「――先輩、聞いていますか?」
鼓膜の奥で、後輩の澄んだ声が反響している。
手のひらの上で弄ばれる、和奏のものと全く同じひまわりの髪留め。
また、俺のせいで。
俺の言葉が、俺の存在が、他人の心を狂わせ、取り返しのつかない深淵へと引きずり落とした。
背筋を駆け上がる強烈な悪寒と、息が吸えなくなるほどのパニック。
そこからの記憶は、驚くほどに白く、霞んで、何も覚えていない。
彼女になんと返したのか、あるいは何も言えずに回れ右をして逃げ出したのか、それすらも定かではなかった。
気がついた時には、蝉の声が完全に消え失せていた。
カレンダーのページはめくられ、あれほど騒がしかった夏休みは、文字通り一瞬で終わっていた。
和奏から毎日のように届いていたはずのメッセージの記憶も、焼肉店でのバイトの感覚も、すべてが遠く感じる。
ただ、自分が狂わせてしまったかもしれない後輩への恐怖と、詩織への尽きない罪悪感だけが、頭の芯で冷たい鉛のように沈んでいた。
「――おい、瑞稀。聞いてるのか」
横からひどく疲弊した声がして、俺はハッと現実へと引き戻された。
そこは、冷房が効きすぎて肌寒い、区役所の福祉課の待合室だった。
パイプ椅子に腰掛けた俺の隣には、夏の間にすっかり白髪が増えた叔父が、何枚もの書類をクリアファイルに挟んだまま、険しい顔で座っていた。
九月の上旬。新学期が始まったばかりの平日の午前中。
「あ、ああ。ごめん、ちょっと考え事をしてた」
「お前、最近ずっとそんな調子だな。学校の疲れか、それともバイトのせいか?……まあいい。名前が呼ばれたら、お前は基本、俺の横で黙って頷いていればいいからな」
叔父はそう言うと、手元の自立更生計画書の控えを何度も指先で確認した。
生活保護の医療扶助、そして生活保護費のやり繰りの中で、高校生である俺がアルバイトをして得た収入をどう扱うか。
その、生々しく、冷徹な現実との折り合いをつけるための話し合いが、今から始まるのだ。
「十五番、橘瑞稀さん、橘修一さん。三番窓口へどうぞ」
機械的なアナウンスが響き、俺たちは腰を上げた。
アクリル板の向こう側に座るケースワーカーの職員は、いかにもお役所仕事といった風の、眼鏡をかけた中年男性だった。
彼は俺たちが提出した何枚もの収入申告書と、通帳のコピー、そして俺が炎炎や深夜清掃で削るようにして稼いだ金額の数字を、電卓を叩きながら冷淡に眺める。
「ええと、橘瑞稀くんのアルバイト収入に関してですが。自立更生計画書に記載されている通り、この金額は世帯の収入として全額徴収の対象にはしません」
職員のペン先が、俺の通帳の、必死に貯めた数字を指す。
「ですが、高校生の収入認定除外が認められるのは、あくまで本人の自立更生に必要な費用に充てられる場合のみです。大学の進学費用や、就職のための準備金ですね。今回の場合、これだけまとまった金額をただ貯金しておくというのは、資産保有の制限に引っかかってしまいます」
鼓膜の奥で、後輩の澄んだ声が反響している。
手のひらの上で弄ばれる、和奏のものと全く同じひまわりの髪留め。
また、俺のせいで。
俺の言葉が、俺の存在が、他人の心を狂わせ、取り返しのつかない深淵へと引きずり落とした。
背筋を駆け上がる強烈な悪寒と、息が吸えなくなるほどのパニック。
そこからの記憶は、驚くほどに白く、霞んで、何も覚えていない。
彼女になんと返したのか、あるいは何も言えずに回れ右をして逃げ出したのか、それすらも定かではなかった。
気がついた時には、蝉の声が完全に消え失せていた。
カレンダーのページはめくられ、あれほど騒がしかった夏休みは、文字通り一瞬で終わっていた。
和奏から毎日のように届いていたはずのメッセージの記憶も、焼肉店でのバイトの感覚も、すべてが遠く感じる。
ただ、自分が狂わせてしまったかもしれない後輩への恐怖と、詩織への尽きない罪悪感だけが、頭の芯で冷たい鉛のように沈んでいた。
「――おい、瑞稀。聞いてるのか」
横からひどく疲弊した声がして、俺はハッと現実へと引き戻された。
そこは、冷房が効きすぎて肌寒い、区役所の福祉課の待合室だった。
パイプ椅子に腰掛けた俺の隣には、夏の間にすっかり白髪が増えた叔父が、何枚もの書類をクリアファイルに挟んだまま、険しい顔で座っていた。
九月の上旬。新学期が始まったばかりの平日の午前中。
「あ、ああ。ごめん、ちょっと考え事をしてた」
「お前、最近ずっとそんな調子だな。学校の疲れか、それともバイトのせいか?……まあいい。名前が呼ばれたら、お前は基本、俺の横で黙って頷いていればいいからな」
叔父はそう言うと、手元の自立更生計画書の控えを何度も指先で確認した。
生活保護の医療扶助、そして生活保護費のやり繰りの中で、高校生である俺がアルバイトをして得た収入をどう扱うか。
その、生々しく、冷徹な現実との折り合いをつけるための話し合いが、今から始まるのだ。
「十五番、橘瑞稀さん、橘修一さん。三番窓口へどうぞ」
機械的なアナウンスが響き、俺たちは腰を上げた。
アクリル板の向こう側に座るケースワーカーの職員は、いかにもお役所仕事といった風の、眼鏡をかけた中年男性だった。
彼は俺たちが提出した何枚もの収入申告書と、通帳のコピー、そして俺が炎炎や深夜清掃で削るようにして稼いだ金額の数字を、電卓を叩きながら冷淡に眺める。
「ええと、橘瑞稀くんのアルバイト収入に関してですが。自立更生計画書に記載されている通り、この金額は世帯の収入として全額徴収の対象にはしません」
職員のペン先が、俺の通帳の、必死に貯めた数字を指す。
「ですが、高校生の収入認定除外が認められるのは、あくまで本人の自立更生に必要な費用に充てられる場合のみです。大学の進学費用や、就職のための準備金ですね。今回の場合、これだけまとまった金額をただ貯金しておくというのは、資産保有の制限に引っかかってしまいます」



