その黄色が形を持ったのは、雨の日だった。
朝から空は低く、教室の窓には細い雨粒が斜めに流れていた。
湿った空気のせいか、人のオーラもいつもよりぼやけて見える。
赤も青も灰色も、水に溶かした絵の具みたいに輪郭を失っていた。
絵美はその日、少し遅れて教室に来た。
「おはよう」
いつもの声だった。けれど、僕には分かった。
いや、分かった気になっただけかもしれない。
声の終わりが、ほんの少しだけ沈んでいた。
僕は彼女の色を見た。
青。灰色。そして、今までで一番鮮烈で、毒々しいほどの黄色。
「絵美」
「ん?」
「何かあった?」
彼女は一瞬だけ瞬きをして、それから笑った。
「なんもないよ。ちょっと雨に濡れただけ」
黄色が爆発するように揺れた。
目の奥が焼けるようにチカチカする。
僕は初めて、その色から目を逸らさなかった。
逸らしてはいけないと思った。
「嘘だ」
口にした瞬間、教室の空気が凍りついた気がした。
絵美の笑みが、仮面が剥がれ落ちるように固まる。
周りの何人かがこちらを見た。
白が弾け、灰色が濁り、桃色が好奇心に尖る。
好奇心や困惑の混じった心の声が、色の奔流となって教室中を飛び交っている。
でも、僕には聞こえない。
僕には、彼女の色しか見えない。
「何か、隠してる」
「春樹くん」
「ずっとだ」
声が震えた。
怒っているのか、怖いのか、自分でも分からなかった。
「転校してきたあの日から、ずっと黄色が見えてた。嘘の色が。だけど僕は、見ないふりをしてた。絵美が僕と同じだって、そう信じたかったから!」
絵美は何も言わなかった。
その沈黙が、鋭いナイフとなって僕の胸を刺す。
「本当に、心が読めないの?」
問いは、自分でも驚くほど鋭かった。
絵美の顔から、笑みが完全に消える。
教室中を音が支配していた。
窓を叩く、無数の指先のような雨の音。
蛍光灯の小さな唸り。誰かが息を呑む音。
やがて彼女はひどく小さな、けれど拒絶できないほどはっきりとした声で言った。
「……読める。うちは、人の心が、嫌っていうほど読めるんや」
一瞬、教室の色が乱れた。
読めること自体は、この世界では普通だ。
けれど絵美は、読めないと言った。
僕と同じだと、僕に思わせた。
――なんだ、読めるんだ。
――じゃあ、なんで「読めへん」なんて言ったの。
そんな声が本当に耳に届いたのか、僕の想像だったのかは分からない。
その瞬間、僕の中で何かが音を立てて崩れ去った。
同じ欠け方をした仲間だと思っていた。
この孤独な世界で、唯一、同じ景色を見ているのだと。
けれど彼女は、僕と同じ側ではなかった。
僕を見透かす側にいた。
僕の椅子が床を引っかく音が、静まり返った教室に響く。
「なんで……」
それ以上、言葉が出なかった。
なんで嘘をついたのか。
なんで僕に近づいたのか。
なんで同じだと思わせたのか。
なんで。
なんで。
口にできない問いばかりが、喉の奥で泥のように詰まった。
絵美は唇を噛んだ。
「ごめん」
その言葉に、僕の中の何かが熱くなる。
「ごめんで済むの?」
自分の声とは思えないほど、冷たく響く。
「僕がどれだけ嬉しかったか、分かる? 初めて、僕だけじゃないって思えたんだ」
分かっているはずだ。
彼女は分かっている。
心が読めるなら、僕の言葉にならない部分まで、全部。
それがたまらなく嫌だった。
「読まないで」
僕は震える声で言った。
「今、僕の心を読まないで。分かったみたいな顔をしないで!」
絵美のオーラが小さく揺れた。
「この世界も、言葉も……嫌いだ」
僕は鞄を掴み、教室を飛び出した。
廊下を走る背中に、いくつもの視線を感じる。
