雨色な君の心に半透明な傘を翳すころ

『――私は……』


私は、自分が持ってきた小さなバッグをぎゅっと握りしめた。
中には、お兄ちゃんが私に内緒で買ってきたであろうほんの少しの焼き菓子が入っている。
お礼の気持ちを伝えたくて、どうしても置いていきたかった、彼の精一杯の贈り物。

「……和奏さん、いないのかな」
もちろん、返事なんて返ってこないはずだった。
お兄ちゃんから聞いた話では、あの人はもうこの世界にはいない幽霊なのだから。

私の記憶の底、あのずっと眠りの底にいた私をハチミツの匂いがする温かい手で握りしめ泣きそうな声で囁いてくれたあの人の気配が、今もこの扉の向こうから優しく漂ってくるような気がしてならなかった。

私は門扉の隙間にそっと身体を滑り込ませた。
一歩足を踏み入れるたびに埃っぽい匂いが鼻をくすぐる。

「お邪魔します……」
小さな声で呟きながら、私は鍵の開いた玄関のドアを押し開け廊下へと足を踏み入れた。
埃の舞う廊下の奥、リビングの扉の向こうから何か擦れるような音が聞こえた気がした。

リビングの扉をすぐ開ける。


『――ちゃんと死ぬから』


その目の前に、和奏さんが、浮いていた。
「え……?」
声にならなかった。

天井の梁から太いロープが伸び、その輪の中にあの人の細い首が通されていた。
あの白い脚が、床から数十センチ上でぶら下がっている。

ギッ。
軋み音が静かな部屋に響いた。

その顔は、悍ましいほどに真っ白に変色していた。

「あ、あ、あ、あ……っ」
喉の奥から、言葉にならない悲鳴がせり上がってくる。

頭が狂いそうだった。
私はガタガタと震える手で、ポケットからスマホを引き出し、一番上にあったお兄ちゃんの番号を狂ったようにタップした。
『もしもし詩織!?どうした、今戻るとこ……』

「おに、ちゃん……お兄ちゃん、お兄ちゃん……っ!!和奏さんが、和奏さんが落ちた……っ!首に、縄が、あ、あ……死んじゃう!!」

『ッ!?どういうことだ?!すぐ行く、そこから動くな!!』
通話が切れ、数分もしないうちに、玄関のドアが破壊されそうな勢いで蹴破られた。

ドタドタと激しい足音が廊下を駆け抜け、リビングの扉が弾ける。
飛び込んできたお兄ちゃんは、床に倒れる和奏さんの姿を見た瞬間、その目が、見たこともない絶望の色に染まった。
「和奏ッ!!」

お兄ちゃんは叫びながら和奏さんに駆け寄り、床に下ろし、その首に巻かれた縄を、爪が剥がれそうになりながらも必死に解いた。
あの日、自分がベランダの柵を越えて、地面に向かって真っ逆さまに落ちていった、あの瞬間の骨が砕けるような衝撃の記憶。
目の前で、また、誰かの命が地面にたたきつけられたのだ。

仰向けにされ、見開かれた和奏さんの目には光が一切なかった。

そして彼女の胸に耳を当て、狂ったように心臓マッサージを始めた。
「起きろ!起きろ和奏!幽霊じゃなかったのかよ!クソがぁっ!!」

お兄ちゃんの手が、和奏さんの胸を何度も何度も強く押す。
その拍子に、和奏さんの服のポケットからくしゃくしゃになった一枚の便箋が転がり落ちた。

そこには、震える文字で、遺書のような言葉が遺されていた。

『橘くんへ。ごめんね。私は幽霊なんかじゃない。生きてる生身の人間だよ。でも、嘘つくのやだからちゃんとで死ぬよ。だから、橘くんは私の分まで……。バイバイ』 

どこまでも歪んでどこまでも独りよがりな最後の贖罪。

「ふざけるな……ふざけるなよ和奏……っ!」
お兄ちゃんの涙が、和奏さんの真っ白な顔にボタボタと落ちていく。

1分。2分。どれだけ胸を押してもあの人の身体はピクリとも動かない。
遠くから、叔父さんが呼んだのであろう救急車のサイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。