「瑞稀」
詩織の病室の前に差し掛かったとき、叔父が立ち止まり、俺の肩にぽんと手を置いた。
「お金のことは、大人の俺がどうにかする。お前はもう、これ以上無理をしてバイトを増やすな。焼肉屋の仕事だって、せっかく慣れてきたんだろ?詩織のことは……俺が、どこからか工面してみせるから」
そう言って笑ってみせる叔父の顔は痛々しいほどに無理をしていた。
叔父にだって自分の生活がある。これ以上、俺たちの泥沼に巻き込んでいいわけがない。
「……俺、ちょっと詩織の顔を見てから帰るよ」
「そうか。じゃあ、俺は一度会社に戻るな。また連絡する」
叔父の後ろ姿を見送ってから、俺は静かに病室のドアを開けた。
人工呼吸器の音と、点滴の滴下音が響く、いつもと変わらない静寂。
だけど、ベッドに近づき、白いシーツに包まれた詩織の細い手を見た瞬間、胸の奥が締め付けられた。
先生の言った通り、詩織の指先は、以前のような完全な弛緩状態ではなく、まるで何かの拍子にキュッと力を込めるかのように、微かに内側へ曲がっていた。
生きようとしている。
あの日、俺が放った「生まれてこなきゃよかった」という最悪の言葉の雨に溺れながら、それでもこの子は、必死にこちら側の世界へ戻ろうと、泥だらけの手を伸ばしているのだ。
「詩織……」
俺はそっと、その指先に触れた。
その時だった。
カサリ、とベッドの脇のテーブルから、小さな音がした。
見ると、そこには見覚えのある白いプラスチックの箱が置かれていた。
「……和奏?」
心臓が小さく跳ねる。
それは、いつも和奏がまかないやお惣菜を入れて持ってきてくれる、あの三段重ねの箱だった。
慌てて中を開けると、そこには一口サイズに綺麗に丸められたおにぎりと、少し冷めて小ぶりになった、だけどあのハチミツの匂いがする唐揚げが、ぎっしりと詰まっていた。
そして、箱の蓋の裏に、一枚の小さなメモ用紙が貼り付けられていた。
『橘くんへ。役所、お疲れ様!ちゃんとご飯食べてる?ちょっと用事があって病院に来たら、橘くんの叔父さんの車が見えたから、お部屋に置いていっちゃいました。明日も待ってるからね!』
いつも通りの、うるさいくらいの丸文字。
和奏は、先生の話を聞いていたのだろうか。
それとも、詩織のこの回復の兆しを、俺よりも先に知っていたのだろうか。
「……あいつ、本当に何なんだよ」
おにぎりを一つ口に放り込む。
冷めているはずなのに、驚くほど温かくて。
スマホを取り出し、和奏にメッセージを送ろうと画面ロックを解除した、その瞬間――。
画面の上部に表示された、一件の通知。
送り主の欄には、あの日、渡り廊下で俺を奈落へ突き落とした、あの後輩の名前があった。
添付されていたのは、メッセージではなく、一枚の画像。
恐る恐るそれをタップして開いた瞬間、俺は息をすることすら忘れた。
写真に写っていたのは、先ほど俺と叔父さんが手続きをしていた、区役所の三番窓口の様子。
アクリル板越しに職員と話す、俺と叔父さんの後ろ姿が、少し離れたロビーのベンチの隙間から、はっきりと盗撮されていた。
そして、その画像に添えられた、一言だけのメッセージ。
『先輩の背中、とっても格好よかったです。でも、おじ様とお金のお話をしていて、とっても辛そうでしたね。お金なら、私がいくらでも用意してあげられますよ?だから、あの女の人のところへ行かないで――』
背筋を突き抜ける、凍りつくような恐怖。
夏休みを越えてもなお、あの歪んだ純愛の蜘蛛の糸は俺のすぐ後ろで、音もなく張り巡らされていた。
