武内絵美は、よく喋る人だった。
朝、教室の扉を開けて、誰かに挨拶をするとき。
授業中、不意に先生から名前を呼ばれたとき。
昼休み、隣の席の子に消しゴムを拾ってあげるとき。
彼女は必ず、声を使った。
「おはよう!」
「そこ、落ちてるで」
「今の先生の説明、分かった人おる? うち、半分くらい置いてかれたわ」
たったそれだけのことなのに、彼女は教室で少しだけ浮いて見えた。
この世界では、必要なことのほとんどが心で完結してしまう。
声は、必要なときだけ引き出しから出される、少し古びた道具みたいなものだった。
けれど僕には、その浮き方がひどく眩しく見えた。
「武内さんってさ」
昼休み、購買のパンの甘い匂いが漂う中、僕は尋ねた。
「なんでそんなに、声に出すの? 疲れない?」
彼女はメロンパンを両手で持ったまま、きょとんと僕を見つめる。
「え、うち、そんなうるさい?」
「うるさいっていうか……この世界だと珍しいと思う」
「ああ、まあ、そうやね」
彼女は小さく笑って、袋をかさかさと鳴らした。
「うちな、言葉には形があると思ってるねん」
「形?」
「うん。自分の気持ちって、すぐ形変えてまうやろ。嫌いやって思った次の瞬間、ほんまは寂しかっただけやって気づいたりするやん」
彼女がパンをひとかけちぎると、甘い香りがふわりと揺れた。
「でも、声に出した言葉は、一回外に出るやん。誰かの耳に届いたら、もうなかったことにはできへん」
「怖くないの?」
「怖いよ」
彼女は、あっさり言った。
「でも、怖いから、ちゃんと選ぶんやと思う」
彼女の声は、昼休みのざわめきの中でも、妙にはっきり届いた。
心に直接流れ込んでくる侵食のような感覚とは違った。
空気を震わせ、僕の鼓膜を叩き、ゆっくりと胸に落ちてくる。
僕にとって言葉は、頼らざるを得ない杖のようなものだった。
けれど、彼女にとっての言葉は、大切に包んで手渡すものみたいだった。
「春樹くんは? 言葉、嫌い?」
思いがけない問いだった。
僕を、欠陥品と呼んだのも、言葉だった。
僕を笑い、透明な壁の向こうに追いやったのも、言葉だった。
「気にしすぎだよ」と軽く流されたのも。
「かわいそう」と勝手に決めつけられたのも。
その全部が、言葉だった。
けれど。
「……嫌いじゃない」
僕は、自分の指先を見つめながら言った。
「ただ、怖いだけだと思う」
彼女は、まっすぐ僕の目を見て、軽く微笑んだ。
「そっか」
それだけだった。
『分かるよ』なんて安易な同情も、『大丈夫』という無責任な励ましもない。
ただ、その短い返事が、僕の強張った肩を少しだけ解いた。
「春樹くん」
「何?」
「春樹くんの声、けっこう好きやで」
不意を突かれて、飲みかけていた紙パックのジュースにむせた。
「……いきなり、何?」
「思ったから言うたんや。心で思ってるだけやったら、春樹くんには届かへんやろ?」
「いや、普通は言わないだろ」
「普通って誰が決めたん?」
彼女はメロンパンの端を口に運びながら、平然と言った。
「春樹くんの声って、なんか名前に合ってるねん。春の陽だまりみたいで、ぽかぽかしてる」
「ぽかぽか?」
「うん。ぽかぽか」
「それ、褒めてる?」
「めちゃくちゃ褒めてる」
「分かりにくいな」
「じゃあ、分かりやすく言うわ。春樹くんの声、うちは好きやで」
彼女はそう言って笑った。
その笑顔のまわりに、淡い桃色が広がる。
けれど、その奥にほんの少し、濁った黄色が揺れた。
嘘の色、だと思った。
いつもの僕なら、そこで心を閉ざしていただろう。
けれど、彼女がわざわざ「声」を選んで届けてくれたことが、僕の疑念を押し留めた。
だから、聞けなかった。
聞いてしまえば、この人を信じたいと思っている自分まで、嘘になる気がした。
だから僕は、笑うことも、怒ることもできないまま、視線だけを窓の外へ逃がした。
外では、白い雲がゆっくり形を変えていた。
あんなふうに、見なかったことにしたものも、どこかへ流れて消えてくれたらいいのに。
けれど、黄色は消えなかった。
彼女の笑顔の奥で、ほんの少しだけ揺れたまま、僕の中に残り続けた。
「春樹くんってさ、人の色が見えてたりする?」
不意に言われて、僕は紙パックのストローから口を離した。
「なんで」
「いや、めっちゃ見るやん」
「見る?」
「人の顔っていうより、その周り。視線の置き方が、ちょっと変わってるなあって」
その言い方は、少しだけ強引だった。
けれど、聞き返す勇気もなかった。
実際、僕はいつも見ている。
見すぎてしまうくらいに。
「……うん。見えるよ」
「どんな感じなん?」
「人によって違うし、気分でも変わる。怒っている人は赤で、悲しい人は青が多い。嘘をついているときは……黄色く見える」
「へえ」
「……でも、本当は、それも正解じゃないんだ」
自分の言葉に、喉の奥が詰まる。
「嘘なのか、隠し事なのか、言えないだけなのか。僕には、全部が同じ黄色に見えてしまう。だから、いつも間違える」
