雨色な君の心に半透明な傘を翳すころ

自動ドアが左右に開いた瞬間、消毒液の匂いと冷房。
ローファーが床のタイルを濡れた音で鳴らし、ロビーの視線が集まるのを感じるが、そんなものはどうでもいい。

エレベーターを待つ時間すら惜しく、俺は非常階段の扉を体当たりでこじ開け、詩織のいる集中治療室のフロアへと一段飛ばしで駆け上がった。
重い防火扉を押し開けると、そこは静寂の代わりに、赤く点滅する警告灯と、ナースステーションから飛び出してくる看護師たちの緊迫した足音で満ちていた。

「橘くん!」
廊下の奥から、手術着に着替えた先生が鋭い声をあげてこちらへ走ってくる。
その額には、びっしりと冷や汗が浮かんでいた。

「先生、詩織は……っ!」
「今からオペ室に入る。脳波の異常覚醒に伴う急性心不全だ。脳の急激な動きに、未発達な身体の臓器が追いついていない。心停止の危険がある。……橘くん、これが本当に最後の賭けだ。病院の倫理委員会には、叔父さんとかき集めてくれた頭金の件と、僕の医師生命を賭けた保証書を叩きつけて承認をもぎ取った。あとは、詩織ちゃんの生きる力と、僕たちの腕次第だ」

先生の目が、血走ったまま俺を真っ直ぐに見据える。
ここにいる大人たちもまた、組織のルールを破り、自らの破滅のリスクを背負って、泥をかぶる覚悟で詩織の命を繋ごうとしてくれている。
眩しい応援なんていらない。
この、狂気にも似た執着だけが、今の俺の味方だった。

「頼みます……。詩織を、あいつを連れ戻してください」
「任せろ。ここで死なせたら、僕の医者としてのプライドが死ぬ」

先生はそれだけ言い残すと、激しく開閉するオペ室の扉の向こうへと消えていった。
バタン、と扉が閉まり、頭上の手術中の赤いランプが点灯する。

そこからの時間は、地獄のような拷問だった。
遅れて病院に駆け込んできた叔父貴が、俺の隣で祈るように手を合わせている。
拓海や木村からも「今病院に向かってる」と短いLINEが入っていたが、返す気力もなかった。

一時間。二時間。三時間。
壁のデジタル時計の数字が変わっていく。
俺の脳裏を過るのは、あのベランダから飛び降りる直前の、詩織の歪んだ笑顔だ。

『お兄ちゃん』
あの最悪の本音で妹の人生を奪った俺が、今さら救われる資格なんてあるのか。
もし詩織がこのまま死んだら、俺は今度こそ、自分の手で自分を終わらせるだろう。

そんなドロドロした自己嫌悪だけが俺の心の奥底にあった。
その時、胸のポケットが、カチリと凍りつくような冷気を放った。

和奏からもらった、あのキーホルダー。

……そうだ。まだ終わっていない。
あいつが俺のテリトリーに割り込んできて、あの指先で俺の手を握り続けてくれたのは、この絶望の雨に負けないためだ。

さらに1時間が経過し、時計の針が深夜の2時を回った頃。
プツン、と、頭上の手術中の赤いランプが消えた。
心臓が爆発しそうなほどの緊張の中、扉が開き、疲れ果てた姿の先生がゆっくりと姿を現した。

マスクを外したその顔には戦いを制した男の笑みが浮かんでいた。

「……勝ったぞ、橘くん」
先生のその一言に、叔父がその場に崩れ落ちて号泣した。
「急性心不全の危機は脱した。先進医療による脳の圧迫解除も完璧に成功だ。安定している。……これでもう、詩織ちゃんが眠りの底に戻ることはない。あとは、目を覚ますのを待つだけだ」

成功。
他人の汚い金なんか借りなくたって、学校を退学になるリスクを背負ったって、俺たちは、俺たちのプライドで、詩織の命をこの世界に繋ぎ止めたんだ。

先生にお礼を言い、ガラス越しに、無数の管に繋がれながらも胸を上下させている詩織の姿を確認する。

その肌には、失われていた、微かな赤みが戻りつつあった。
「瑞稀、良かった……本当に良かった……っ」
叔父に肩を抱かれながら、俺は病院の窓の外を見た。

あの日からずっと、俺の心の中に降り続いていた、あのドス黒くて激しい豪雨が、ほんの少しだけ勢いを弱めていくような気がした。