きっと、無機質な心の声が飛び交っている。
「ほら、やっぱりな」
「あいつ、また変なこと言ってる」
聞こえないはずの声が、色の奔流となって僕を飲み込もうとしていた。
僕には聞こえない。
それなのに、今だけは聞こえないことがありがたかった。
◇ ◇ ◇
屋上へ向かった。
雨の日の屋上は、誰もいない。
鍵はかかっているはずだったけれど、その手前の踊り場なら座る場所があった。
僕は階段に腰を下ろした。
雨音が遠い。
胸の中だけが、やけにうるさかった。
嘘をつかれた。
裏切られた。
そう思った。
でも、本当にそれだけだろうか。
僕は知っていた。
転校してきたあの日から、彼女の周りには黄色があった。
メロンパンを食べていた昼休みも。
名前で呼び合った朝も。
言葉を信じられへん時期があったと話してくれた、あの時も。
僕は何度も見ていた。
見ていたのに、聞かなかった。
聞けば、同じじゃなくなるから。
聞けば、僕の安心が壊れるから。
僕は彼女の嘘を責めながら、自分もまた、その嘘に寄りかかっていたのだ。
「……最悪だ」
誰に向けた言葉なのか分からなかった。
彼女にか。自分にか。
それとも、心が読めることを当たり前にしたこの世界にか。
分かりあえないと決めたのは、僕だった。
この世界は孤独だと決めたのも、僕だった。
初めてできた友達を手放そうとしているのも……。
そして、誰よりも言葉を欲しがったのは、自分の方だった。
だからこそ、同じだと思っていた絵美が、とても眩しく見えたのかもしれない。
足音が聞こえた。
階段の下から、ゆっくり近づいてくる。
絵美だった。
彼女は僕から三段ほど下で止まった。
近づきすぎず、けれど逃がさないような、絶妙な距離。
「ここにおると思った」
彼女が言った。
「読んだの?」
僕は冷たく返した。
絵美は首を横に振る。
「読んでへん。……いや、正確には、読まんようにしてるんよ」
「そんなことできるの?」
「完全には無理。でも、耳を塞ぐみたいに、ぼんやりさせることはできる」
彼女はそこで一度、言葉を切った。
「ここにおると思ったのは、音や。春樹くん、怒ってるとき、足音が軽くなるんよ。逃げたいときの音になる」
僕は何も言わなかった。
そんなことまで分かるのかと思った。
同時に、そんなことまで聞いてくれていたのかとも思った。
それが腹立たしかった。
少しだけ、嬉しくもあった。
そんな自分が嫌だった。
「座ってもええ?」
僕は答えなかった。
絵美は少し待ってから、階段の端に腰を下ろした。
僕とは、手を伸ばしても届かないくらい離れていた。
「ごめん」
彼女はぽつりと零した。
「嘘ついて、ごめん」
僕は黙っていた。
「言い訳に聞こえると思うけど、言わせてほしいねん」
「心を読めるなら、言わなくてもいいんじゃないの」
自分でも嫌になるくらい、棘のある言い方だった。
絵美の視線が揺らいだ。
「そう思ってた時期もあった」
雨音が強くなった。
外の光が雨粒に乱反射し、踊り場を青白く照らしている。
「心が読めるって、便利やと思うやろ」
「思うよ」
「うん。みんなそう言う。相手の気持ちが分かったら、傷つけへんで済む。嘘を見抜ける。嫌われる前に距離を取れる。失敗せんで済む」
彼女の声は、どこか遠い。
「でも、読めるもんって、きれいなもんばっかりやないねん」
僕は彼女を見た。
「優しい言葉の奥にある面倒くささも、笑顔の裏の退屈も、大丈夫って言いながら全然大丈夫じゃないことも、全部、勝手に入ってくるんや」
絵美のオーラに、青が濃く滲む。
