雨色な君の心に半透明な傘を翳すころ

コンクリートの壁に背中を押し付けられたまま、俺はただ、浅い呼吸を繰り返すことしかできなかった。
外されたボタンの隙間から、夜の生温かい風が直接肌を撫でる。
耳元で囁かれる、後輩の粘りつくような、狂った純愛の告白。
視界の端には、アスファルトの上に無造作に放り出された、パパの金庫から盗んできたという生々しい百万円の札束。

「先輩……これで、もう私から離れられませんよね……?」
彼女の細い指先が、俺のベルトのバックルに手をかけ、カチャリと金属音を立てた。
その、こちらの意思を完全に無視した強引な身体的侵入に、脳が激しい拒絶反応を起こす。

突き飛ばせ。殴ってでも引き剥がせ。
脳細胞がそう絶叫しているのに、俺の身体は金縛りに遭ったように一ミリも動かなかった。
目の前の後輩の顔が、あの日の詩織の顔と重なって離れない。

ここでこの子を拒絶したら、また、誰かの命が目の前で地面に叩きつけられるんじゃないか。
そんな根源的な恐怖が、俺の四肢の自由を完全に奪い去っていた。
後輩の濡れた唇が、俺の鎖骨のあたりに押し当てられようとした、まさにその瞬間だった。

「――そこまでにしなよ、ストーカーさん」
いつもの能天気なトーンではなかった。
信じられないほどに低く、周囲の空気を一瞬にして絶対零度まで引き下げるような、和奏の声だった。
気づけば、暗闇の中から滑り出すように現れた和奏が、後輩の手首を真横からガチリと掴んでいた。

「何……!離せ!」
後輩が叫び、和奏を睨みつける。
だが、和奏の細い腕は、まるでコンクリートの支柱のように一ミリも動かない。
それどころか、次の瞬間、後輩の表情が、怒りから純粋な恐怖へと一変した。
「な、何これ……何なの、あんたの手……っ!」

後輩の声が、ガタガタと震え始める。
「離してよ!」
和奏の、真夏でも万年氷のように冷え切っていたあの指先。
それが今、後輩の手首を容赦なく締め上げている。
和奏はいつもの張り付けた笑顔すら見せず、ただ、深く静かな瞳で後輩を見据えていた。

「この人はね、先客がいるの。君の汚いお金も、君の歪んだ執着も、橘くんには一ミリも必要ない」
和奏が声を一段と低く沈める。

「二度と近づかないで」
和奏が手を離した瞬間、後輩は百万円の札束を地面にぶち撒けたまま、腰を抜かすようにして後ろへ倒れ込んだ。
そして、和奏のその人間離れした冷気と、底の知れない威圧感に完全に圧倒されたように、「化け物……!」と悲鳴を上げながら、夜の闇の中へと蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。

散らばった一万円札の海の中で、俺は崩れ落ちるように膝をつき、激しい呼吸を繰り返していた。
「……橘くん、大丈夫?」
振り返った和奏の顔には、いつもの笑顔が戻っていた。