詩織の病室の前に差し掛かったとき、叔父が立ち止まり、俺の肩にぽんと手を置いた。
「お金のことは、大人の俺がどうにかする。お前はもう、これ以上無理をしてバイトを増やすな。焼肉屋の仕事だって、せっかく慣れてきたんだろ?詩織のことは……俺が、どこからか工面してみせるから」
そう言って笑ってみせる叔父の顔は痛々しいほどに無理をしていた。
叔父にだって自分の生活がある。これ以上、俺たちの泥沼に巻き込んでいいわけがない。
「……俺、ちょっと詩織の顔を見てから帰るよ」
「そうか。じゃあ、俺は一度会社に戻るな。また連絡する」
叔父の後ろ姿を見送ってから、俺は静かに病室のドアを開けた。
人工呼吸器の音と、点滴の滴下音が響く、いつもと変わらない静寂。
だけど、ベッドに近づき、白いシーツに包まれた詩織の細い手を見た瞬間、胸の奥が締め付けられた。
先生の言った通り、詩織の指先は、以前のような完全な弛緩状態ではなく、まるで何かの拍子にキュッと力を込めるかのように、微かに内側へ曲がっていた。
生きようとしている。
あの日、俺が放った「生まれてこなきゃよかった」という最悪の言葉の雨に溺れながら、それでもこの子は、必死にこちら側の世界へ戻ろうと、泥だらけの手を伸ばしているのだ。
「詩織……」
俺はそっと、その指先に触れた。
その時だった。
カサリ、とベッドの脇のテーブルから、小さな音がした。
見ると、そこには見覚えのある白いプラスチックの箱が置かれていた。
「……和奏?」
心臓が小さく跳ねる。
それは、いつも和奏がまかないやお惣菜を入れて持ってきてくれる、あの三段重ねの箱だった。
慌てて中を開けると、そこには一口サイズに綺麗に丸められたおにぎりと、少し冷めて小ぶりになった、だけどあのハチミツの匂いがする唐揚げが、ぎっしりと詰まっていた。
そして、箱の蓋の裏に、一枚の小さなメモ用紙が貼り付けられていた。
『橘くんへ。役所、お疲れ様!ちゃんとご飯食べてる?ちょっと用事があって病院に来たら、橘くんの叔父さんの車が見えたから、お部屋に置いていっちゃいました。明日も待ってるからね!』
いつも通りの、うるさいくらいの丸文字。
和奏は、先生の話を聞いていたのだろうか。
それとも、詩織のこの回復の兆しを、俺よりも先に知っていたのだろうか。
「……あいつ、本当に何なんだよ」
おにぎりを一つ口に放り込む。
冷めているはずなのに、驚くほど温かくて。
スマホを取り出し、和奏にメッセージを送ろうと画面ロックを解除した、その瞬間――。
画面の上部に表示された、一件の通知。
送り主の欄には、あの日、渡り廊下で俺を奈落へ突き落とした、あの後輩の名前があった。
添付されていたのは、メッセージではなく、一枚の画像。
恐る恐るそれをタップして開いた瞬間、俺は息をすることすら忘れた。
写真に写っていたのは、先ほど俺と叔父さんが手続きをしていた、区役所の三番窓口の様子。
アクリル板越しに職員と話す、俺と叔父さんの後ろ姿が、少し離れたロビーのベンチの隙間から、はっきりと盗撮されていた。
そして、その画像に添えられた、一言だけのメッセージ。
『先輩の背中、とっても格好よかったです。でも、おじ様とお金のお話をしていて、とっても辛そうでしたね。お金なら、私がいくらでも用意してあげられますよ?だから、あの女の人のところへ行かないで――』
背筋を突き抜ける、凍りつくような恐怖。
夏休みを越えてもなお、あの歪んだ純愛の蜘蛛の糸は俺のすぐ後ろで、音もなく張り巡らされていた。



