その日の昼休み、僕たちは教室には戻らなかった。
雨はまだ降っていた。
踊り場の小さな窓を、細い雨粒が斜めに流れていく。
さっきまで僕たちの間にあった怒りも、謝罪も、言いそびれた言葉も、階段の冷たい空気の中にまだ残っている気がした。
近づきすぎない。でも、離れきるわけでもない。
そんな、どこか不自由な距離で、僕たちは弁当を広げていた。
ひどく、気まずかった。
正直、何を話せばいいのか分からなかった。
口を開けば、また間違える気がした。
黙っていれば、それはそれで、何かをなかったことにしている気がした。
箸の先で、白米を少し崩す。
プラスチックの弁当箱に、こつ、と小さな音が響いた。
その音だけが、妙にはっきり聞こえた。
「……卵焼き、甘い派?」
唐突に、絵美が沈黙を破った。
僕は、その唐突さに思わず顔を上げた。
「……急に何?」
「こういう時こそ、どーでもええ話がいるやろ?」
絵美は、自分の弁当の卵焼きを箸でつついていた。
黄色い断面が、雨の薄暗い光の中で、少しだけ柔らかく見えた。
「心で済ませたら一秒のことを、わざわざ喋る。無駄やけど、たぶん今のうちらにはそういうのが必要なんよ」
「……甘い派だよ」
「一緒や。よかった。味覚の不一致で解散せんで済んだわ」
「解散する予定だったの?」
「今のところ保留やな」
絵美は、ふっと小さく笑った。
その笑い方は、僕の知っている彼女のものとは少し違っていた。
強がっていないし、堂々ともしていない。
ただ、不器用で、少しだけ心細そうな笑い方だった。
僕は卵焼きをひとつ口に入れた。
甘かった。
いつもより少しだけ、喉を通るのに時間がかかった。
「……絵美」
「ん?」
「今の、ちょっと黄色かった」
彼女の箸が止まる。
僕も、少しだけ息を止めた。
言ってから、心臓が遅れて跳ねる。
けれど絵美は、逃げなかった。
「うん」
彼女は小さく頷いた。
「解散せんで済んだ、はほんま。でも、保留って言うたんは……ちょっと怖かったからやと思う」
「怖い?」
「うん。春樹くんが、ほんまはまだ怒ってるって分かってるから」
「怒ってるよ」
「うん」
「でも、弁当は一緒に食べてる」
「そこ、だいぶ大事やな」
「だいぶ?」
「めちゃくちゃ大事」
絵美は、今度はほんの少しだけ、笑った。
僕も笑いそうになった。
でも、まだ笑いきれなかった。
それでいいのだと思った。
たぶん、今は。
雨音が、踊り場の窓を細かく叩いている。
絵美にとっては、心を読めば一瞬で分かることなのかもしれない。
僕も色を見れば、何かを知った気になれるのかもしれない。
それでも僕たちは、卵焼きが甘いかどうかなんていう、どうでもいい話から始めるしかなかった。
どうでもいい話だった。
けれど、そのどうでもよさに、少しだけ救われていた。
◇ ◇ ◇
あれから数日が過ぎた。
僕たちの関係は、完全に元通りになったわけじゃない。
けれど、悪くなっただけでもなかった。
むしろ、以前よりも少し不便になった。
絵美はときどき、僕に白状するようになった。
「今、ちょっと聞こえた。……春樹くん、うちのこと『今日もうるさいな』って思ったやろ?」
「……ごめん。つい」
「ひっどいなあ。まあ、聞こえてまうもんはしゃあない。でも、今みたいに謝ってくれたら、そっちを信じる」
僕も、言葉を返した。
「今、黄色が見えた。……何か、言いにくいことある?」
「……今日の小テスト、春樹くんより点数よかった。自慢っぽくなるかなと思って」
「それは普通にショックだけど、隠される方がもっとモヤモヤする」
「ほな、次から堂々と自慢するわ。覚悟しとき」
「それはそれで腹立つな」
「難しいなあ、人間関係」
本当に難しかった。
心を読めば、一瞬で済むこと。
色を見れば、分かったふりができること。
それを、僕たちはわざわざ不器用な言葉に乗せた。
間違えて、訂正して、たまに傷つけて、謝って。
そんな、どうでもいい遠回りを僕たちは繰り返した。
亀みたいに遅い。
けれど、ちゃんと進んでいる気がした。
◇ ◇ ◇
ある放課後、僕たちは音楽室にいた。
雨はいつのまにか上がっていた。
雲の切れ間から、粒子みたいな光が射し込んでいる。
湿った空気の中で、埃がきらきらと踊っていた。
絵美がピアノの前に座り、鍵盤にそっと指を置いた。
短い音が、午後の静寂に波紋を作った。
「この音、どう思う?」
「どうって……きれいだと思う」
「うん。でも、少しずれてる」
「ずれてる?」
「調律が甘いねん。ほんの少しだけ」
僕には分からなかった。
