放課後アウトライン

志田温司(しだ はるし)は、今日も今日とて針を動かしていた。南宇喜多学園高校(みなみうきたがくえんこうこう)·被服室のやけに日当たりの良い窓際のいちばん後ろの席で白いフェルトに刺繍糸を細かく縫い付けていく。まどろむような春の午後のひととき、楽しそうに話す女子の声が響く。そんな教室の中、黙々と手を動かす俺は手芸部では少し浮いた存在だった。それもそのはず、手芸部の部員の九割は女子が閉めており、男子部員はひとりだけ。(つまり、残りの一割は俺のみである。)入部したばかりの頃は行き場のない孤独感に居心地の悪さを感じたものの、二年が経った今ではすっかり慣れてしまった。

「志田くん、そのうさぎ完成した?」

少し離れた席から声がかかる。声の元を辿るように顔を上げると同じ手芸部の女子部員が興味深そうに俺の手元を覗き込んでいた。

「あと少しで完成します」
「やっぱり上手だよね!縫い目も綺麗だし」
「ありがとう」

短くそう答えると、満足したように小さく頷いて自分の作業へと戻っていった。会話はそれだけで、女子部員はただひとりの男子にも優しく作品を褒めてくれたり話しかけてくれる事も少なくなかった。だけど、いつもどことなく楽しそうな笑い声の向こう側にいるような気分になる。恋愛の話や休日の予定の相談に盛り上がる彼女たちを横目に俺はまた黙々と針を動かす。それが、限られた活動日のいつもの放課後だった。誰かに避けられている訳でもなく、ただ自然とそうなっただけだ。入部したての頃は中央の席に座っていた。だけど次第に女子が話しやすいように少しずつ窓際へ席をずらし、作業の邪魔にならないように後ろへ席を移動していき気が付けば窓際のいちばん後ろの席が定位置になっていた。ここが定位置になってから一年が経つ。窓から差し込む春の日差しは心地よく、のどかで落ち着く。今ではこの場所がいちばんしっくりきていた。

針仕事を好きなったのも、手芸を始めたのもずいぶんと前。
きっかけは母だった。両親ともに保育士で休日になるとフェルトを糸で縫いつけ小さなおもちゃや指人形などをたくさん作っていた。俺はそれをずっと傍で見つめていた。糸を扱う手がなんだか魔法のように見えて、俺は手芸が好きになった。ふたりの話を聞きながら育った俺にとって保育士という夢はずっと当たり前にある夢だった。(正確に言うと、保育士を目指したのは手芸を好きになった時と同じ時期だ。)毎月変わる壁掛け飾りに、名札、動物の指人形。そして、フェルトマスコット。両親の見よう見まねでがむしゃらに作品を作り続けていれば手芸だけはクラスの誰よりも上手になっていた。
「男子で手芸部って珍しいよね」なんて言葉は、今でもたまに聞くがもう慣れてしまった。慣れたはずのその言葉を再度聞く度にむねのおくがうるさくなる。そんなことを考えながらも目線は自分の指先で、手を動かすことは止めず代わりに小さく息を吐いた。

「――ありがとうございましたー」

気付けば終礼の時間。声を合わせ前のホワイトボードに向けて挨拶をする。後者を出ると、夕暮れの風が頬を撫でる。
部活のある日はいつもこの時間。夕日が眩しい。見慣れた商店街を抜けて自宅へ帰る。手芸部は、運動部のように毎日活動がある訳では無い。宇喜多(南宇喜多学園高校の略。)の文化部の活動日は火、木、金の週三日間だけ。その三日間の放課後は俺にとって貴重な時間だ。
家に帰り、自室の机に向かう。机の上には図書館で借りた手芸本と母から借りた作品集の本が積まれている。刺繍の図案集やフェルトマスコットの作り方、デザイン集のページをめくる度に知らない技法や工夫の仕方が次々と目に飛び込んでくる。俺は夢中でページをめくり続けていた。長く没頭していたのか、時計は二十三時を指していた。今日はここまでにしよう。心の中で区切りをつけて本を閉じる。明日は部活のない水曜日。次に、被服室に向かうのは二日後の木曜日。机の上のうさぎのマスコットを見つめつい頬が緩む。手芸をして作品を眺める。それが、いつも通りの日常で、俺の幸せだった。

次に被服室へ向かうのは木曜日。そう思いながら眠りについた昨日も、その翌日も長いと思いきや意外とあっという間に過ぎていった。放課後になると俺はいつものように被服室へ向かう。今日は週に三日しかない活動日の二日目であり、俺にとって大切な時間。廊下を歩きながら昨日読んでいた手芸本の内容を思い出す。新しい縫い方、今日試してみようかな……。そんなことを考えながらガラガラと音を立てて被服室の扉を開ける。

