先輩が作るお菓子の虜だったはずなのに

 ふんわり膨らんだ、きつね色の生地。上にはぽよんとした、真っ白なクリーム。それに寄り添うように、ツヤツヤとしたレモンが添えられている。
 カップケーキの甘く香ばしい匂いを思いっきり吸い込み、口の中で唾液が溢れた。
 俺の腹は『ぐぅー』と空腹を訴える。
 手が伸びそうになるが、歯を食いしばって耐えた。
 気を逸らすため、窓に目を向ける。霧のような細かい雨が、静かに降り続いていた。
 梅雨入りして、太陽が見える日が減った。

「ちょっと、アンタ! そこで何してるのよ!」

 家庭科室と準備室を隔てる扉が開き、非難の声に肩を跳ねさせる。
 声は男子そのものなのに、喋り方は妙に女性らしい。
 そちらに目を向けると、体の前で腕を組み、仁王立ちする男子生徒。整った顔は、眉を寄せて険しい。でも、気になるのは首から下。
 学生服の上に、フリルのついた真っ白なエプロンを身につけていた。なぜか、しっくりくる。

「ちょっと、聞いてるの? そこで何をしているのよ。まさか、つまみ食いなんてしていないでしょうね」

 彼は肩を怒らせて、大股で近付いてくるが、足は内股でちぐはぐな印象を受ける。
 テーブルの上に目を向けて、頬に手を添えた。

「あら? 減っていないわね」
「あの、このカップケーキを作った人ですか?」

 恐る恐る訊ねると、「そうよ」と頷く。

「あなたのことを待っていました」

 興奮のあまり、相手の手を掴んで顔をぐいっと寄せる。意外とゴツゴツとした、大きな手だ。彼は「えっ? 何?」と慌てた様子で背を反らす。

「家庭科室の前を通ったら美味しそうな匂いがして。お腹ペコペコなんです。食べさせてもらえないでしょうか?」
「……べ、別にいいわよ」

 彼の声は少し上擦っていて、バッと視線を逸らした。こちらに向けられた耳がほんのり赤い。

「ありがとうございます」

 手を離してカップケーキを掴むと、大きな口でかぶりついた。

「待てができるお利口さんかと思えば、ガツガツして品がない子ね」

 彼は肩をすくめて、「しょうがないわね」と苦笑する。
 優雅な手つきで、ミルクたっぷりのカフェオレをカップに注いでくれた。

「めちゃくちゃ美味しいです! 中の甘酸っぱいトロッとしたのが最高。レモンのカーニバルですね」

 一つ食べ切ってから感想を言えば、彼は呆れたように片眉を上げた。

「頭の悪い食レポはやめてちょうだい。中に入っているのは、レモンカードって言うのよ」
「えへへ、もう一個もらってもいいですか?」
「好きなだけどうぞ」
「そんなこと言うと、全部食べきっちゃいますよ」

 こんなに美味しいカップケーキなら、いくらでも食べられる。もう一つ手にとって、口いっぱいに頬張った。

「遠慮のない子ね。でも、嫌いじゃないわ。好きなだけ食べなさい」

 彼は俺の前に腰掛け、頬杖をつきながら目を細めた。惹きつけられるような色気があって、釘付けになる。

「アンタ、名前は?」

 話しかけられてハッと我に返る。

織田陽太(おだようた)、一年生です。お兄さん……じゃなくて、おねえさんは?」
「アタシは白鳥瀬那(しらとりせな)、二年生よ。お兄さんで合ってるわ。身も心も男なんだから」
「えっ? 男の人なんですか?」

 喋り方や仕草から、中身は女の人なのかと思った。

「これは、女ばかりの家庭で育った結果よ」

 瀬那先輩はニンマリと口角を引き上げた。
 艶やかな雰囲気に包まれて直視できず、カップに視線を落とす。フーフーとカフェオレに息を吹きかけ、口に含んだ。
 さらにもう一つに手が伸びる。

