雨色な君の心に半透明な傘を翳すころ

「――本当に私の家、なんにもないから」
終電のガタゴトという振動が足から伝わる中、和奏は念を押すようなトーンでそう言った。

「……何回言うんだよ。テレビと冷蔵庫がないくらい、別に驚かない」
俺は持っているスマホを指で少し引き下げ、窓の外へと視線を逸らした。

ぶっきらぼうに応じたものの、実は胸の奥はさっきから信じられないくらい激しく警報を鳴らしている。
心臓の音がうるさくて歩く音を消してしまうようだった。

女子の家に行く。
それも、夜。

いくら『何もない世界に最後の日に行かなきゃいけないとしたら』なんて不穏な話を海辺でされたとはいえ、今の俺は和奏に完全にホールドされた一人の男だ。

部屋に二人きりになったら、どうなる。

シャワーを浴びたあのホテルの夜ですら殆ど眠れなかったのに、彼女のプライベートな空間に足を踏み入れるなんて、緊張で頭がどうにかなりそうだった。

どんな狭いアパートだろうか。
もしかして、彼女が毎日お弁当を作っている、ハチミツの匂いがするキッチンがあるのだろうか。
そんな酸っぱい期待が俺の顔を熱くさせていく。

だが。
期待が膨らめば膨らむほど、俺の脳には、あの冷たい雨がパラパラと降り始めるのだった。
(……俺は、何をしてるんだ)

脳をよぎるのは、白いシーツの上で眠り続けている詩織の姿だ。

病室を訪れたとき、詩織の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。
あの奇跡のような瞬間から、詩織の容体は確かに安定している。
主治医も脳波にわずかな覚醒の兆候が見られると驚いていた。

だけど、詩織はまだ目を開けていない。
自分の最悪な言葉のせいで青春のすべてを奪われ、昏睡に沈んだままの妹がいる。
それなのに、俺は今、他の女の子の家に行くことに胸を躍らせ、自分の青春を謳歌しようとしている。

楽しかった遊園地も、仲間たちとの賑やかなファミレスも、すべては妹を犠牲にして得た偽物の光なんじゃないか。
一瞬にして水を浴びせられたように、火照っていた身体が冷めていくのだった。

「橘くん?……また、難しい顔してる」
気づけば、和奏の涼しげな指先が、俺の制服の袖をそっと引いていた。
彼女の大きな瞳が、俺の心の奥を見透かすように真っ直ぐに見つめてくる。

「……別に。少し眠いだけ」
「嘘つき。詩織ちゃんのこと考えてたでしょ」
和奏は鳥のさえずりのような優しい声でそう言った。

終着駅に到着し、乗客の改札を出る。
和奏の案内で歩く街並みは、どこにでもある住宅街だった。

駅から歩いて十分ほど経った頃、和奏が「ここだよ」と足を止めた。
見上げた先に見えたのは、少し年季の入った温かみのあるごく普通の二階建ての一軒家だった。

「ただいまー、って、パパもママも今いないんだけどね」
和奏がポケットから鍵を取り出し、ドアを開けて手慣れた様子で電気をつけた。

パッと明るくなった玄関には、父親のものらしい大きな革靴や、母親のものらしいサンダル、そして和奏の通学用の上履きが並んでいる。
紛れもない、生活の匂いがする普通の家だった。

「はい、どうぞ。適当にリビングのソファに座ってて。麦茶持ってくるね!」
和奏はバッグを床に置くと、トコトコとキッチンの奥へと歩いていく。

リビングに入ると、家族の写真が飾られた棚があった。
あるところには札束だって見えた。

ソファに深く腰掛けた俺は、大きなため息を吐いた。
間違いなく、ここは和奏が育ち、毎日を過ごしている場所だ。

そう認識した瞬間、実家に二人きりというシチュエーションのリアルさが一気に押し寄せ、俺の心臓は再び爆発しそうなほどの鼓動を刻み始めるのだった。