どれだけ耳を澄ませても、ただ美しい響きにしか聞こえない。
絵美は、鍵盤を見つめたまま、少し笑った。
「分からへんやろ」
「うん」
「うちは、音が分かる。でも、春樹くんには春樹くんにしか見えへん世界の色がある」
「だから、補い合えるってこと?」
僕が言うと、絵美は鍵盤を指先でなぞりながら、少しだけ考えた。
「うーん。補い合う、も近いけどな」
彼女はもう一度、低い音の鍵盤を押した。
音が床を伝って、僕の足元まで届く。
「欠けてるとこを埋めて、ぴったり丸にするんとは、ちょっと違う気がする」
「違う?」
「うん。ずれてるから鳴る音もあるやん。きれいに揃ってへんから、長く残る響きもあるっていうか」
絵美は、不意に我に返ったように、少し照れたように笑った。
「……今の、うち、めっちゃええこと言ったと思わん?」
「自分で言わなければ、そうだったかも」
「あー、今のなし。今のキャンセル!」
その声が、雨上がりの音楽室に軽やかに跳ねた。
僕は彼女の横顔越しに、そのオーラを見た。
淡い白。静かな青。やわらかな桃色。
そして、淡雪のような、ほんの少しの黄色。
もうそれを、嘘という言葉で片付けたりはしない。
それはきっと、言葉を探している色だ。
迷いながら、それでも何かを届けようとあがいている色だ。
「僕はずっと、心が読めたら完璧に分かり合えると思ってた」
「うちは、心なんか読めへんかったら、もっと楽に生きられると思ってたわ」
「でも、違ったんだな」
「うん」
僕たちは、窓の外に広がる柔らかな光を見つめて、少しだけ笑い合った。
心が読めても、届かないことがある。
心が読めなくても、相手に届くものがある。
僕が言葉にする前の沈黙を受け取るように、絵美が続きを繋いだ。
「春樹くん」
「何?」
「うち、まだ嘘つくかもしれん。自分を守るために、また黄色を出してしまうかもしれん」
「……最悪な宣言だな」
「でも、ついたら言う。できるだけ、ちゃんと。……春樹くんは?」
「僕も、また決めつけると思う。色だけ見て、勝手に絶望したりするかもしれない」
「うん」
「でも、そのたびに聞くよ。絵美の声を聞くまで、諦めないようにする」
絵美の色が、ふわりと揺れた。
それは何色とも言えない、いくつもの色が重なり合った光だった。
僕たちは、完璧にはなれない。
きっとこれからも、正解より失敗のほうを多く積み上げていく。
言いすぎたり、言えなかったり、分かったふりをして誰かを傷つけたり。
それでも、僕たちは言葉を探す。
黙って分かったふりをするよりは、ずっとマシだと思えるから。
窓の外では、雨上がりの光が揺れていた。
水たまりに反射した世界が、絵美の横顔に柔らかな色を重ねる。
その色は決して一つではなかった。
僕はもう、それを一色に決めつけようとは思わなかった。
見る角度が変われば、世界の色も変わる。
それはまだ少し怖いけれど、その怖さごと、僕はこの世界を見てみたいと思った。
「帰ろうか」
「うん」
たった一音が、鼓膜を震わせる。
それだけのことが、今は少しだけ嬉しかった。
僕たちは並んで音楽室を出た。
不揃いな二人の足音が、放課後の廊下に響く。
教室の前を通りかかると、前の席の男子がこちらを見た。
「菊田ー。次のプリント、後ろ回しといて」
あの絵美との喧嘩から、クラスの空気も少しずつ変わっていった。
普段ならば、無言で視線だけを送り、手渡されて一秒で終わることだった。
それでも彼は、わざわざ喉を使って、僕に言葉を届けてくれた。
彼のまわりには、気まずさの灰色と、ほんの少しの桃色が混じっている。
たぶん、照れ隠しだ。
それから、ほんの数ミリの歩み寄り。
でも、正解かどうかは分からない。
だから僕は、声に出した。
「うん。ありがとう、加藤くん!」
加藤くんは、少しだけ目を丸くしたあと、照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
その横で、絵美がくすりと声を鳴らす。
世界は今日も不器用に、けれど確かに、音を立てて巡っていく。
隣を歩く絵美の歩幅に、自分のそれを重ねる。
言葉にしなければ届かない。
言葉にしたところで、全部は伝わらない。
それでも僕たちは、声を選ぶことをやめない。
間違えて、傷ついて、何度も言い直しながら。
欠けたままの僕らの世界で、その声だけが、たしかに響いていた。
廊下の窓に残った雫が、レンズのように光を集めている。
遠くで、誰かの笑い声がした。
濡れた校庭の水たまりに、欠けた空が、いくつも光っていた。

