雨色な君の心に半透明な傘を翳すころ

後輩が置いていった、あの忌まわしい百万円の札を交番の机に叩きつけ、調書にサインをして外へ出ると、世界はまだ激しい豪雨の底に沈んでいた。
叩きつけるような雨がアスファルトを白く弾き、視界を遮る。

傘も差さずに立ち尽くす俺の前で、キー、と鈍いブレーキ音を響かせて、見覚えのある軽トラックが止まった。
運転席のドアが開き、俺と同じように髪を顔に張り付かせた叔父が飛び出してくる。
「瑞稀……っ!お前、こんなところで何をしてるんだ!」

叔父の肩を掴み、俺はあらかじめ助手席に放り込んでおいた、一枚の通帳を引き抜いてその手に握らせた。
「……叔父貴。これ、使ってくれ。詩織の手術費だ」
叔父貴は怪訝な顔をしながら、雨に濡れないよう車内に駆け込み、通帳を開いた。
その瞬間、叔父貴の身体が目に見えて硬直する。

そこに並ぶ数字を、穴が開くほど凝視したまま、声を震わせた。
「お前、この金をどうやって……。生活保護の収入申告はどうしたんだ」
「……全部、正直に役所に話すよ。深夜バイトを隠してたのは俺の規約違反だ。支給額が削られるか、止められるかは分からない。だけど、そんなの詩織の命に比べたらどうでもいい。俺が、週六日、死ぬ気で働いて貯めた本物の金だ。これを使ってくれ」

通帳に刻まれた数字は、三十二万円。
深夜ジムの冷たい床を這い回り、焼肉屋炎炎で網の熱に皮膚を焼かれながら、一円、単位で削り出すようにして貯めた、俺の血と汗の結晶だ。

制度がどうとかじゃない。
ただ妹を救いたい、その一心だけで掴み取った金だ。

叔父は通帳を胸に抱きしめ、前髪から滴る雨水を拭おうともせず、男泣きに暮れた。
「すまない、瑞稀……。大人の俺が不甲斐ないばかりに、お前にこんな泥をすすらせて……。でもな、俺も親戚中を頭下げて回った。土下座して、働いて、かき集めたよ。五十万。これが、今の俺の限界だ」

他人の冷笑に耐え、頭を下げて集めた、俺たちの八十二万円。
後輩の汚い金に魂を売らなくたって、俺たちの現実のままで、ここに本物の生きた金が集まったんだ。

「先生には、この八十万を頭金として先に払って、残りは分割で必ず払うって俺から頭を下げる。先生も、橘さんの家ならって、色々と病院の上層部と掛け合ってくれてるんだ」

「足りる……。足りるな、叔父貴……!詩織の手術ができる!」

そう叫んだ瞬間、俺のスマホが激しく震えた。
ディスプレイに表示されたのは、先生の名前だった。
嫌な予感が胸を過り、急いで耳に当てる。

『橘くん、今すぐ病院に来られるか!?』
受話器の向こうから聞こえる、かつてない緊迫した声に心臓が跳ね上がる。

『詩織ちゃんの脳波に、今までにない覚醒パターンが観測された。……だが、その負荷に心臓が耐え切れていない。バイタルが急降下している。今から緊急手術を始める。これが、最初で最後のチャンスだ!』

「嘘、だろ……っ」
俺の最悪の本音が、詩織をベランダへ追いやったあの雨の日と、全く同じ絶望の予感が脳裏をよぎる。
俺は軽トラのドアを蹴破り、激しく叩きつける豪雨の中へ、狂ったように身体を投げ出した。

「瑞稀!車に乗れ!」
「待ってられない!この雨だ、駅前の交差点で絶対渋滞に巻き込まれる!俺は走る!」

叔父貴の声を背中に聞きながら、俺は激しい雨の壁を突き破って走り出した。
走れ。走れ。走れ。
肺が焼けても、足がもげても、今度こそ間に合わせる。

視界を塞ぐ、冷たくて灰色の雨。

『――走れ、橘くん。大丈夫、私がついてる』
水飛沫をあげて地を穿ち、俺は病院の自動ドアへと滑り込んだ。