あいつが消えたあとも、世界は何事もなかったかのように動き続けていた。
和奏という存在が最初からこの世にいなかったかのように、部屋にはただ冷え切った唐揚げの皿と、古いボストンバッグに詰め込まれた500万円の現金の束だけが残されていた。
俺は泣き喚くのを辞め、すぐに現実の手続きに動いた。
感傷に浸ってバイトをサボれば、翌月の詩織の手術費の分割分が払えなくなるからだ。
まずは叔父を通じて、弁護士と税理士のところへバッグを持ち込んだ。
案の定、個人からの現金贈与ということで、きっちり50万円近くの贈与税が差し引かれる計算になった。
手元に残る金は、450万円。
大学4年間、実家からバスケ部に通うための学費と遠征費、最低限の用具代を引けば、1円の余裕もないほどギリギリの数字だった。
足りる。
あの幽霊が自分の命と引き換えに遺していった数字が俺の進路を無理やりこじ開けた。
そこからは、先生と元監督、そして大学側を巻き込んだ交渉の連続だった。
12月の一般推薦の枠はとうに埋まっていたが、病院の先生が大学の理事会宛てに瑞稀の家庭環境、および妹の高度医療に伴う特殊な生活状況に関する意見書を提出してくれた。
さらに監督が、かつて俺に目をかけてくれていた体育大学のバスケ部監督に直接電話を入れ「あいつのブランクは俺が保証する。後期の特例枠で面接だけでも受けさせてやってくれ」と、かつてのプライドを全て捨てて頭を下げてくれた。
大人たちが泥をかぶり、繋いでくれた首の皮一枚のチャンス。
それが、2月下旬に行われる後期スポーツ推薦・特例選考の面接だった。
2月、選考当日。
冬の寒さは、夏のあの豪雨よりも遥かに俺の身体を痛めつけていた。
郊外にある大学のキャンパスへと向かう道、街頭の温度計はマイナス2度を示していた。
数日前に降った雪が、踏み固められて黒ずんだ氷となり、道の隅にこびりついている。
息を吸い込むたびに肺の奥がツンと痛む。
周りを見渡せば、すでに一般受験で合格を決めたらしい連中や、春からの新生活に向けてアパートを探しにきている同世代の奴らが、親や友達と楽しそうに笑いながら歩いていた。
「春からよろしくね」
「サークル何入る?」
すれ違う奴らの口から漏れる白い息は、どれもこれも眩しかった。
吐き気がする、と俺はマフラーに顔を埋めて視線を落とした。
あいつらは、明日家族が死ぬかもしれない恐怖も、他人の命の重みが詰まった現金の重さも知らない。
この先4年間、大学に通いながらバスケをし、夜には調理場で網を洗い続けなければならない俺の生活なんて想像すらしていないのだろう。
俺の青春は、あいつらとは違う。
汗と涙の爽やかなストーリーなんかじゃない。
血の匂いがして、他人の冷笑に耐え、ただ生きるためだけに復帰する逆説的なものだ。
面接会場となる、巨大な体育館の前にたどり着いた。
見上げるほど高いコンクリートの建物の隙間から風が吹き抜け、俺の制服を揺らす。
冷たい。
指先の感覚はもうほとんどなかった。
あの日、和奏が俺の手を握りしめていた時のあの絶対零度の冷たさが今の俺の指を支配しているようだった。
「……寒いな」
ぽつりとこぼした白い息が、冬の空気の中に一溶けて消える。
俺は、カバンの中でしっかりと握りしめていた、あのバスケっとボールのキーホルダーの感触を確かめた。
和奏の手の冷たさは、今でも俺の錨のままだ。
ギィ、と重い鉄の扉を押し開け、俺は暖房の効いていない冷え切った面接会場の廊下へと足を踏み入れた。
和奏という存在が最初からこの世にいなかったかのように、部屋にはただ冷え切った唐揚げの皿と、古いボストンバッグに詰め込まれた500万円の現金の束だけが残されていた。
俺は泣き喚くのを辞め、すぐに現実の手続きに動いた。
感傷に浸ってバイトをサボれば、翌月の詩織の手術費の分割分が払えなくなるからだ。
まずは叔父を通じて、弁護士と税理士のところへバッグを持ち込んだ。
案の定、個人からの現金贈与ということで、きっちり50万円近くの贈与税が差し引かれる計算になった。
手元に残る金は、450万円。
大学4年間、実家からバスケ部に通うための学費と遠征費、最低限の用具代を引けば、1円の余裕もないほどギリギリの数字だった。
足りる。
あの幽霊が自分の命と引き換えに遺していった数字が俺の進路を無理やりこじ開けた。
そこからは、先生と元監督、そして大学側を巻き込んだ交渉の連続だった。
12月の一般推薦の枠はとうに埋まっていたが、病院の先生が大学の理事会宛てに瑞稀の家庭環境、および妹の高度医療に伴う特殊な生活状況に関する意見書を提出してくれた。
さらに監督が、かつて俺に目をかけてくれていた体育大学のバスケ部監督に直接電話を入れ「あいつのブランクは俺が保証する。後期の特例枠で面接だけでも受けさせてやってくれ」と、かつてのプライドを全て捨てて頭を下げてくれた。
大人たちが泥をかぶり、繋いでくれた首の皮一枚のチャンス。
それが、2月下旬に行われる後期スポーツ推薦・特例選考の面接だった。
2月、選考当日。
冬の寒さは、夏のあの豪雨よりも遥かに俺の身体を痛めつけていた。
郊外にある大学のキャンパスへと向かう道、街頭の温度計はマイナス2度を示していた。
数日前に降った雪が、踏み固められて黒ずんだ氷となり、道の隅にこびりついている。
息を吸い込むたびに肺の奥がツンと痛む。
周りを見渡せば、すでに一般受験で合格を決めたらしい連中や、春からの新生活に向けてアパートを探しにきている同世代の奴らが、親や友達と楽しそうに笑いながら歩いていた。
「春からよろしくね」
「サークル何入る?」
すれ違う奴らの口から漏れる白い息は、どれもこれも眩しかった。
吐き気がする、と俺はマフラーに顔を埋めて視線を落とした。
あいつらは、明日家族が死ぬかもしれない恐怖も、他人の命の重みが詰まった現金の重さも知らない。
この先4年間、大学に通いながらバスケをし、夜には調理場で網を洗い続けなければならない俺の生活なんて想像すらしていないのだろう。
俺の青春は、あいつらとは違う。
汗と涙の爽やかなストーリーなんかじゃない。
血の匂いがして、他人の冷笑に耐え、ただ生きるためだけに復帰する逆説的なものだ。
面接会場となる、巨大な体育館の前にたどり着いた。
見上げるほど高いコンクリートの建物の隙間から風が吹き抜け、俺の制服を揺らす。
冷たい。
指先の感覚はもうほとんどなかった。
あの日、和奏が俺の手を握りしめていた時のあの絶対零度の冷たさが今の俺の指を支配しているようだった。
「……寒いな」
ぽつりとこぼした白い息が、冬の空気の中に一溶けて消える。
俺は、カバンの中でしっかりと握りしめていた、あのバスケっとボールのキーホルダーの感触を確かめた。
和奏の手の冷たさは、今でも俺の錨のままだ。
ギィ、と重い鉄の扉を押し開け、俺は暖房の効いていない冷え切った面接会場の廊下へと足を踏み入れた。



