VOICE ―欠けた僕らの世界―


「なんで、お前だけ……」
「これじゃまるで、欠陥品じゃないか」

それは、遠い昔の記憶だ。
けれど今もなお、その言葉は心の底に沈殿している。
忘れようとするたびに胸の奥がひりついて、呼吸の仕方がわからなくなる。


僕の名前は菊田春樹(きくたはるき)。ごく普通の、高校生だ。
ただ、僕にはちょっとした特徴がある。
僕を苦しめている原因でもあり、僕が人間の中で特殊な存在となった理由でもある。

それは、超能力だ。

超能力といっても、空を飛べるっていうわけじゃない。

それのせいで、親戚から「欠陥品」と呼ばれていたぐらい。僕は、人の心が読めないんだ。

一体なんでこうなったのか、僕にはわからない。
ただ、みんなが楽しそうに話しているのを横目に、目が足りないくらい見ていた。

「髪切った?だよね。ちょーかわいいー!」女子の会話を観察した。
「てか聞いて。俺ラスボス倒したんだけど」男子の会話に耳を澄ませた。

それでわかったことがある。
僕だけが、人の心を読めない――。

◇ ◇ ◇

この世界において、心が読めないことは、光や音を奪われることに等しい。
人は声を発するより先に、心で言葉を紡ぐ。
表情を読み取るより早く、意思を交わすより自然に、相手の感情のさざ波を掬い取る。

それは無意識に繰り返す呼吸のようで。
あるいは、光を反射する瞬きのようで。
残酷なほど当たり前の機能として、日常に溶け込んでいる。

だから、僕の世界はいつも、ほんの少しだけ遅れる。


朝、教室の扉を開けた瞬間。
いくつもの視線が僕を貫く。
けれど、教室を支配しているのは濃密な静寂だ。
音のない会話が、高速で頭上を飛び交っている。

目を合わせ、頷き、ほんの少し眉をひそめる。
その一連の動作の合間に、僕には聞こえない無数の言葉が編み上げられていく。

『またあいつだ』
『今日も暗い顔してる』
『関わらないでおこう』

そんな声が、僕の頭上を飛び越えていく気がした。
実際に聞こえたわけじゃない。
けれど、ふいと逸らされる視線や、空気に混じるわずかな灰色が、僕の胸をざわつかせる。
聞こえないからこそ、僕はいつも最悪の解釈を拾い集めてしまう。

「おはよう」

僕が声を出すと、前の席の男子が一拍置いて振り向いた。

「ああ、おはよう」

その声は、僕という異物と接するために、わざわざ出力された「変換後」の音だ。

本当の対話は、彼らの中ではもう終わっている

誰かの機嫌が悪いこと。
昨日のテストが散々だったこと。
今はあいつに話しかけないほうがいいということ。
そんな無数の情報が、埃の舞う光の中を、音もなくすり抜けていく。

でも、僕に何も届かないわけじゃない。
僕には、人のまわりに揺らめく「色」が見える。

人はそれをオーラと呼ぶけれど、僕にとっては、不確かな地図のようなものだ。

淡い青。濁った赤。薄く滲んだ灰色。
それは煙のように揺れ、プリズムのように瞬き、その人の心の機微に合わせて輪郭を変える。

怒っている人の赤は、針のように鋭く尖っている。
悲しんでいる人の青は、雨上がりの水たまりみたいにどんよりと重い。
嘘をついている人の黄色は、やけに眩しくて、目の奥がちかちかと痛む。

心が読めない代わりに、僕はその色を頼りに、世界の形を推測する。
さっき耳に拾った女子の声にも、色はあった。

「髪切った? え、めっちゃかわいい」

明るい桃色の輪郭。けれどその奥には、棘のような細い緑が混じっている。

本当に褒めているのか、羨んでいるのか。あるいは、ただその場に合わせて笑っているだけなのか。
色の混じり合うその先の正解を、僕は知らない。

「昨日、ラスボス倒したんだって」

得意げな声とは裏腹に、彼の肩には頼りない橙色がゆらゆらと揺れていた。
自慢なのか。認めてほしいのか。
それとも、ただの寂しさの裏返しなのか。

僕はその色を凝視し、必死に思考を巡らせる。
そして、いつも間違える。

赤色を怒りだと思ったら、ただ泣くのをこらえている熱だった。
青色を悲しみだと思ったら、静謐な幸福の中にいただけだった。
黄色の光を嘘だと決めつけて、誰かの真心を傷つけたことだってある。


