被服室には朝から慌ただしい空気が流れていた。展示作品の最終確認をしながら俺は何度も時計を見ていた。共同作品、個人作品も共に完成し文化祭もついに当日を迎えた。展示開始から一時間ほど経った頃。
「……うさちゃん」
小さな声の持ち主が顔をゆっくり上げ、ぱちりと瞬きをして目が合う。展示スペースの前に五歳くらいの女の子がちょこんと立っていた。そしてその目線の先には俺が作ったうさぎのフェルトマスコットが。白い身体に赤い目、青いリボンを付けた特にお気に入りの作品だった。
「これ……うさちゃん?」
恐る恐る訊く声に「そうだよ」と柔らかく答えると女の子の顔がぱっと明るくなって思いっきり笑った。その顔を見て、一気に腑に落ちた気分になった。俺は、俺が作った作品で笑う子供たちをそばで見守りたい。
「お兄ちゃんが作ったの?」
「うん」
「すごいね!」
女の子はもう一度うさぎを見上げる。しばらく考えるように首を傾げてからまた笑う。
「お兄ちゃん、せんせいみたい!」
その言葉を聞いた瞬間、声には出なかったが え、と心の中で聞き返してしまった。
「だって優しいし!」
屈託なく笑って続ける女の子。一瞬だけ息が止まる。保育士になりたい。ずっとそう思ってきた。だけど、なれるかどうかなんて分からないし結局は自分の努力次第である。そして今はただの高校生だ。それなのに、自然と笑みが零れる。
「ありがとう、でもまだ先生じゃないんだ」
「そうなの?」
「うん。でもなりたいって思ってるよ」
そう言うと女の子は何故か自分のことのように嬉しそうにまた笑った。
「なれるよ!」
「ありがとう」
背中を押してもらったみたいな感覚。いや、この言葉にすごく救われた。ただただ真っ直ぐな言葉がこんなに刺さると思っていなかった。保育士になろう。保育士になって、この笑顔を守れるようなせんせいになろう。女の子はその後ほかの展示作品を見回ってお母さんと高さの合わない手を繋いで笑顔で帰って行った。女の子が帰ったあとも展示スペースには時折親子連れが訪れた。
「これなーに?」
「指人形だよ」
「ゆびにんぎょう?」
男の子が指差したのは天井に作ったこぶたときつね、ねこの指人形だった。"指人形"と教えると男の子は不思議そうな顔をする。俺は天井ではない予備の作品を手にはめる。
「こうやって遊ぶんだよ」
指人形を人差し指にはめる。予備の指人形はたぬきだった。
たぬきの丸いしっぽが小さく揺れる。
「こんにちは〜」
少し高い声を作って話しかける。男の子の目が丸くなるのが分かる。
「すごい、しゃべった!」
「お名前なんて言うの?」
「……ぼく?ぼく、はると!」
「じゃあはるとくんだね。はるとくん、僕と握手してくれる?」
指人形の身体を指を曲げてゆらゆらと動かす。その度に男の子が大きく口を開けて笑う。俺がそう話しかけると男の子は縫い付けられているたぬきの手を小さな手で優しく握った。
「わぁ、ありがとう」
男の子の隣でお母さんも一緒に笑う。ふと視線を感じて顔を上げると少し離れた展示スペースの入口から知隼がこちらを見ていた。それに気付いて目が合うと知隼は少しだけ笑って親指を立てていた。
「じゃあね!たぬきさん!」
「またね」
と言って、また指を曲げる。男の子は何度も振り返りながらお母さんと一緒に展示スペースを離れていった。その背中を見送りながら思わずこっちまで笑ってしまう。不思議と胸の奥が温かく感じた。そのあとも大きな問題もなく展示会は終わりの時間になっていた。展示作品をボードから下げ、片付けを始める。片付けを終えた部員たちは荷物をまとめ少しずつ帰り始めていた。被服室にはもうほとんど人がおらず机の上には共同作品のタペストリーがだらりと垂れ下がっている。俺も整理をしようとしていた時。「志田くん」と呼ぶその声に振り返る。
「文化祭お疲れさま」
「髙田先輩もお疲れさまでした」
さっきまで展示スペースで俺に向かって笑顔を向けていた知隼はそこに居なくて、どことなく元気がないように見えた。
「髙田先輩、もう退部なんですよね」
気付けばそう口にしていた。自分でも驚くくらい声が小さい。知隼は一瞬だけ目を丸くしてそれから少し視線を落とす。
「そうだね」
