雨色な君の心に半透明な傘を翳すころ

アパートの階段を上り、使い古した鍵を鍵穴に差し込んで回す。
「ただいま……」
誰もいないはずの、暗いワンルーム。
しかし、玄関の扉を開けた瞬間、俺の鼻をくすぐったのは、いつもの埃っぽい部屋の匂いではなかった。
冷たいシトラスの匂いと、微かな洗剤の匂い。

「……あ、橘くん!おかえり!」
電気が点いたリビングの奥から、ぴょこんと顔を出したのは、部屋着のTシャツ姿の和奏だった。
手には小さなうちわを持って、パタパタと首元を仰いでいる。

「お前……なんで部屋にいるんだよ。鍵はちゃんとかけたはずだろ」
「あはは、叔父さんにお願いして、予備の鍵をちょっとだけ借りちゃいましたー!」
和奏は悪戯っぽくベロを出して笑うと、パタパタと玄関まで駆け寄ってきた。

「はい、これ。今日も一日、本当にお疲れ様!」
差し出されたのは、キンキンに冷えたスポーツドリンクのペットボトルだった。

「お前なぁ……夜遅くに、男の一人暮らしの部屋に勝手に入り込むな。叔父貴も叔父貴だ、なんで簡単に鍵なんて渡してんだ」
「だってお弁当の箱、回収しなきゃいけないでしょ?それに……橘くんが新しいバイトの初日、ちゃんと生きて帰ってくるか、心配だったんだもん」
和奏は少しだけ声をトーンダウンさせて、下から俺の顔をじっと覗き込んできた。

「店長さんに、怒られなかった?」
「……めちゃくちゃ怒られた。網交換でミスして、客のワイシャツ汚した」
「えっ、大丈夫だったの!?」
「店長が一緒に頭下げてくれた。弁償代も店が持ってくれるって。……その代わり、まかないのカルビを死ぬほど食わされて、明日から倍働けって言われた」

俺がぶっきらぼうにそう言うと、和奏は一瞬きょとんとした後、破顔した。
「あはは!さすが炎炎の店長さん!」
「笑うな。本気で焦ったんだからな」
「うん、うん。でも良かった。橘くんが逃げずにちゃんと謝って、良い大人に助けてもらえて、本当に良かった……ね」

和奏はそう言うと、床にペタンと座り込み、俺の脱ぎ散らかしたスニーカーを健気に揃え始めた。
その背中を見つめながら、俺は冷たいスポーツドリンクを一口、喉に流し込む。
理不尽な世界は相変わらずそこにある。
だけど、この狭いワンルームに、俺の帰りを待ってくれている奴がいて、今日起きた失敗を笑い飛ばしてくれる時間が、確かにある。

「和奏」
「ん?なに、橘くん」
振り返ったあいつに、俺はボトルを持ったまま、少しだけ真面目な声で言った。

「……明日も、バイトあるんだ。だから、その……。明日も、飯、よろしく頼むわ」
一瞬の静寂。
次の瞬間、和奏の顔が耳の根元まで一気に真っ赤に染まった。
「ひゃあ!?な、なにそれ急に素直に頼み込んできて!」
「ほら、箱持ったら早く帰れ。送っていってやるから」

「意地悪!照れ隠しのツンデレマシーン!」
いつも通りの、騒がしくて、愛おしい夜のやり取り。