そのたびに、世界から突き放される。
見えることと、分かることは、決定的に違うのだ。

みんなが当たり前に受け取っている、体温のような柔らかな交信を、僕だけが触ることができない。
だから、僕は見るしかなかった。

瞳の奥が熱くなるほど見つめ、耳が痛くなるほど音を拾い、色の濃淡に縋って意味を探した。

それでも辿り着くのは、たったひとつの絶望だけ。
僕は、決定的に欠けている。


その日の朝も、教室はいつものように静かで、ひどく騒がしかった。
誰も大声を出していないのに、空気だけが重くざわついている。
心の声が行き交うたび、光の粒子が揺れ、誰かの視線が僕を避けて流れていく。


席に着き、鞄から教科書を取り出したとき、隣の席の女子と目が合った。
薄い灰色。気まずさの色だ。
僕は反射的に視線を逸らした。

慣れているはずだった。
けれど、慣れることと傷つかなくなることは、きっと違う。


「今日から転校生が来ます」


担任の声がした瞬間、教室の密度が跳ね上がった。
内側の会話が一斉に弾けたのだと分かった。
ざわめきは聞こえない。
けれど、視界がうるさいほどに染まる。
好奇の桃色、警戒の灰色、退屈そうな濁った茶色。

ガラリと扉が開き入ってきたのは、肩のあたりで切りそろえた黒髪が印象的な女の子だった。
彼女は教壇に立つと、教室中をゆっくりと見回した。

その仕草に、僕は息を呑んだ。

普通の人は、まず心で挨拶を投げかける。相手の温度を確かめ、自分の居場所を確保してから、声を出す。

けれど彼女は違った。

少なくとも僕の目には、彼女の周囲だけが凪いで見えた。
心の波長が、こちらへ向かってこない。
まるで水面に落ちるはずの波紋が、彼女の周りでだけ消え失せているみたいだった。

けれど、色だけはあった。

「初めまして。武内絵美(たけうちえみ)と言います」

彼女はにっと、悪戯っぽく笑った。
そして少しだけ顎を上げ、凛とした声で言い放った。

「あ、先に言うとくな。うち、人の心、読めへんので。そのへん、よろしく!」

一斉に、教室の色が真っ白に弾けた。
驚愕の白。困惑の灰色。
そして僕の胸の奥に、すとんと何かが落ちてきた。

僕と同じだ。

その思いが、喉の奥で熱く震えた。
同じ欠け方をした人間が、この閉ざされた世界に、もう一人いた。
それだけで、肺に冷たい空気が入り、少しだけ呼吸が軽くなった気がした。

彼女は堂々としていた。
心が読めないことを隠さず、ましてや恥じ入る様子もない。

まるで、それがただの個性――利き手が違うとか、少しだけ目が悪いとか、そんな些細なことのように笑っていた。

その姿が、あまりにも眩しかった。
眩しすぎて、彼女の周りに一瞬だけ弾けた「黄色」を、僕は見なかったことにした。

その色に、名前をつけたくなかった。

「武内さんの席は、菊田くんの隣ね」

促されるまま、彼女は軽い足取りでこちらへやってきた。
机の横に立ち、僕を見下ろす。
僕は慌てて顔を上げた。至近距離で見る彼女の瞳は、吸い込まれるほどに真っ直ぐだった。

「菊田くん、やんな?」

「……うん。菊田、春樹」

「春樹くんかあ」

彼女は僕の名前を、一音ずつ確かめるように呟いた。

「ええ名前やな。やわらかい音がする」

「音?」

「うん。春の陽だまりみたいな、あったかい音!」

意味がわからなくて、僕は黙り込んだ。
けれど、その声は不思議なほど鮮明に耳に残った。
心ではない。「声」が、空気を震わせて僕に届く。

僕のためだけに放たれた、混じりけのない言葉。

「よろしくな、春樹くん」

彼女がにこっと笑う。
僕はその色を、食い入るように観察した。
桃色。白。それから、やっぱり、ほんの少しの黄色。

僕はまた、逃げるように目を逸らした。

あの日。
僕の世界に、初めて同じ欠け方をした少女が現れた。

そう信じていた。
そう、信じたかった。