「そうなんですね。それなら男ばかりの中で育ったから、俺の姉ちゃんは男らしいのかもしれないです」

 瀬那先輩が吹き出した。
 なんだか知らないけど、うけたぞ。男らしい姉ちゃんのおかげだ。

「瀬那先輩は家庭科室を勝手に使えるんですか?」
「勝手になんて使っていないわ。アタシは家庭科部なの」
「他の人はいないんですか?」
「今日はお休み。明日の部活で作るお菓子の試作のために、使わせてもらっていたの」

 それなら明日もこのお菓子があるということか。

「明日も来ていいですか?」

 瀬那先輩は頬に手を当てて首を傾ける。

「んー、どうかしら? アタシ以外はみんな女の子なのよ。男子がいると落ち着かない子だっていると思うわ」
「瀬那先輩だって男ですよね?」

 さっきそう言っていた。

「これもメリットなのかしら? ほら、アタシってイケメンでしょ!」

 くっきりとした二重に、すっと通った鼻筋。薄めの唇は血色が良く、自画自賛できるほどに整っている。

「本当ならアタシにドキドキしちゃうはずだけど、この話し方だと、女友達みたいに受け入れてくれるの。せっかくなら楽しく部活をしたいじゃない。だから女の子たちには、誤解されても男だって否定していないわ。それにアタシは女の子に興味がないから、惚れられてもお断りしなきゃいけないし」

 瀬那先輩が悪戯っぽく笑う。
 俺はカップケーキをひたすら食べながら、うんうんと相槌を打った。

「じゃあ終わるまで待っていてもいいですか?」
「いいけど、陽太はそれまでどうしているのよ」
「俺、テニス部なんですよ。だから部活が終わったら、ここに来ます」
「テニス部? ああ、今日は雨だから部活がないのね」

 瀬那先輩はチラリと窓に視線を送る。

「いえ、視聴覚室でビデオを見ていました。だからいつもより早く部活が終わって、教室に向かう途中にある家庭科室の前を通ったら美味しそうな匂いが漏れていて! その匂いに誘われてしまいました」

 えへへ、と笑って頭を掻いた。瀬那先輩は表情を和ませる。

「テニス部は外だから面倒でしょ。校門で待ち合わせしましょ」

 連絡先を交換して、冷めたカフェオレをグッと飲み干す。

「おかわり、いる?」
「お願いします」

 空になったカップに、カフェオレが並々と注がれた。

「瀬那先輩っていい人ですね。初対面の俺に、こんなにいっぱい食べさせてくれて」

 すでに六個のカップケーキを食べ切った。

「アタシはね、可愛い子がアタシの作ったものを美味しそうに食べるのを見るのが好きなの」
「可愛い? 初めて言われましたよ」

 身長は一七ニセンチあって、筋肉だってほどほどについている。顔はどこからどう見ても男だ。可愛い要素なんてない。

「無邪気に頬張って、子どもみたいで可愛いわよ」
「一歳しか違わないじゃないですか!」
「陽太は食べてる時の顔が幼いのよ」

 瀬那先輩は目を細めて、口の端を広げる。その表情が一つしか変わらないのが嘘のように、大人っぽく見えた。
 不意に見せられた顔に、胸の奥がソワソワと落ち着かない。
 フルフルと首を振って、カップケーキを口に詰め込む。

「もう、一気に食べるから、口にクリームがついてるわよ。これのどこが子どもじゃないのかしら?」

 瀬那先輩がポケットティッシュを出した。一枚引き抜いて、端正な指先がティッシュ越しに口の端へ触れる。
 ジッと俺の口元を見つめる瀬那先輩の視線がやけに熱くて、居心地が悪くなった。