ぽつりと落ちる声。たった一言の返事を聞いて胸が苦しくなる。それと同時に退部が現実味を帯びてきたように感じた。
「志田くん!」
突然、いつもの明るい声が静かな被服室に響いてつい肩が跳ねる。顔を上げると知隼がこちらへ歩いてきていた。けれど、何かを隠しているみたいに両腕を後ろで組んでいる。そして、知隼は一歩、また一歩と近付く。そんな知隼を見ながら荷物の整理が終わっていたそんな頃。俺の目の前で足を止めた知隼は後ろに組んでいた両手をそわそわと動かしながら
「あのさ、これ……」
と言ってその手を差し出した。大きな手のひらの上には、粒の揃わない不揃いなビーズのリングが握られていた。初日に針の通し方から付きっきりで教えていたあの不器用な知隼の手。訳が分からず上手く状況が飲み込めない。そんな中上手く言葉にできずにいると知隼の口がゆっくりと開く。
「志田くん、俺と結婚してください」
いつもの調子で冗談っぽく告げる声。その言葉が耳に通った瞬間慌てて知隼は俺の左手をそっと引き寄せる。少し冷たい知隼の手。そして、俺の薬指にリングを滑り込ませる知隼の手は、隠しようもないくらいに震えている。冗談だって笑い飛ばしたいのに耳まで真っ赤にした横顔と、指先から伝わる緊張のせいで俺の心臓はうるさいくらいに脈を打つ。動かす度にカチ、と小さなプラスックの音が響いて、俺の薬指に不揃いなビーズの輪が収まる。なにか言い返さなきゃいけないのに、胸の奥がカッと熱くなって、どうしても声が出ない。俺はただ、ゆっくりと左手を持ち上げて、はめられたばかりの歪な指輪をじっと見つめることしか出来なかった。
「え、あの……」
やっと出た声は絞り出したかのような掠れた弱々しい声だった。そんな俺の姿に知隼は気まずそうに頭を搔いた。
「ごめん。さすがにさっきのは冗談……」
「……冗談なんですか」
「え?」
知隼が動きを止め、丸くした目で俺を見つめる。俺はもう一度、自分の左手の薬指に視線を落とした。はめられたビーズのリングは、俺の指に対してひと回りだけサイズが大きかった。指を動かすと、テグスの結び目が手のひら側へゆるりと頼りなく滑り落ちる。知隼はきっと、俺の指の太さを必死に想像して「これくらいかな」って大きな手で小さなビーズをひとつずつ、不器用に通してくれたのだろう。そう思ったたらサイズが合わなくて少し空間の空いた薬指がどうしようもないくらい愛おしくて、熱が込まる。
「……サイズ、ちょっと大きいです」
緩いリングが落ちないよう、左手をそっと握りしめながらその目を真っ直ぐに見つめた。
「冗談なら、なんで俺に……なんで、そんなに手が震えてるんですか」
逃げ道を塞ぐような俺の言葉に、知隼は完全に言葉を失った。西日の差し込む被服室の隅で、知隼の顔が見る見るうちに真っ赤に染まっていくのが分かった。
「今はいつもの"お礼"……ってことにしといて」
そんな捨て台詞を残して知隼は被服室を出ていった。走るように出ていった背中を見えなくなるまで目で追ってしまい余計胸の奥が熱くなる。その知隼の姿はこれからの退部、そして卒業に向かう姿にも見えた。そう思うだけで、まるで一本の糸で胸を締め付けられているかのように息が苦しくなる。
文化祭も終わり、知隼が手芸部を退部してから1週間が経った。ガララ、と音を立てて開いた被服室には、女子部員たちの楽しげな話し声が響いている。だけど、俺の隣にあったはずの、あのやけに大きな背中はもうどこにもない。
「志田くん、ここの壁紙なんだけど……」
「あ、はい。今行きます」
明るい女子たちの声に紛れながら、俺は自分の作業を進める。今日からまた、この部活の男子部員は俺ひとりだ。頭の片隅で「志田先生〜!」と呼ぶ知隼の不器用な笑顔がチラついて離れない。その度に、俺のズボンのポケットの奥にそっと右手を突っ込んだ。指先に触れる、小さくて粒の揃わないプラスチックの感触。文化祭の終わりに知隼がくれた、あのビーズリングだ。さすがに男の俺が普段からリングをつけるのは恥ずかしくて、誰にも言わずにこうして制服のポケットに隠し持っている。けれど、油断するとすぐに、ポケットの中でビーズを転がしながら知隼のことばなり考えてしまう自分がいた。
――「今は、いつもの"お礼"ってことにしといて」
