雨色な君の心に半透明な傘を翳すころ

役所の重いガラス扉を押し開けると、九月特有の生温かい風が肌にまとわりついた。
自立更生計画書が認められる方向で動き出したとはいえ、条件として主治医による今後の見込みに関する意見書が必要になった。
俺と叔父はその足で、詩織が眠る総合病院へと向かうことにした。

あの後輩の瞳が脳をよぎるたび、胸が冷たくなる。
だが、病院のあの消毒液の匂いが漂う廊下を歩いている時だけは、自分が橘瑞稀という罪を背負った兄である現実を嫌でも自覚させられた。

「あ、橘さん。ちょうど良かったです。先生がお話があるとお呼びでした」
ナースステーションの前を通りかかった瞬間、いつも詩織を担当してくれている看護師の女性が俺たちを呼び止めた。

通されたのは、脳神経外科の部屋だった。
壁には詩織の頭部のMRI画像が何枚もライトに照らされて浮かび上がっている。
デスクの向こう側で、白衣を着た主治医の先生が俺たちの顔を見て真剣な表情を浮かべた。

「橘さん、瑞稀くん。座ってください。実は、非常に驚くべき変化がありましてね」
先生は手元のカルテを指先で叩いた。

「詩織さんの容態ですが……ここ数週間で意識に、明らかな回復の兆候が見られます。先日までは外部からの刺激に対して全く反応がなかったのですが、最近は声をかけたり、手を握ったりすると、微かにですが脳波に明確なリアクションが出るようになったんです」「それって……!」
叔父が勢いよく椅子を鳴らして立ち上がった。

俺の心臓も跳ね上がる。
脳神経外科の専門書を読み漁っていた夏の日々が頭をよぎる。
昏睡状態から昏睡状態へ、そしてそこからの目覚めへのステップ。

和奏が、あの病室で詩織の手を握り、「大丈夫」と囁いたあの日の光が詩織の意識に届いていたのだ。
「じゃあ、詩織は目を覚ますんですか!?」
叔父の声に、先生は少しだけ表情を曇らせゆっくりと首を振った。

「希望が見えてきたのは確かです。ですが、手放しでは喜べない壁があります。……これを見てください」
先生が指し示したのは、詩織の頭部CTの断面図だった。

「意識が戻りかけていることで、逆に、事故の衝撃で脳の奥にできていた小さな血腫が、周囲の神経を圧迫し始めていることが分かりました。このまま意識だけが戻ると、激しい脳圧の上昇や、最悪の場合呼吸中枢が麻痺する危険性があります。これからの治療として、詩織さんが覚醒するためには、この血腫を取り除く顕微鏡下脳神経外科手術が必要不可欠になります」

手術。その二文字が、部屋の空気を一瞬にして凍りつかせた。
「手術をすれば、助かるんですね?」
俺は真顔のまま先生を見つめた。

「成功確率は決して低くはありません。ただ……この手術は非常に高度な技術を要するため、当院の設備では難しく、都内の設備が整った専門病院へ転院して行うことになります。そうなると……現在の医療扶助の標準的な治療の範囲を遥かに超えてしまう可能性が高い。保険適用外の先進的な医療材料や、転院に伴う諸経費、そして術後の特殊なリハビリ費用など、自己負担にせざるを得ない高額な費用がどうしても発生します」

先生の言葉は現実となって俺の頭の上に降り注いだ。
さっき、区役所で詩織の将来のための貯金として、俺のバイト代を国に没収されずに済む道が開けたばかりだった。
だけど、そんな高校生のアルバイトで稼いだ数十万円程度の金額では、これから必要になる命の値段には到底届かない。

妹が目を覚ますかもしれないという最高の光が見えた瞬間にまたしても金という現実が俺たちの前に立ち塞がる。

「先生、その手術……大体、いくらくらいかかるんでしょうか」
叔父の掠れた声が部屋に虚しく響いていた。