エースが告白を撤回させてくれません

 表彰式が終わるころには、空は西日に染まっていた。

 会場出入口のドア付近。俺は邪魔にならないところで、中から出てくる人たちの流れを見ていた。

 ひと目会えるだけでいい。最初はそう思っていた。
 柳井のレースが終わったら帰るつもりだったのに、なぜか今も動けずにいる。

 そのときだった。

 ふいに選手用出入口のドアが開いた。
 出てきたのは柳井だった。
「よ、よう」
 めちゃくちゃ緊張する。平然としたふりをして声をかけると、向こうもすぐ俺に気づいたらしい。
「……小鞠」
 名前を呼びながら、柳井は目を丸くした。

「帰ったと思ってた」
「気づいてたんだ。俺が来てること」
「うん。プールサイドから見えた」
「目ぇ良。レースの前?」
「あと。終わって帰るとき」
 インハイ出場を賭けたレース。しかも新記録を叩き出した直後にもかかわらず、見つけてくれていたんだ。

 じわじわと嬉しくなる。だって俺は柳井から距離を置かれたほうだ。
 何しに来たんだって、追い返されてもしょうがないはず。それなのに柳井に見つけてもらえた。それがたまらなかった。

「新記録、すげーじゃん。インハイ出場も」
「うん」
「その……おめでとう」
 なんだか照れくさい。耳のうしろを掻きながら言うと、柳井は「ありがとう」と短く返してきた。
 
 そのままお互い黙ってしまう。
 まずい。会話が広がらない。

 先に沈黙を破ったのは、柳井のほうだった。

「……なんで来たの?」

 だよなぁ。やっぱりその質問くるよな。

 実は俺もよくわからない。
 ひと目だけでも会いたい。
 そう思った瞬間、足がここに向かっていた。
 ちゃんとした理由にならないかもしれないけど。

「あ、会いたかったから……」

 俺は目線を下にやりつつも正直に伝えた。言葉にすると破壊力がすごくないか? 恥ずかしくて顔が熱い。
 返事が返ってこない。
 やばい。ドン引いた?
 おそるおそる目線を上げると、柳井がうつむきがちに口元を手で覆っていた。困っているような、そんな顔だ。

「せっかく我慢しようとしてたのに、それ聞いたらぜんぶだめになる」

 柳井の顔が赤い。だめってなんだよ。

「そもそも我慢ってなに? 彼氏ごっこやめるとか言い出したこと?」
「……うん」
「全然告白を撤回させてくんなかったのはそっちじゃん」
「ごめん」
「それなのに勝手に我慢しだしてさ。俺から離れようとして。それって、ずるいよ」
「……ごめん」

 本当はこんなことを言うつもりじゃなかった。責めたいわけじゃなかった。
 なのに柳井への好きがあふれて、冷静じゃいられなくなる。遠ざかった距離がもどかしくて、つい手を伸ばしたくなってしまう。

 少し間を置いた、そのときだった。

「ずっと小鞠に言えてなかったんだけど……俺、小鞠のこと昔から知ってたよ」
 突然、柳井の口から放たれた言葉に「え?」となる。

「昔っていつから?」
「小学生のとき。同じスイミングに通ってたから」
 まじか。小学生のスイミングといえば、強化選手に選ばれて絶好調だったときだ。
 そういえば意外にも家が近いことがちょっと前に判明している。同じスイミングに通っていたなんて知らなかった。

「勝手にライバルだと思ってた時期もある」
「ライ……どこがだよ」
「本気で」
「いやいやいや」
 柳井はエースだ。それは言いすぎだろと思ったけど、柳井の目はうそをついているように見えなかった。
「中学の水泳部で会ったときはびっくりした。また一緒に泳げるんだって」
「もっと早く言えよ」
「ごめん」 

 そんな前から知ってくれていたなら、柳井と話したいこと、もっとたくさんあったのに。

「中二の冬にあった大会、覚えてる?」 
「うん、まあ」
 忘れるはずもない。それは俺が選手からマネージャーになって、初めて参加した大会だから。
「大会の一週間前に、俺が生活指導の先生に呼び出されたのは?」
「そんなことあったっけ?」
「あった。塩素で髪の色が抜けてさ。染めたんじゃないかって疑われて」
 言われてみれば、そんなことがあったかもしれない。
 同時から柳井は水泳部のエースだった。そして生活態度に厳しい先生に目をつけられていたのを覚えている。

「黒髪に戻すまで部活に出させてもらえなくて。それで練習できない時期があったんだけど」
「染めてないのに?」
「そう」
「あー……思い出してきたかも」
 あんまり楽しい時期じゃなかったから、鮮明には覚えていない。
 でも柳井が廊下で先生に髪色について叱られている場面には、何度か遭遇したことがある。
「大会前で、どうしても練習に出たかった。隠れて部活に行こうとしたら、先生に見つかって」
 柳井はひと呼吸置くと、口の端をほころばせた。
「でもそのとき小鞠が助けてくれた」
「助けた? 俺が?」
 柳井はコクッとうなずいた。 