あの時、知隼が残したそんな言葉が俺の中で何度もリフレループする。やがて放課後の終わりを告げるチャイムが鳴り、顧問の挨拶で部員たちが帰っていく。文化祭のあの人同じような光景だった。静かな被服室の隅。知隼がいつも座っていた俺の隣の机に吸い寄せられるように俺はそっと腰を預けた。周りに誰もいないのを確認してポケットの奥から大事に隠していたビーズリングを取り出す。西日にかざすと不揃いに重なるビーズがキラキラといびつに煌めいた。息をひそめながら、それの左手の薬指にゆっくりの滑り込ませる。
「……やっぱり、ちょっと大きい」
少しだけ隙間の空いた薬指。相変わらず、手を下に向けるとテグスの結びが手のひら側に回ってしまう。だけど、この小さな隙間を見つめているとあの日。俺の左手を掴んでいた知隼の手の熱や、震えていた指先の感触が驚くほど鮮明に蘇ってくる。知隼は、どんな思いでこの小さな粒に糸を通したのだろう。男の俺に「結婚してください」なんて冗談を言うために、どれだけ心臓をバクバクさせていたのだろう。そこまで考えて喉の奥がカッと熱くなった。
「意味わかんない……」
ぽつりと呟いた自分の声が静かな教室に寂しく響く。もし本当にただの"お礼"なら、なんで……。そんな疑問と一緒にリングをはめた時の知隼の真っ赤に染った耳元を思い出す。そして、これがただの知隼が退部した寂しさなら、俺がこんなに胸が引き裂かれそうなくらいあの人に会いたいと願うはずがないのだ。落ちそうになるリングを落とさないように左手をぎっと強く握りしめる。西日の眩しさに目を細めながら、俺はついに、胸を強く締め付けていた一本の糸の正体に気がついた。
「俺、髙田先輩が、好きだったんだ……」
初めて自覚した自分の気持ちは、夕暮れの被服室の温度みたいにどうしようもないくらい熱くて。そして、もう部活に来ない知隼を思うと泣きそうになるほど切なかった。照らされた青いビーズはいつの間にか夕焼け色に染まっている。半年もないたった数ヶ月の思い出が全部リングに詰め込まれているみたいだ、と思った。儚くて、とても綺麗だった。この輪だけはどうしても手離したくない。今の俺が唯一知隼と繋がれるたったひとつの輪だと思ったから。
「……うさちゃん」
小さな声の持ち主が顔をゆっくり上げ、ぱちりと瞬きをして目が合う。展示スペースの前に五歳くらいの女の子がちょこんと立っていた。そしてその目線の先には俺が作ったうさぎのフェルトマスコットが。白い身体に赤い目、青いリボンを付けた特にお気に入りの作品だった。
「これ……うさちゃん?」
恐る恐る訊く声に「そうだよ」と柔らかく答えると女の子の顔がぱっと明るくなって思いっきり笑った。その顔を見て、一気に腑に落ちた気分になった。俺は、俺が作った作品で笑う子供たちをそばで見守りたい。
「お兄ちゃんが作ったの?」
「うん」
「すごいね!」
女の子はもう一度うさぎを見上げる。しばらく考えるように首を傾げてからまた笑う。
「お兄ちゃん、せんせいみたい!」
その言葉を聞いた瞬間、声には出なかったが え、と心の中で聞き返してしまった。
「だって優しいし!」
屈託なく笑って続ける女の子。一瞬だけ息が止まる。保育士になりたい。ずっとそう思ってきた。だけど、なれるかどうかなんて分からないし結局は自分の努力次第である。そして今はただの高校生だ。それなのに、自然と笑みが零れる。
「ありがとう、でもまだ先生じゃないんだ」
「そうなの?」
「うん。でもなりたいって思ってるよ」
そう言うと女の子は何故か自分のことのように嬉しそうにまた笑った。
「なれるよ!」
「ありがとう」
背中を押してもらったみたいな感覚。いや、この言葉にすごく救われた。ただただ真っ直ぐな言葉がこんなに刺さると思っていなかった。保育士になろう。保育士になって、この笑顔を守れるようなせんせいになろう。女の子はその後ほかの展示作品を見回ってお母さんと高さの合わない手を繋いで笑顔で帰って行った。女の子が帰ったあとも展示スペースには時折親子連れが訪れた。
「これなーに?」
「指人形だよ」
「ゆびにんぎょう?」
男の子が指差したのは天井に作ったこぶたときつね、ねこの指人形だった。"指人形"と教えると男の子は不思議そうな顔をする。俺は天井ではない予備の作品を手にはめる。