「小さいころ、お母さんに言われたことがある。絵美は賢いねって。でも心の中では、『この子は怖い』って思ってた」
僕は息を呑んだ。
「友達に、ずっと一緒にいようねって言われた。でも心の中では、『絵美ちゃんといると疲れる』って聞こえた」
彼女は笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「言葉って、嘘をつくやん。心のほうが本物みたいに思えるやん。だから昔のうちは、言葉を信じられへんかった。どんな優しい言葉も、その裏側ばっかり探してたんや」
「……じゃあ、どうして今は言葉を大事にするの」
「心も、嘘つくから」
絵美は真っ直ぐに、僕を見つめて言った。
その言葉は、雨音よりも強く僕の鼓膜を叩いた。
「心は嘘つかへんって言うけど、うちは逆やと思う。心って、一瞬の感情に流される嘘つきなんよ」
絵美は両手をぎゅっと握りしめた。
「怒りも、嫉妬も、面倒くささも、その瞬間は本物なんやと思う。でも、それがその人の全部やない。うちはそれを勝手に読んで、勝手に傷ついて、勝手に決めつけてた」
コンクリートの冷たい空気に、湿った雨の匂いが混じる。
「せやから、言葉を聞きたかった。心に何が浮かんでも、その人が最後に何を選んで口にするんか。そこを、信じてみたかったんよ」
僕は何も言えなかった。
心が読めるから、みんな分かり合えているのだと思っていた。
けれど本当は、分かったつもりになるのが、少しだけ早いだけだったのかもしれない。
この世界も、僕と同じくらい不器用だ。
「春樹くんと初めて会った日」
絵美が続けた。
「黒板の前に立ったとき、聞こえたんよ」
胸の奥で、薄い氷が割れるような嫌な音がした。
僕にできないのは、読むことだけだ。
僕の中に浮かんだものが、誰にも届かないわけじゃない。
僕だけが相手の声を受け取れないまま、こちらの内側だけは相手に触れられてしまう。
その不公平さを、僕はずっと見ないふりをしてきた。
「何が」
「春樹くんの心」
やめてほしいと思った。
けれど同時に、剥き出しの自分を誰かに見つけてほしくもあった。
「僕だけが欠けているって」
喉の奥が、ぎゅっと熱くなる。
「誰か一人くらい、同じ人がいればいいのにって」
そんなことを、僕は思っていたのか。
いや、思っていた。
ずっと、言葉にならない澱のように、腹の底に溜まっていた熱。
「それを聞いたとき、嘘をついた」
絵美の声が、湿り気を帯びて震えた。
「うちも読めへんって言えば、春樹くんが少し楽になるかもしれんと思った。最低やな。助けたかったんは嘘やない。でも、それだけやなかった」
「……なんで」
僕はようやく、肺に残った空気を絞り出した。
「なんで、僕だったの」
絵美は顔を上げた。
「春樹くんの心の声が、あまりにも痛かったから」
「痛い?」
「そう。自分を欠陥品やと思って、誰にも届かへん場所で震えてる。その声を聞いたとき、うちは……初めて、言葉を信じてみたいと思ったんよ」
僕は眉を寄せる。
「僕、絵美に嫉妬してたよ。堂々としてて、ずるいって思った。心が読めないのに平気そうで、腹が立ったんだ」
「聞こえてたよ」
彼女は静かに、けれど逃げずに言った。
「でも、それだけやなかった。春樹くんは、ずるいって思いながら、うちが笑ったら安心してた。嘘かもしれんって思いながら、それでも信じたいって願ってた」
彼女は、困ったように少しだけ笑う。
「人の心って、ひとつやないねん。嫌いと好きが、同じ熱で混ざり合ってる。怒りと寂しさが、境界線もなく溶け合ってる。信じたい気持ちと、疑う気持ちが、同じ場所で呼吸してるんよ」