「あ、ありがとうございます」

 小さく頭を下げて、カフェオレに口をつけた。




 次の日の部活後、スマホを見ると瀬那先輩から『待ってるわ』とメッセージが届いていた。
 全速力で校門に向かう。

「お待たせして、すみません」

 息を弾ませる俺に、瀬那先輩は眉を下げて笑う。
 背筋がピンと伸びていて姿勢がいい。エプロンがなくて学生服のみだと、凛としてかっこいい。そう思ったけれど、視線を下げると膝が内側に寄っていた。
 そのアンバランスさが、瀬那先輩の魅力なのだろう。親しみやすさも湧く。

「別に気にしてないわよ。慌てなくてもいいのに」

 綺麗にアイロンがけされたハンカチで、額の汗を拭われた。

「すみません、汚してしまって」

 ジャージの袖でゴシゴシと顔を拭く。

「汚れたら洗えばいいだけよ。強く擦ったのね。顔が赤くなってるわ」

 瀬那先輩に鼻の先をチョンと突かれた。
 目を丸くしていると、腹の虫が『ぐー』と騒ぎ出す。
 瀬那先輩は視線を下げて、俺の腹をまじまじと見つめた。

「空気を読まないわね。情緒もないし」
「すみません」

 照れくさくて、乾いた笑みを向ける。

「まあいいわ。行くわよ」
「どこにですか?」
「公園。言ったでしょ。アタシは食べるところを見るのが好きって。一つはアタシの前で食べなさいよ。夕飯が食べられなくなるといけないから、残りは持って帰って」
「はい、ありがとうございます。楽しみです」

 カップケーキを食べても、夕飯は余裕で食べられるが、家でも食べられるのは嬉しい。




 すぐ近くの公園に行き、東屋にあるテーブルについた。
 正面に座る瀬那先輩が、ラップに包んだカップケーキを一つ取り出す。ラップを取ってから、クリームとレモンを乗せてくれた。

「こっちは家で食べる分。クリームも入れてあるから、自分で乗せて食べなさい」

 紙袋の中には、四つも入っていた。

「ありがとうございます。いただきます!」

 勢いよくかぶりついた。口の中が幸せで満たされる。

「今日も美味しすぎます」
「そう、よかったわ。陽太は部活、楽しい?」

 咀嚼しながら首を捻る。飲み込んでから、口を開いた。

「どうでしょう? まだ入部して二ヶ月ですし、球拾いや素振りばかりなので。これから楽しくなるように、基礎をしっかり身につけます」

 瀬那先輩は額を押さえて、大きな息を吐き出した。

「あっ、余計なことまで話してしまいましたね。すみません」
「ううん、違うのよ。今のはアタシが悪いわ。人が話している時に取る態度じゃなかった。ごめんなさい」

 瀬那先輩は顔の前で両手を振って否定する。

「陽太は子どもみたいな無邪気さで、アタシの作ったお菓子をたくさん食べてくれるでしょ? そんな子が真剣な顔をして、部活の話をするなんて思わなかったの。基礎より早く打ちたい、みたいなことを言うと思っていたわ。自分でもチョロいと思うんだけど、アタシはギャップに弱いのよ」

 瀬那先輩は大きな手で、自分の頬を包んだ。耳先が少し赤い。
 ギャップといえば、瀬那先輩の方があると思うけど。
 めちゃくちゃイケメンなのに、お菓子作りが得意。仕草や話し方は女性っぽくて、フリルエプロンが似合う。でも、中身は男。

「もっと聞かせなさいよ」
「瀬那先輩はテニスに興味があるんですか?」

 瀬那先輩の纏う空気が、冷えたような気がした。思わず腕をさする。

「はー、鈍いわね」

 瀬那先輩は額を押さえて、大袈裟に肩を落とした。すぐに視線が交わり、眉を下げて続ける。

「アタシがテニスをすることはないけれど、見ることはあるかもしれないわ」
「見るのも楽しいですよ!」
「テニスのことっていうより、アンタがどう思ってるかの方が知りたいわ」

 俺の思ってること?