「こうやって遊ぶんだよ」
指人形を人差し指にはめる。予備の指人形はたぬきだった。
たぬきの丸いしっぽが小さく揺れる。
「こんにちは〜」
少し高い声を作って話しかける。男の子の目が丸くなるのが分かる。
「すごい、しゃべった!」
「お名前なんて言うの?」
「……ぼく?ぼく、はると!」
「じゃあはるとくんだね。はるとくん、僕と握手してくれる?」
指人形の身体を指を曲げてゆらゆらと動かす。その度に男の子が大きく口を開けて笑う。俺がそう話しかけると男の子は縫い付けられているたぬきの手を小さな手で優しく握った。
「わぁ、ありがとう」
男の子の隣でお母さんも一緒に笑う。ふと視線を感じて顔を上げると少し離れた展示スペースの入口から知隼がこちらを見ていた。それに気付いて目が合うと知隼は少しだけ笑って親指を立てていた。
「じゃあね!たぬきさん!」
「またね」
と言って、また指を曲げる。男の子は何度も振り返りながらお母さんと一緒に展示スペースを離れていった。その背中を見送りながら思わずこっちまで笑ってしまう。不思議と胸の奥が温かく感じた。そのあとも大きな問題もなく展示会は終わりの時間になっていた。展示作品をボードから下げ、片付けを始める。片付けを終えた部員たちは荷物をまとめ少しずつ帰り始めていた。被服室にはもうほとんど人がおらず机の上には共同作品のタペストリーがだらりと垂れ下がっている。俺も整理をしようとしていた時。「志田くん」と呼ぶその声に振り返る。
「文化祭お疲れさま」
「髙田先輩もお疲れさまでした」
さっきまで展示スペースで俺に向かって笑顔を向けていた知隼はそこに居なくて、どことなく元気がないように見えた。
「髙田先輩、もう退部なんですよね」
気付けばそう口にしていた。自分でも驚くくらい声が小さい。知隼は一瞬だけ目を丸くしてそれから少し視線を落とす。
「そうだね」
ぽつりと落ちる声。たった一言の返事を聞いて胸が苦しくなる。それと同時に退部が現実味を帯びてきたように感じた。
「志田くん!」
突然、いつもの明るい声が静かな被服室に響いてつい肩が跳ねる。顔を上げると知隼がこちらへ歩いてきていた。けれど、何かを隠しているみたいに両腕を後ろで組んでいる。そして、知隼は一歩、また一歩と近付く。そんな知隼を見ながら荷物の整理が終わっていたそんな頃。俺の目の前で足を止めた知隼は後ろに組んでいた両手をそわそわと動かしながら
「あのさ、これ……」
と言ってその手を差し出した。大きな手のひらの上には、粒の揃わない不揃いなビーズのリングが握られていた。初日に針の通し方から付きっきりで教えていたあの不器用な知隼の手。訳が分からず上手く状況が飲み込めない。そんな中上手く言葉にできずにいると知隼の口がゆっくりと開く。
「志田くん、俺と結婚してください」
いつもの調子で冗談っぽく告げる声。その言葉が耳に通った瞬間慌てて知隼は俺の左手をそっと引き寄せる。少し冷たい知隼の手。そして、俺の薬指にリングを滑り込ませる知隼の手は、隠しようもないくらいに震えている。冗談だって笑い飛ばしたいのに耳まで真っ赤にした横顔と、指先から伝わる緊張のせいで俺の心臓はうるさいくらいに脈を打つ。動かす度にカチ、と小さなプラスックの音が響いて、俺の薬指に不揃いなビーズの輪が収まる。なにか言い返さなきゃいけないのに、胸の奥がカッと熱くなって、どうしても声が出ない。俺はただ、ゆっくりと左手を持ち上げて、はめられたばかりの歪な指輪をじっと見つめることしか出来なかった。
「え、あの……」
やっと出た声は絞り出したかのような掠れた弱々しい声だった。そんな俺の姿に知隼は気まずそうに頭を搔いた。
「ごめん。さすがにさっきのは冗談……」
「……冗談なんですか」
「え?」
知隼が動きを止め、丸くした目で俺を見つめる。俺はもう一度、自分の左手の薬指に視線を落とした。はめられたビーズのリングは、俺の指に対してひと回りだけサイズが大きかった。指を動かすと、テグスの結び目が手のひら側へゆるりと頼りなく滑り落ちる。知隼はきっと、俺の指の太さを必死に想像して「これくらいかな」って大きな手で小さなビーズをひとつずつ、不器用に通してくれたのだろう。そう思ったたらサイズが合わなくて少し空間の空いた薬指がどうしようもないくらい愛おしくて、熱が込まる。