「失礼します」

小さく礼をしてから窓際の後ろの席へ向かう。部員たちも思い思いき準備を始めていた。床に鞄を置き、製作途中のフェルトマスコットを取り出そうとしたその時。

「ねえ聞いた?今日体験入部の人来るらしいよ」
「え、本当?」

離れた席から女子部員の声が聞こえる。

「しかも三年生だって」

その言葉に引っ掛かりを覚えた。三年生……?三年の活動期間なんて半年もないのに、なんで今更。珍しいこともあるものだ。そう思いながら縫い針の準備をする。この時は正直、あまり興味はなかった。体験入部なんて毎年何人か来るが、ほとんどが次の日には来なくなる。手芸部は他の文化部と比べても部員数は多くない。多くない部員数がきっと答えだと悟る。

ガラリ、さっきと同じ音を立てながら不意に扉が開く。そして女子部員たちの視線が一斉に入口へと集まった。俺も釣られるように顔を上げるとそのに立っていたのは男子生徒だった。そう、男子生徒が立っていたのだ。少し長めの前髪と整った顔立ち。同じ校舎で何度か見かけたことがあり、ほんの少しだけ見覚えがあった。――確か、髙田知隼(たかだ ちはや)。胸元の校章は緑色だった。それは、彼が三年生であることを示す色。女子部員が言っていた「体験入部に来る三年生」という世にも珍しい人は彼のことで間違いない。

手芸部の部室に男子生徒が立っている。ただそれだけなのに宇喜多ではこの光景は寮に目を引く。理由はひとつ。宇喜多の手芸部の男子部員は俺だけだったのだから。だが、俺が目を引いたのは男子がいるからではなかった。知隼の手が緊張しているように強く握られた拳が震えていたからである。

「失礼します。体験入部に来ました」

拳だけではない。少し掠れながら伝わる声。声だけでも十分にその緊張は伝わってきた。顧問へ真っ直ぐに伝えられたその一言で教室の空気は一変しいつもの落ち着いた雰囲気へと戻る。

「君が体験入部の子ね。道具は準備してあるから分からないことがあったらなんでも聞いて」
「……はい」

脱力したみたいな声。相当、全身力んでいたのだろう。
安心したのも束の間で、次々と知隼は女子部員から質問攻めを受けていた。

「なんで手芸部に来たの?」
「手芸好きなのー?」
「え、えっと……俺、可愛いものが好きで……」

さっきまで力んでいた手をまた緩く握ってそう答えていた声はやけにはっきりとしていて教室内へ明瞭に響く。

「えー!かわいいー!」

俺は女子部員に囲まれる知隼を窓際の後ろの席からぼんやりと眺めていた。すると、その様子に気が付いたのか、知隼は丸い目を大きく見開いてこちらへと小さく笑った。
――「可愛いものが好き」
その言葉に少し驚いた。女子部員たちは楽しそうに笑っているが知隼本人は冗談を言っているようには見えない。

「はいはい、お喋りはそのまで。さっそくコースター作りから始めましょうか。志田くん、ちょっと悪いんだけど……」

顧問が場を仕切りホワイトボードに活動時間と休憩時間をの細かく書く。その声で皆が自分の席へと座って作業を始める。不意に呼ばれた名前に顔を上げた。

「はい」
「髙田くんに少し教えてあげてくれる?男子同士の方が話しやすいでしょ」
「……あ、はい」

断る理由もなく、小さく返事をすると顧問は満足そうに頷いては、隣にいた知隼を俺の方へ手招きした。

「髙田くん、こっち」
「はい!」

俺の隣に来るなり椅子を引いて座る。近くで見ると思ったより背が高い。横でそんな呑気なことを考えていると、知隼は変にかしこまって頭を下げる。そのピンと伸びた背筋を座りながらも九十度に曲げる知隼を見て慌てて俺も腰を曲げる。

「俺、髙田知隼って言います。よろしくね」
「志田温司です。よろしくお願いします。……えっと、さっそく始めましょ」

慣れない敬語を使って知隼に準備を促す。
顧問から渡されたフェルトと刺繍糸を前に知隼はても動かさず困ったように首を傾げていた。

「……」

俺は知隼の手元は見ず、説明を続ける。ふと知隼の手元を見て、小さく瞬きをした。針の穴の前で糸が何度も逸れていて通らない。まったく、通らない。知隼はいたって真剣な顔をしていて指摘しにくい。針の穴と糸の先を見つめて何度も挑戦している。一回、二回。それでも通らず三回。

「……髙田先輩。それ、何回目ですか」

自分の作業から手を離し知隼への手をかけた。

「数えてないけど、十五回、くらい?」
「もしかして刺繍は初めてですか?」
「え?初めてだけど……」

まさかの即答で、思わず口を閉じ唇を浅く噛んだ。
初めて。いや、その覚束無い手元はほんとに初めてらしい。

「針、貸してください」

針を受け取りほつれかけた糸の先を整え、針穴へと通す。これまでに、一秒もかからなかった。知隼はその大きな目をまた丸くして、「……すご」とぽつりと声を落とす。

「いや、糸通しただけですよ」
「すごいよ、俺できてなかったし……」

そう言いながら、知隼は通ったばかりで玉結びもしていない糸をまじまじと見つめていた。

「志田くんってどれくらい手芸やってるの?」
「小さい頃……年長くらいからです。あと、糸通せないなら糸通しもありますから」

次は感心したような声が落ちる。作品を完成させたとかではなく、ただ糸を通しただけなのに褒められる状況に照れくさくなり、視線を手元へと戻した。

「じゃあまずはここから縫ってください」

見本のコースターに指差ししながら説明する。真面目な顔で何度も頷く知隼を横目に次々アドバイスをかける。それに従って針を進めていったが、作業を初めて数分。知隼の手元を見つめた。糸を強く引っ張りすぎたのか布が縮み少し糸がガタガタであった。