「うーん、俺は中学で軟式テニス部だったんです。高校から硬式テニスを始めました」
「あら、経験者なの? それなら素振りばかりじゃ退屈ね」
「いえ、そうでもなくて。軟式と硬式では打ち方が違うんです。俺は軟式の癖がついているから、直すのが難しくて。だから、素振りを真面目にやらないと。あっ、でも、最初の頃よりは良くなってきてるかなって思います!」

 俺がフォアハンドを打つように右腕を振り抜くと、瀬那先輩は柔らかい笑顔で頷いた。ついつい熱が入ってしまい、ハッとする。

「すみません、俺ばっかり喋っちゃって」
「あら、いいのよ。好きで聞いてるんだから」

 やけにその言葉が大きく聞こえた。
 瀬那先輩の見守るような微笑みが、西陽に照らされて赤く見える。
 いや、赤いのは俺の方なのかもしれない。顔が火照る。
 なんだか瀬那先輩と視線が合わせられなくて、残りのカップケーキを口に押し込んだ。

「ちょっと、そんなに一気に食べないの。はい、ハーブティーよ」

 水筒から紙コップに赤みがかったハーブティーが注がれた。
 グッと飲み干すと咽せる。

「うー、瀬那先輩。すごく酸っぱいです」
「バカね。一気に飲むものじゃないの。ゆっくり味わって飲みなさい」

 瀬那先輩は一口含んで、眉間に皺を刻んだ。

「瀬那先輩も酸っぱいんですね」

 おかしくって笑ってしまった。瀬那先輩も「そうね」と同意してまた口をつける。
 さっきまでのむず痒いような空気はなくなって、ハーブティーを飲みながら笑い合う。

「瀬那先輩も酸っぱいのに、このハーブティーが好きなんですか?」
「うーん、嫌いではないわ。綺麗なルビー色で、見た目が華やかでしょ?」

 瀬那先輩は両手で紙コップを持ち、ハーブティーに視線を落とす。

「これね、クエン酸が豊富だから酸味があるのよ。運動後の疲れをリセットしてくれる効果があるわ」

 運動後の疲れ? 瀬那先輩は家庭科部だから、運動は体育くらいだろう。もしかして……。

「それって、俺のために淹れてくれたってことですか?」

 瀬那先輩が口角を横に広げて目を細め、妖艶に笑う。

「他にいないでしょ」

 体のことまで考えてくれたのか。

「ありがとうございます! 明日からもめっちゃ頑張れそうです」
「大袈裟ね。ねぇ、また家庭科部で作ったものを食べてくれるかしら?」
「食べたいです! 瀬那先輩は本当に優しいですね」

 瀬那先輩が頬に手を当てて、眉を下げる。

「優しさだけで、食べさせるわけないでしょ。アタシは食べてるところを見たいの。アタシのお菓子じゃなきゃ、満足できなくしてあげるわ。覚悟していなさい」

 瀬那先輩は片方の口角だけを上げて、不敵に笑った。

「楽しみです。俺はすでに、瀬那先輩のお菓子のファンですもん」
「もう! 絶対にアタシの意図が伝わっていないじゃない。そこは照れるところよ」
「そうなんですか?」
「でも、そんなところも庇護欲をそそられるのよ。いっぱい食べさせて、餌付けしたくなるわ」

 瀬那先輩は自分の体を抱いて、視線を斜め下に向ける。
 そしてすぐに、伺うようにこちらへ視線を投げる。

「もう少し話していたかったけど、そろそろ帰りましょ。遅くなると心配されるでしょ?」

 瀬那先輩がテーブルを片付ける。
 俺は心配なんてされないけど、瀬那先輩の家はそうなのかもしれない。
 もらったカップケーキをスクールバッグにしまい、「ありがとうございます」と伝える。
 片付け終わると立ち上がり、二つ並ぶ伸びた影を眺めながら歩いた。
 瀬那先輩の方が少し長い。同じくらいだと思ったのに、瀬那先輩の方が背が高いらしい。