「……サイズ、ちょっと大きいです」
緩いリングが落ちないよう、左手をそっと握りしめながらその目を真っ直ぐに見つめた。
「冗談なら、なんで俺に……なんで、そんなに手が震えてるんですか」
逃げ道を塞ぐような俺の言葉に、知隼は完全に言葉を失った。西日の差し込む被服室の隅で、知隼の顔が見る見るうちに真っ赤に染まっていくのが分かった。
「今はいつもの"お礼"……ってことにしといて」
そんな捨て台詞を残して知隼は被服室を出ていった。走るように出ていった背中を見えなくなるまで目で追ってしまい余計胸の奥が熱くなる。その知隼の姿はこれからの退部、そして卒業に向かう姿にも見えた。そう思うだけで、まるで一本の糸で胸を締め付けられているかのように息が苦しくなる。
文化祭も終わり、知隼が手芸部を退部してから1週間が経った。ガララ、と音を立てて開いた被服室には、女子部員たちの楽しげな話し声が響いている。だけど、俺の隣にあったはずの、あのやけに大きな背中はもうどこにもない。
「志田くん、ここの壁紙なんだけど……」
「あ、はい。今行きます」
明るい女子たちの声に紛れながら、俺は自分の作業を進める。今日からまた、この部活の男子部員は俺ひとりだ。頭の片隅で「志田先生〜!」と呼ぶ知隼の不器用な笑顔がチラついて離れない。その度に、俺のズボンのポケットの奥にそっと右手を突っ込んだ。指先に触れる、小さくて粒の揃わないプラスチックの感触。文化祭の終わりに知隼がくれた、あのビーズリングだ。さすがに男の俺が普段からリングをつけるのは恥ずかしくて、誰にも言わずにこうして制服のポケットに隠し持っている。けれど、油断するとすぐに、ポケットの中でビーズを転がしながら知隼のことばなり考えてしまう自分がいた。
――「今は、いつもの"お礼"ってことにしといて」
あの時、知隼が残したそんな言葉が俺の中で何度もリフレループする。やがて放課後の終わりを告げるチャイムが鳴り、顧問の挨拶で部員たちが帰っていく。文化祭のあの人同じような光景だった。静かな被服室の隅。知隼がいつも座っていた俺の隣の机に吸い寄せられるように俺はそっと腰を預けた。周りに誰もいないのを確認してポケットの奥から大事に隠していたビーズリングを取り出す。西日にかざすと不揃いに重なるビーズがキラキラといびつに煌めいた。息をひそめながら、それの左手の薬指にゆっくりの滑り込ませる。
「……やっぱり、ちょっと大きい」
少しだけ隙間の空いた薬指。相変わらず、手を下に向けるとテグスの結びが手のひら側に回ってしまう。だけど、この小さな隙間を見つめているとあの日。俺の左手を掴んでいた知隼の手の熱や、震えていた指先の感触が驚くほど鮮明に蘇ってくる。知隼は、どんな思いでこの小さな粒に糸を通したのだろう。男の俺に「結婚してください」なんて冗談を言うために、どれだけ心臓をバクバクさせていたのだろう。そこまで考えて喉の奥がカッと熱くなった。
「意味わかんない……」
ぽつりと呟いた自分の声が静かな教室に寂しく響く。もし本当にただの"お礼"なら、なんで……。そんな疑問と一緒にリングをはめた時の知隼の真っ赤に染った耳元を思い出す。そして、これがただの知隼が退部した寂しさなら、俺がこんなに胸が引き裂かれそうなくらいあの人に会いたいと願うはずがないのだ。落ちそうになるリングを落とさないように左手をぎっと強く握りしめる。西日の眩しさに目を細めながら、俺はついに、胸を強く締め付けていた一本の糸の正体に気がついた。
「俺、髙田先輩が、好きだったんだ……」
初めて自覚した自分の気持ちは、夕暮れの被服室の温度みたいにどうしようもないくらい熱くて。そして、もう部活に来ない知隼を思うと泣きそうになるほど切なかった。照らされた青いビーズはいつの間にか夕焼け色に染まっている。半年もないたった数ヶ月の思い出が全部リングに詰め込まれているみたいだ、と思った。儚くて、とても綺麗だった。この輪だけはどうしても手離したくない。今の俺が唯一知隼と繋がれるたったひとつの輪だと思ったから。