彼女は、一度だけ瞬きをした。
まつ毛の先で光が跳ね、ほんの一瞬の揺らぎを、僕は見逃せなかった。
「便利やな」
彼女がぽつりと呟く。
その言葉に、僕は強く首を振った。
「便利なんかじゃないよ」
自分でも驚くほど、硬い声が出た。
「赤く見えたから怒ってるんだと思ったら、違ったことがある。青いから悲しいんだと思ったら、それも違った。見えるのに、僕には分からないんだ」
そこまで言って、喉がつかえた。
昼休みの教室は、相変わらず静かで、騒がしかった。
誰かが笑っている。
誰かが心の中だけで返事をしている。
けれど僕の耳に届くのは、彼女がメロンパンの袋を小さく丸める、かさ、という音だけだった。
「間違えるんは、悪いことなんかな」
やがて、彼女が静かに口を開いた。
「え?」
「傷つけたら謝らなあかんし、勝手に決めつけるのもあかん。でも、間違えること自体は、そんなに悪いことちゃうと思うよ」
「……そうなのかな」
「うん。分からへんから、聞くんやろ?」
その言葉に、胸の奥が小さく震えた。
「分かってたら、聞かへん。聞かへんかったら、言葉はいらん。言葉がいらん世界って、便利かもしれへんけど、それってちょっと寂しいやん」
「……寂しい?」
「うん」
彼女は丸めかけたメロンパンの袋を、指先でそっと押さえた。
「ありがとうも、ごめんも、好きも、嫌やも、助けても。言わんでも伝わるからって、言わんでええことにはならへんと思う」
僕は彼女を見つめた。
青が滲んでいる。
でも、それが悲しみなのか、諦めなのか、あるいはもっと深い記憶の色なのかは、僕にはまだ分からない。
「春樹くん」
「何?」
「絵美でええよ」
「……絵美」
初めて口にするその名前は、予想していたよりもずっと近かった。
彼女は満足そうに目を細める。
「うん」
「絵美は、どうしてそこまで言葉にこだわるの?」
何気なく聞いたつもりだった。
けれど、絵美の指が止まった。
青が滲んだ。
その奥で、黄色が糸みたいに震えていた。
「……昔、な」
さっきまで軽かった声が、少しだけ遠くなる。
「うち、言葉を信じられへん時期があったんよ」
「どうして?」
そう聞きかけて、僕は口を閉じた。
絵美の指先が、丸めかけた袋の上でほんの少し固まっていた。
それを見た瞬間、踏み込んではいけない境目に立たされている気がした。
絵美も、それ以上は言わなかった。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
教室中に、椅子を引く音と、机の脚が床を擦る音が戻ってくる。
「……次、移動教室やっけ」
「うん。たぶん」
「たぶんて」
絵美は少しだけ笑った。
でもその笑い方は、さっきよりほんの少しだけ、透き通っていた。
僕は、その理由を聞かなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、自室のカーテンを、雨になりきれない湿った風が揺らしていた。
机に向かっても、絵美の声だけが、耳の奥で微かな熱を持って残り続けていた。
——分からへんから、聞くんやろ。
僕はノートを開いた。
宿題はさっぱり進まない。シャーペンの先だけが、白いページの上で迷子になったまま止まっている。
しばらく迷ってから、ページの端っこに小さく書いた。
——僕は、欠けている。
その文字は、自分で思っていたよりずっと弱々しかった。
消そうとして指が動いたけれど、結局消せなかった。
消したら、少し楽になる気がした。
でも、消してしまったら、今日、絵美がくれた言葉までなかったことになる気がした。
少しだけ間を空けて、その下にもう一行、書き足す。
――だから、誰かの声を聞けるのかもしれない。
出来る、とはまだ書けなかった。
その曖昧な言葉だけが、今の僕には精一杯だった。
歪な文字だった。
けれどその歪さが、今夜だけは、少しだけ自分に似ている気がした。
◇ ◇ ◇
翌朝、教室の扉を開けると、彼女はもういつもの場所に座っていた。
窓から差し込む朝の光が、彼女の肩を白く透かしている。
「おはよう、春樹くん」
「おはよう、絵美」
昨日までとは違う、自分の素直な声が耳に届く。
彼女は嬉しそうに笑った。
その輪郭を、柔らかな桃色の輝きが揺らしている。
けれどその奥には、やはりまだ、拭いきれない黄色が潜んでいた。
僕は、どうしても問いかけることができなかった。
その黄色の正体を。
絵美が本当に、僕と同じ欠け方をしているのかという疑念を。
聞かなければ、嘘は嘘にならない。
ずっと、そうやって自分を守ってきたつもりだった。
でも、聞かなかった言葉は消えない。
喉の奥に残り、飲み込んだはずなのに、何度も同じ場所で引っかかる。
絵美の「おはよう」が、すぐ隣で響いている。
僕は「おはよう」と返した。
ちゃんと声にできた。
それなのに、本当に言いたいことだけは、今日も声にならなかった。
教室の白い光の中で、彼女の黄色だけが、静かに揺れていた。

