詩織の手術が成功してから、3日後。
俺はいつも通りローファーを引きずりながら校舎へと登校していた。
無申告バイトの件は、叔父が役所へ泥をすするような思いで頭を下げに行き、先生の診断書とこれまでの経緯を提出したことで、即座に支給停止という最悪の事態だけは免れていた。
だが、学校側に通報が入った事実は消えない。
退学か、停学か。
重苦しい現実を背負ったまま、俺は教室のドアを開けた。
その瞬間、クラスの喧騒がぴたりと止まった。
視線の出処は分かっている。
「――よお、橘」
不意に、背後から低い声がした。
振り返ると、そこにいたのはバスケ部の元監督だった。
部活を辞めて以来、一度もまともに目を合わせてくれなかった鬼監督が、腕を組んで俺の席の横に立っている。
その手には、なぜか一枚の進路指導の書類が握られていた。
「監督……」
「役所から学校に連絡があったぞ。お前が深夜、生活費と妹の手術費のために身を粉にして働いていた件だ。学校のバカどもは規約違反だと騒ぎ立てて退学をチラつかせやがったがな……俺が職員会議で机を叩き割る勢いで怒鳴り散らしてやった。家族の命がかかってる時に、規約だのなんだの抜かして生徒を切り捨てるのが教育かってな。ペナルティは一週間の奉仕活動で手を打たせた。文句ないな」
監督の不器用な庇護。
眩しい正義なんかじゃない。ただの偏愛だ。
だけど俺にはたまらなく有り難かった。
「……ありがとうございます」
「礼を言うな。それと、病院の先生から聞いたぞ。手術、成功したんだってな」
その言葉を合図にしたように、教室の前後から、けたたましい足音がこちらへ向かって殺到してきた。
「橘ァーーーッ!!」
ドアを蹴破るような勢いで飛び込んできたのは、拓海と木村だった。
後ろには、かつて一緒に汗を流したバスケ部の連中がゾロゾロと続いている。
拓海は俺の席に着くなり、プロレス技でもかけるかのように俺の首に腕を回して締め上げてきた。
「聞いたぞこの野郎!手術大成功だってな!なんでそれを真っ先に俺たちにLINEしねえんだよ!」
「痛ぇよ拓海、離せ……っ」
「離すかよ!」
木村がニヤニヤしながら、俺の机をバシバシと叩く。
「まあまあ拓海先輩」
「部活の連中もみんな心配してたんだぜ、橘」
「またいつでもコート戻ってこいよ!席は空けてあるからな!」
口々に叫ぶ部活の奴らの言葉は、相変わらず眩しかった。
こいつらは、俺がどん底の生活保護家庭で、妹を自分の言葉で壊したという暗い過去を知ってもなお、青春の中に俺を強引に引き戻そうとしてくる。
周囲の熱狂的な祝福の声に包まれながら、俺の視線は自然と窓の外へと向かった。
グラウンドを走る運動部の声。
遮るもののない夏の終わりの青空。
あの日からずっと俺の心に降り続いていた灰色の豪雨は、もうどこにもなかった。
胸のポケットに手を伸ばすと、和奏がくれたあのオレンジ色のキーホルダーが、相変わらず冷たく、だけどどこか温かい熱を持って、俺の指先に触れた。
「……ああ、ありがとな、お前ら」
俺は生まれて初めて、他人の前で、取り繕うことのない本物の笑顔を浮かべていた。
俺はいつも通りローファーを引きずりながら校舎へと登校していた。
無申告バイトの件は、叔父が役所へ泥をすするような思いで頭を下げに行き、先生の診断書とこれまでの経緯を提出したことで、即座に支給停止という最悪の事態だけは免れていた。
だが、学校側に通報が入った事実は消えない。
退学か、停学か。
重苦しい現実を背負ったまま、俺は教室のドアを開けた。
その瞬間、クラスの喧騒がぴたりと止まった。
視線の出処は分かっている。
「――よお、橘」
不意に、背後から低い声がした。
振り返ると、そこにいたのはバスケ部の元監督だった。
部活を辞めて以来、一度もまともに目を合わせてくれなかった鬼監督が、腕を組んで俺の席の横に立っている。
その手には、なぜか一枚の進路指導の書類が握られていた。
「監督……」
「役所から学校に連絡があったぞ。お前が深夜、生活費と妹の手術費のために身を粉にして働いていた件だ。学校のバカどもは規約違反だと騒ぎ立てて退学をチラつかせやがったがな……俺が職員会議で机を叩き割る勢いで怒鳴り散らしてやった。家族の命がかかってる時に、規約だのなんだの抜かして生徒を切り捨てるのが教育かってな。ペナルティは一週間の奉仕活動で手を打たせた。文句ないな」
監督の不器用な庇護。
眩しい正義なんかじゃない。ただの偏愛だ。
だけど俺にはたまらなく有り難かった。
「……ありがとうございます」
「礼を言うな。それと、病院の先生から聞いたぞ。手術、成功したんだってな」
その言葉を合図にしたように、教室の前後から、けたたましい足音がこちらへ向かって殺到してきた。
「橘ァーーーッ!!」
ドアを蹴破るような勢いで飛び込んできたのは、拓海と木村だった。
後ろには、かつて一緒に汗を流したバスケ部の連中がゾロゾロと続いている。
拓海は俺の席に着くなり、プロレス技でもかけるかのように俺の首に腕を回して締め上げてきた。
「聞いたぞこの野郎!手術大成功だってな!なんでそれを真っ先に俺たちにLINEしねえんだよ!」
「痛ぇよ拓海、離せ……っ」
「離すかよ!」
木村がニヤニヤしながら、俺の机をバシバシと叩く。
「まあまあ拓海先輩」
「部活の連中もみんな心配してたんだぜ、橘」
「またいつでもコート戻ってこいよ!席は空けてあるからな!」
口々に叫ぶ部活の奴らの言葉は、相変わらず眩しかった。
こいつらは、俺がどん底の生活保護家庭で、妹を自分の言葉で壊したという暗い過去を知ってもなお、青春の中に俺を強引に引き戻そうとしてくる。
周囲の熱狂的な祝福の声に包まれながら、俺の視線は自然と窓の外へと向かった。
グラウンドを走る運動部の声。
遮るもののない夏の終わりの青空。
あの日からずっと俺の心に降り続いていた灰色の豪雨は、もうどこにもなかった。
胸のポケットに手を伸ばすと、和奏がくれたあのオレンジ色のキーホルダーが、相変わらず冷たく、だけどどこか温かい熱を持って、俺の指先に触れた。
「……ああ、ありがとな、お前ら」
俺は生まれて初めて、他人の前で、取り繕うことのない本物の笑顔を浮かべていた。



