雨色な君の心に半透明な傘を翳すころ

翌朝、目が覚めたときには部屋の電気は消えており、隣にいたはずの和奏の姿はすでになかった。
ただ、台所のシンクに綺麗に洗われたマグカップが2つ並んでいるのを見て、昨夜の出来事が夢ではなかったのだと自覚させられる。

(……キス、されたんだ、俺)
襟元に顔を埋めると和奏の匂いが残っている気がした。

唇の感触。
それを思い出すたびに心臓がドクドクと跳ね上がり、真顔を維持するのが難しくなる。
あいつは一体、どんなつもりであんなことをしたんだ。

訊ねようにも、スマートフォンの画面には和奏からのメッセージは一通も届いていなかった。
悶々とした思考を引きずったまま、俺は久しぶりの学校へと向かう。

九月の中旬。本格的に始まった2学期の校舎。
昇降口を通って教室へ向かう廊下。
すれ違う生徒たちの騒がしい声を聞きながら、俺は無意識のうちに周囲の黒髪の長い毛先を視線で追ってしまっている自分に気づいた。

あの狂気的な執着をぶつけてきた2年の後輩。
あの日以来、彼女の姿を学校で見かけることはなかった。

クラスの連中の噂話によると、体調不良で長期欠席しているだとか、急に転校が決まっただとか、いくつかの憶測が飛び交っていたが、本当のところは誰も知らない。

和奏に手首を掴まれた瞬間の、あの化け物と叫んだ彼女の恐怖の顔。
それが最後だった。

彼女が本当に心を病んでしまったのか、それとも親の金を盗み出したことがバレて軟禁されているのか、俺には知る由もなかったし、知りたいとも思わなかった。

ただ1つだけ、確かな現実があった。
彼女が地面にぶち撒けていった、あの札束。

あれは、和奏が「橘くんには一ミリも必要ない」と言い放ち、後輩が逃げ去った後、俺たちの手によってそのまま警察の交番へと届けられた。
まあ当然だ。

他人の、それも犯罪紛いの手段で用意された金で詩織の命を繋ごうなんて、俺のプライドがそして何より詩織への贖罪の気持ちが絶対に許さなかった。
だけど、そうなると現実の壁は未だに分厚いまま俺の前に立ち塞がっていることになる。

詩織の血腫を取り除くための、顕微鏡下脳神経外科手術。
そのために必要な、100万円から200万円という、途方もない大金。

「――おい、瑞稀。またお前、意識飛ばしてんぞ」
放課後。
机に突っ伏したまま動かない俺の背中を、拓海がノートを丸めたものでポンと叩いた。
「……あ。いや、なんでもない」

「なんでもない顔じゃねえだろ。お前、夏休み明けてからずっと、心ここにあらずって感じだぞ。あ、まさか……あのストーキング女と、何か進展でもあったか?」

拓海がニヤニヤしながら顔を近づけてくる。
いつもなら「うるさい黙れ」と一蹴するところだが、昨夜のキスの感触が脳をよぎり、俺は言葉を詰まらせてしまった。

「ほら見ろ!図星じゃねえか!おいみんな聞いたか、こいつ絶対に何か隠してんぞ!」

「……ああ」