「あのとき小鞠、髪染めてただろ」
「あれは……マネージャーになって、ヤケになってたというか」
 選手としてもう泳げないと知ったとき、塩素で色の抜けた自分の髪を鏡越しに見るのがいやだった。だったらもっと明るく染めて、泳いでいた過去を上書きしようと思ったんだっけ。
「先生に『自分の髪のほうが明るいですよ』って言ってさ、俺と先生のあいだに入ってくれた」

 記憶がよみがえる。

 そうだ。部活に向かってる途中で、柳井が先生に注意されているところに出くわしたんだ。

 柳井を助けたかったという気持ちもあったけど、とにかくもう邪魔しないでくれと思った。

 怪我も先生も、泳ぎたい人を邪魔しないで。泳がせてあげてよ――って。

「まじ黒歴史だわ」
 苦笑いすると、柳井は「どこが?」と真顔で言う。
「ヒーローだったよ。俺にとっては」
 恥ずかしげもなく、柳井は言った。
「あのときから、ずっと小鞠のことが特別だった」
 まっすぐな視線が突き刺さる。

 空気が変わったと思った直後、柳井が一歩近づいた。俺に向かって手を差し伸べる。

「好きです」

 そして一度息を吸ってから、言った。

「付き合ってください」

 その言葉を聞いた途端、ぶわっとなだれこんできた感情で胸がいっぱいになる。

 好きな人から言われることが、こんなにも嬉しいなんて知らなかった。
 俺も息を吐く。呼吸を整えてから、口を開いた。

「それ、最初のやつじゃん。練習の」
 柳井は少し不安そうに笑って顔を横にかたむけた。
「返事は?」
「……」
「小鞠?」
「へ、返事っていうけどさ」
「うん」
「俺、授業サボって大会まで来たんだけど」
「うん」
「それが答えみたいなもんじゃん。それじゃ足りない?」
「足りない。ちゃんと聞かせて」
「なんでだよ!」
 急にグイグイくるじゃん。
 でもそうだった。柳井は最初からこういう男だった。

「小鞠の口から、直接聞きたい」
「……」
「小鞠」
 ああもう。どうにでもなれ、俺の初恋。
「……いーよ」
 差し出された大きな手に、俺は自分の手を重ねた。握り返すと、柳井の体温が伝わってくる。

「俺も柳井のこと、好きだもん」

 次の瞬間、グッと柳井のほうに体ごと引き寄せられた。
 心臓がバクバク鳴っている。それは向こうも同じだったようだ。

「ずっとこうしたかった」

 声が震えている。柳井の体温が近い。

「もうごっこなんて言わない。ずっと俺のそばにいて」

 離す気なんてなさそうなほど強く抱きしめられる。
 最初からそう言えばいいのに。でも彼氏ごっこがあったから、きっと俺は柳井のことを好きになったのかもしれない。

「そっちこそ」

 しばらくのあいだ、俺たちは何も言わずに抱きしめ合っていた。
 やがて柳井が少しだけ体を離す。

「帰ろっか」
「だな」
 会場から出てくる人もまばらになってきたとはいえ、人通りの多い場所だ。
 お互い恥ずかしくなって笑い合う。

 ふたり並んで、会場から駅に向かっているときだった。

「ていうかさ」
 と、柳井が切り出した。
「うん?」
「あれ、練習だって知ってた」
「あれって?」
「ダンス部の練習だろ。階段のところで言ってたあの告白」
「え、知ってたの?」
「まあ、状況的に」
 うそだろ。最初から知ってたっていうのか?

「じゃあなんであのとき言わなかったんだよ」
 柳井は俺のほうを見て、ふっと笑った。
「こんなチャンス、二度とないと思ったから」
「まじかよ」

 こいつ、確信犯だ。
 ずっと宇宙人だと思っていたけど、あのゴリ押しは話が通じていないわけじゃなかった。

「彼氏ごっこしてるうちに、小鞠が俺のこと好きになってくれたらいいなって思ってた。でも先に限界きたのは俺のほうで」
 そこまで言ったあと、柳井が少し照れたように目を逸らした。
「……キスしそうになるし」
 放課後デートの帰りのことだろう。すぐにピンときた。

「あのときやっぱそうだったの!?」
「うん」
 俺の勘違いじゃなかったんだ。ホッとすると同時に、いつか柳井とキスすることを考えたら急に恥ずかしくなった。
 やばい。想像しただけで心臓がどうにかなりそうだ。

「してみる?」
「はいっ?」
「今」
「なにを」
「キス」
「いいい今はさすがにむり!」
「なんで?」
「心臓もたない!」

 あわあわする俺を見つめながら、柳井が小さく笑う。

 並んで歩く俺たちのバッグには、おそろいのラッコが揺れる。

 結局最後まで、エースは告白を撤回させてくれなかった。




【おわり】