「髙田先輩、そこ二針分くらい飛ばしちゃってませんか?」
「え!!!」

知隼がやけに大きなリアクションの後に、慌てて手元を見る。そして本気で落ち込んだ顔をして「うわ……ほんとだ」と言いながら机へ顔を伏せていた。その声は机の上で小さく響く。そんな反応がおかしくて思わず笑いそうになる。必死だ、必死なのだ……ほんとに。

「大丈夫です。アイロンがけでなんとなる部分もあるので」
「志田くんは優しいね……」
「別に優しくは、」
「いや、優しいよ」

緩く否定しようとすると、被せるように知隼が続ける。褒められたみたいで、落ち着かない。俺は逃げるように自分のフェルトマスコットへ視線を戻してまだ縫い途中の縫い目を指差し続きを促すように声をかけた。

「よろしくお願いします、志田先生!」
「先生……?」

疑問が残ったまま、不揃いに縫い付けられた糸を数針分スルスルと解き、針穴に刺して優しく引き締める。その間も知隼は俺の手元を見て眩しいくらいに目を輝かしていた。でもこの気持ちはわかるような気がした。何も分からないけれど、何もかもが輝いて見える。新しい技法を知った時も、新しい刺繍糸を触った時の俺もそうだった。手芸のそういう所が好き。改めて心の中で呟いた。図案が消えているところまで縫い、縫い途中の布を知隼へ返すと再び素直に針を持ち直す。……結論から話すと、また何度か縫い目を飛ばしていたり多少ガタガタではあったがその度にアドバイスを求め、最初に比べて少しずつ綺麗に縫えるようになっていった。

「髙田先輩、そこ布少し縮んでます」
「えーまた?」
「またです」

「また」って……。自分がしたことだぞ。そう思いながらも情けない声をあげながら肩を落とす知隼の姿は餌が貰えなくて落ち込む大型犬のようにも見えた。

「やっぱり俺向いてないんだ……こんな不器用だし」
「たしかに不器用ですけど……。力は入れすぎずでいいんですよ、優しく縫う感じで。あと、今日が初めてなんですからできなくてもおかしくないです」
「そうかな」

知隼は少し驚いた顔で俺を見上げた。そう言う知隼に「そうです」と強めに返す。

「俺も最初からできた訳じゃないので」

目線は机のまま付け足すみたいに呟く。本当に失敗作なんて山ほどある。縫い目が揃わなかった不格好なコースターだって何枚も作った。頻繁に指に針を刺してしまい泣いたこともあった。知隼はしばらく俺を見つけめいたが、やがて片手で口を覆い小さく笑っていた。

「じゃあ頑張る」
「頑張ってください」

そう返すとまた楽しそうに笑う知隼の姿が視界に映る。その笑い声に釣られて周囲の女子部員も生暖かい笑みを零す。不思議だった。ほんの数十分前に来たばかりなのに知隼がいるだけで、いつもの被服室が少しだけ賑やかに見えた。


「できた……!志田くん、どう?」
「おめでとうございます。ちゃんとコースターになってます!」
「それ褒めてる?」
「褒めてますよ。完成したコースターは1度顧問に見せに行ってください」
「はーい、ありがとね志田先生♪」

知隼はそう言い残して顧問へと駆け足気味で向かっていった。
「先生じゃない……」と否定する言葉を聞こえないくらいの声で知隼に向かって言う。けれど知隼は振り返ることなく向かう背中はそれを見るだけで上機嫌だと分かる。完成したコースターを手に、どこか誇らしげなその背中。そんな知隼の姿をぼんやり眺めながら俺はフェルトマスコットを手に持つ。そして、いつも通り作業を始める。白のフェルトに針を刺してフェルトと同じ色の糸を引く。いつもと同じ、いつも通りの放課後。――の、はずだった。

「志田先生〜!俺褒められたよ!」

被服室の前方から聞こえた声に肩が揺れる。
振り返れば、知隼がコースターを片手にこちらへ手を振っていた。その様子に女子部員がくすくすと笑っている。

「だから先生じゃないです」
「でも俺に教えてくれたでしょ?それはもう先生だよ」

反射的に否定すると知隼は悪びれる様子も改善する様子もなく無邪気に笑った。そのまま顧問に何か言われ、今度こそ前を向き直る。……ちょっと変わった人だ。そう思う。けれど、不思議と嫌な気はしなくて、針を持ち直しながらふと窓の外を見る。夕焼けに染まるグラウンド。反対側の窓から幾つか聞こえる運動部の掛け声。いつもと変わらない放課後。ただひとつだけ違うことがあるとすれば。今日の手芸部に、もうひとりの男子が増えたことだった。