その言葉は、僕の目に映る色の話によく似ていた。
赤いから、怒り。
青いから、悲しみ。
黄色いから、嘘。
そんなふうに記号のように決めつけて、僕は何度も、彼女の本当の輪郭を見失ってきた。
聞こえてしまう彼女も、同じだったのだろうか。
溢れてくるからこそ、何かにすがり、決めつけずにはいられなかったのだろうか。
「僕は」
声がかすれた。
「嘘をつかれたのが、嫌だった」
「うん」
「でも、それだけじゃない」
絵美は、降る雨の音を聴くような静けさで僕を見ていた。
「僕も、聞かなかった。黄色が見えてたのに、聞こうとしなかった。絵美が僕と同じじゃないかもしれないって、本当は気づいてた。でも、気づきたくなかった」
口にして初めて、それが僕の本音なのだと突きつけられる。
「僕は、絵美を見てたつもりだった。でもたぶん、見てなかった。僕と同じでいてくれる絵美だけを、勝手に欲しがってたんだと思う」
言葉にすると、胸が痛んだ。
でも、言わないで抱えていたときより、少しだけ息がしやすかった。
それがまた、嫌だった。
絵美は首を横に振らなかった。
ただ、祈るように言った。
「春樹くんがいてくれたら、うちも楽になれる気がしたんやもん」
「絵美が?」
「うん。春樹くんと一緒におったら、心を読まずに、言葉を聞く練習ができる気がしてん。読めてしまうもんやなくて、ちゃんと届いた言葉を信じられる自分になれる気がしたんよ」
彼女はまっすぐに僕を見た。
その瞳は、もうどこにも逃げていなかった。
「言い方、ひどいけど」
絵美は少しだけ息を吸った。
「でも、ちゃんと言わなあかんと思う」
雨音が、踊り場の奥で細かく爆ぜた。
「それって、ずるいよな」
きつい言葉だった。
けれど彼女は、それを剥き出しのまま放った。
自分に都合のいい、やわらかい言い方を選ばずに。
僕は、彼女のオーラを透かし見る。
黄色はまだ、そこにある。
けれど、それだけではなかった。
青もある。白もある。桃色もある。震えるような灰色もある。
幾重にも重なった色が、複雑な心境を描いて揺れているようだった。
ひとつの色だけで、彼女を決めつけることなんてできない。
それだけは、今の僕にも分かった。
「絵美」
僕は言った。
「心を読まないでって言ったら、できるだけそうしてくれる?」
「する」
「できなかったら、できなかったって言って」
「言う」
「嘘をついたら、僕はたぶん、すごく怒る」
「うん」
「でも、僕も聞く。見えた色だけで決めつけないようにする。黄色が見えたら、嘘だって決める前に、何を言えずにいるのかをちゃんと聞くよ」
絵美の目が、雨に濡れた硝子みたいに、少しだけ揺れた。
「うん」
「それから」
僕は大きく息を吸った。
言葉は、いつだって怖い。
けれど、怖いままでも踏み出さなければ、永遠に届かない場所がある。
「僕は……まだ怒ってる。すぐには許せない」
「うん」
「でも、君の声は、ちゃんと届いた。話したいとは思ってるんだ」
絵美のオーラが、小さく震えた。
それは桃色に近い、やわらかな光の色だった。
「ありがとう」
彼女は言った。
「心で思うだけやなくて、声にしてくれて、ありがとう」
その言葉に、僕は泣きそうになった。
でも、泣かなかった。
窓の外の雨が、僕の代わりに泣いてくれているような気がした。
「よろしく、絵美。……今度は、ちゃんと聞く」
彼女は、泣きそうな顔で頷いた。
「うん。うちも、ちゃんと言う」
雨音が、踊り場の奥でまだ震えていた。
何も解決していない。
怒りも、痛みも、嘘も、黄色も、まだそこにある。
それでも、彼女の声だけは、僕のところまで届いていた。

