていうんだ。昨日焼いて、一晩寝かせた。いい感じだと思わない?』
『え、このケーキ、先輩が作ったんですか? すご。うまそう』
話すのは初めてなのに、敷き詰められたりんごがべっ甲みたいに光るうまそうなケーキと、先輩の物腰の柔らかさに、緊張と戸惑いは消えていた。
先輩が手際よくケーキを切り分けるのを隣に立って見て、俺は腹をぐうぐう鳴らした。
『食べたい?』
先輩の視線がケーキから俺に移り、柔らかな笑顔を向けられた。
うっわ、さすがスイーツ王子様と言われる人気者。顔面偏差値たかー!
……って目を瞬かせつつ、ちゃっかりコクコクと頷いた俺。
すると先輩も二度頷いて、白いドレープ皿の中央にケーキの一切れを載せた。
そして、濡れたように光る瞳で俺をまっすぐに見つめた。
『これを食べたら、もう俺が作ったお菓子以外は食べないこと。約束できる?』
『……へ?』
突然の要求が理解できず、俺はしばし呆然とした。
それからハッと我に返って、他のお菓子を食べられないなんて嫌だ! と思ったんだけど、腹が勢いよく鳴っちゃって。
『いい返事』
先輩がクスクス笑って、ケーキにフォークを刺した。
『他のお菓子を食べないって約束できたら、咲坂陽向君、君のお菓子を毎日俺が用意してあげる。はい、あーん』
なにそれ、なんだそれ。先輩、なんで俺の名前も知ってんの?
まるでわけがわからないのに、俺は先輩からの甘い誘惑に抗えずにケーキを口に入れていた――
そんな、強引でちょっと不思議な出会いから約一か月。
今では俺が食べるオヤツは全部先輩の手作りで、俺は先輩の専属試食係になっている。
「はい。今日はこれ」
あの日を思い出しつつ、今日もやってきた調理室。最低でも週に二度、部活前の時間を先輩とここで過ごす俺は、差し出された紙の手提げ袋を満面の笑みで受け取った。
「やった。今日はなに?」
「おからクッキー。プレーンとチョコバナナ味」
「おから?」
中を見ると、透明の円筒プラケース二つにキューブ型のクッキーが入っている。スイレン先輩のオヤツはいつも売り物みたいにきれいだ。
「そ。元は大豆。しっかりタンパク質摂っときな。食物繊維も多いから腹持ちもいい」
「おお!」
将来パティシエ志望だという先輩は「身体にいいオヤツ」の研究をしている。調理部の中で製菓部門を独立させたのは先輩だそうだ。
俺には家庭科で学ぶような知識は宇宙語に聞こえるけど、幼い頃にアレルギー持ちで食事制限をしていた経験があるものだから、身体のことを考えたお菓子を作る先輩を尊敬している。
「さて、いっただきまーす!」
サッカー部の開始時間までもう二十分もない。早速プラケースの蓋を開けると、それとほぼ同時に除菌シートがスッと差し出された。
「ちゃんと手、拭いて。あと、ちょっと待って」
「あ、いつもすみません」
前に敬語をやめてほしいと言われたからそうしてるけど、こういう細かいところまで世話をかけると自然と敬語が出てくる。
手の拭き拭きが終わる頃、先輩は机にほんわかと湯気の立つ水筒のカップを置いてくれた。
「今日は飲み物まであるの?」
「そ。ココナッツミルクティー。できるだけしっとりさせたけど、おからは口の中の水分を奪うからこれに浸して食べな。ああ、ゴミはこっちに寄越して」
「至れり尽くせり~」
優しい! 気配りの塊! 大人! これだから子ども扱いされてもまあいいかって思っちゃうし、先輩との約束を守ろうと思えるんだよな。
っていうか、先輩の手作りオヤツを食べ始めてから以前より部活で元気に走り回れる気がするし、この専属試食係は俺得でしかない。
「いつもありがとうございますっ。ん〜。んまい!」
「秒だな。ホントに思ってんのか?」
頭にぽん、と先輩の手が乗って、そのまま目を覗かれる。
先輩、たしなめるみたいな言い方してるけど、めっちゃニコニコしてる。この顔見るの、好きだな。
「ほんふぉだって。へんはいのおやつ、ほれもおいひぃ」
おからクッキーは、普通のクッキーに比べればたしかに水分を奪う。でもミルクティーとの相性が最高だし、なんといっても、いつものオヤツと同じように優しい甘さで俺の全身を幸せで満たしてくれる。
「は〜。染み渡るぅ。幸せ~」
プレーンとチョコバナナ味をそれぞれ二枚食べ、カップに残ったココナッツミルクティーも飲み干すと、腹が十分に満たされた。
「ヒナが幸せになってくれたなら、作った甲斐がある」
