雨色な君の心に半透明な傘を翳すころ

紙袋の中に押し込んだ、まだ少し汗の染みついた自分のユニフォームの、あの背番号「5」の数字が、滲む視界の裏側に焼き付いて離れなかった。
重い足を一歩ずつ前に進め、静まり返った廊下を教室へ向かって歩く。
その時だった。
「……橘先輩!」
背後から、廊下の静寂を切り裂くような高い声が響いた。
ハッとして振り返ると、そこには息を荒くした2年の後輩・木村が立っていた。
練習着のままで、額には大粒の汗が浮かんでいる。

その後ろから、ゆっくりと近づいてくる人影があった。バスケ部のキャプテンであり、中学の頃からずっと同じコートで背中を追いかけ合ってきた相棒であり先輩・拓海だった。
「木村……。それに、拓海先輩。なんでここに」
「職員室に引退届、出しに行ったって本当ですか……!?先生から今、聞きました。嘘ですよね、先輩。なんでですか!?」
木村が俺の制服の胸ぐらを掴むくらいの勢いで詰め寄ってくる。
その大きな瞳には、今にも溢れそうな涙が溜まっていた。

「橘先輩は、俺たちのエースじゃないですか……っ。先輩のあの鋭いドライブに憧れて、俺はこの高校のバスケ部に入ったんです。次の大会こそ、先輩と一緒に出場して、絶対に全国に行くって信じてたのに! 先輩がいないバスケ部なんて、俺……どうしたらいいか分からないですよ!」
後輩の、真っ直ぐすぎる悔し涙が、俺の乾ききった心に突き刺さる。
木村の手が小刻みに震えているのが伝われて、胸が引き千切れそうに痛んだ。
「すまん、木村」
俺は木村の手を優しく、だけど拒絶するように引き剥がした。
「家庭の事情だ。両親がああなって、生活保護を受けることになった。もう、遠征費を払う余裕も、バッシュを新調する金もないんだ。高校に通うことだって、今の俺には精一杯なんだよ」
「そんなの……!金のことなら、俺たちが、部員みんなでカンパしたって……!」
「そんなことできるわけないだろ!」
初めて声を荒らげてしまった。木村がビクッと肩を揺らす。
「これは俺の家の問題だ。お前たちを巻き込むわけにはいかない。……それに、俺にはもう、バスケを純粋に楽しむ資格なんてないんだ」
妹を寝たきりにさせたという罪悪感が、喉の奥まで競り上がってくる。

バスケのために遠征に行こうとしたから、あの言葉を吐いた。
俺がボールを触るたびに、詩織のあの「ばいばい」という笑顔がフラッシュバックして、吐き気がするんだ。
そんな奴が、コートに立っていいはずがなかった。
「もう行くよ」
俺が背を向けて歩き出そうとした瞬間。それまでずっと黙っていた拓海先輩が、俺の肩をガシッと力強く掴んだ。
「瑞稀」
低く、だけど確固たる重みのある拓海の声。

振り返ると、拓海は泣いていなかった。ただ、唇をこれ以上ないほど強く噛み締め、血が滲みそうなほど悔しそうな目で俺を真っ直ぐに見つめていた。
「金のことなら、木村の言う通りどうにでもなるって言いたかったけど……お前がそういう顔をしてるってことは、そういう問題じゃないんだな」
拓海は掴んだ肩に、さらにギュッと力を込めた。
「でもな、これだけは言わせてくれ。顧問も言ってたろ。大会の日、お前がいなくて俺たちは負けた。だけどな、誰も、本当にお前を責めてなんかいない」
拓海が一歩、俺に近づく。
「俺たちは、お前の背番号『5』を、次の新チームでも空番にするって決めた。誰もその番号は着けない。お前がいつか、どんなに時間がかかっても、またコートに戻ってきたくなる場所を、俺たちが守り続けるから」
「拓海先輩、何言って……」
「諦めるななんて、無責任なことは言えないよ。お前の背負ってるものが重すぎるのは、俺だって分かっているつもりだ。でもな、瑞稀。俺たちのキャプテンは、俺じゃない。チームを引っ張るエースは、ずっとお前なんだ」
拓海先輩の言葉の温かさに、俺の視界が一気に歪んだ。
止めようとしても、ボロゴロと大粒の涙が頬をつたっていく。

あの日以来、泣くことさえ自分に許していなかったのに、この人らの前では、どうしても涙を堪えることができなかった。
木村が、こらえきれずに声を上げて泣き出す。
拓海は俺の肩をもう一度強く叩くと「行くぞ、木村」と後輩の肩を抱いて、体育館の方へと歩き出した。

遠ざかっていく二人の背中。俺は、滲む視界の中で、ただ二人の後ろ姿が見えなくなるまで、立ち尽くして泣き続けた。
ありがとう。ごめん。心の中で何度も繰り返すけれど、声にはならなかった。