「超幸せ! 試食係にしてくれてありがと! お菓子のコンテスト、うまくいくといいね」
「……ああ、うん」
ん? なんか曖昧な返事だな。
先輩は、夏休みに開催される【健康的なおやつのコンテスト】にエントリーしている。
俺に声をかけたのはその試食を頼みたいと思ったからだ。
なんせ先輩は校内で人気が高いスイーツ王子様だ。そのあまり先輩目当ての調理部入部希望者が殺到し、活動中も大騒ぎになることが数度続いたと噂で聞いた。
王子様系超絶イケメンが手際よくお菓子を作るんだ。進学校の中じゃそう見ない光景だと思う。そりゃ生で見てみたくもなるだろう。
そしてその結果、真面目に活動をしている部員との協議になり、ちょうどコンテストに向けて集中したかった先輩は、調理部の本来の活動日とはずらして一人で製菓に打ち込むことにした。
先輩が活動するとき、カーテンが締め切られているのはそのためだ。
で、喧嘩が起きないよう試食をするのは顧問だけ。だけどふと、別の人の意見も聞きたいと先輩は思ったそうだ。
ただ、ちょっとした理由で家族には頼めないらしいのと、学校で男友達に頼んで意図せずそれが漏れたときに、希望者に囲まれるのも面倒だ。
……ということを思っていたある日、サッカー部のベンチで一人、お腹を空かせていた俺(遠目でも先輩からそう見えたらしい)を発見し、手招いた、というわけ。
先輩以外が作ったオヤツを食べるなっていうのは、舌を自然素材のオヤツの味に慣らすためだって後日教えてもらった。
だけど俺、「おいしい」とか「幸せ」しか言ってないんだよな。これじゃあ試食係の役目を果たせていないのでは。それで先輩は、コンテストの話を出すならもっとちゃんとした感想を言えよって実は思ってたりする?
「あ、えっと。プレーンの方は、ちょっと口の中がモソモソするけどだからこそミルクティーとの相性が最高で、ココナッツミルクっていうのがまたお洒落だよね! バナナチョコのほうは浸さなくてもしっとり感があって……」
慌ててそれらしい感想を伝えている最中だった。先輩の手のひらが俺の頬を包み、親指が唇を撫でた。
「ふ、んぐっ?」
「クッキー、ついてる」
「っクッキー! すんません!」
先輩にとってはいつもの子ども扱いだろうけど、親にも唇に触られた記憶なんてない。しかも相手は超絶イケメン。大接近でそんなことされたら胸が跳ねるって。
「……って、ちょっと先輩待って!」
俺は除菌シートをわしっと掴み、中から数枚重ねてシートを取り出した。急いで先輩の指を掴んでシートで拭く。
なぜなら先輩ってば、俺の食べカスを拭った指をごく自然に自分の口に運ぼうとしたんだ。弟さんがいるって言ってたから癖みたいなもの? いやいや、相手は俺だし、さすがに子ども扱いも度が過ぎる。
「はい、拭けました」
「別に拭かなくてもいーのに」
「よくないよ」
「で、なに。急に評論するじゃん。どした?」
「いや、だって、試食係らしいこと、言えてないから」
「いーんだって。ヒナが幸せそうに笑うと『成功したな』って実感するから」
目を優しく細めた先輩に、また胸が跳ねた。イケメンなのはもちろん、先輩には妙に色っぽい雰囲気がある。これは試食係が女子なら腰を抜かしてしまうんじゃないか。俺だから胸ドキドキで済んでるんだと思う。
「そ、それならいいけど! あっ、で、でも。じゃあ先輩。俺へのお願い事、そろそろ決まった?」
胸のドキドキに声を詰まらせながら問いかけた。
部費に加えて先輩が自分のお金も足して買った材料で作ったオヤツだから、少しでもお金を払いますって申し出たとき、顧問にも確認してくれ、無償でということに落ち着いた。
でもやっぱ気が引けるじゃん。労力も大きいわけだし。
で、その気持ちを話したら「じゃあ俺のお願い、一個聞いてよ」と先輩は微笑んだのだ。
試食係としてはイマイチでも、願い事は精一杯遂行する。俺にできることなんて少なそうだけど。
「うん。ちょうど今日その話をしようと思ってた」
「ほんとに? よかった。これでちょっとは先輩の役に立てるかな。で、なに?」
ニッコリと微笑む先輩に、つられて俺もニコッとなった。
すると、使用済みの除菌シートを持つ手をそっと握られ、まっすぐに目を見つめられた。
……ん? なんか、雰囲気が、おかしい……?
「……先輩?」
「ヒナ、俺の恋人になって」
甘い声で告げられたその言葉に、俺の頭は真っ白になった。



