はっ、と気づいたとき、俺は白く無機質な空間の中にぽつんと突っ立っていた。
鼻を突くツンとした消毒液の臭いと、どこか遠くで鳴り響く電子的な機械のビープ音。
そこが病院の廊下なのだと理解するまでに、数秒の時間を要した。
頭上がやけに眩しい。
天井に等間隔で埋め込まれたLEDライトの光は、逃げ場のないほどに壁の白さを鋭く際立たせている。
その強すぎる光のせいで、足元に伸びる俺の影だけが、まるで底なしの泥のように不気味な漆黒へと変えてゆくようだった。
「……瑞稀、くん」
親戚の誰かが俺の肩を叩いた気がしたが、その声は水の中にいるみたいに鼓膜の手前で霧散した。
次に俺の目に映ったのは、開け放たれた病室のベッドの上で、まるで魂を抜かれた死んだ魚のように横たわる詩織の姿だった。
小さな身体に幾本もの管が繋がれ、痛々しい包帯が頭に巻かれている。
「あ……、あ……」
声にもならない悲鳴が喉の奥で引き攣り、俺はそのまま、冷たい床に膝から崩れ落ちた。
実は、詩織がベランダの柵を越えて、あの虚空へと飛び降りた瞬間の映像から、俺には全く記憶がないのだ。
どうやって警察に連絡したのか。どうやって救急車が来て、誰が詩織をここまで運んだのか。
頭の中に立ち込めた真っ黒なモヤがどうしても晴れない。
覚えているのは、ただ「ばいばい」と小さく微笑んだ詩織の、あの最後の顔だけだった。
「詩織……? 嘘だろ、おい……」
震える声を絞り出してベッドに縋り付き、その細い手を握りしめる。
けれど、彼女は冷たいブロンズ像のように固まったまま、身動き一つしなかった。
俺の手を握り返してくれる温かい力は、もうどこにも存在しなかった。
次に目を開けたとき、窓の外はうっすらと白み始めていた。
どうやら俺は、一日中、詩織のベッドの横で床に丸くなったまま眠ってしまっていたらしい。
ガチガチに固まった身体を起こし、微かに上下する詩織の胸を見つめる。
「……おはよう、詩織」
届くはずのない言葉を、カサカサに乾いた唇から零してみる。
当然、返事なんて返って来るわけがなかった。
静まり返った病室の中で、自分の頭の中が、どろどろとした黒い罪悪感だけで満たされてゆくのが分かった。
脳髄の奥で、誰かが「お前のせいだ」とずっと囁き続けている。
ああ、もう手遅れなんだ。詩織はこのまま、一度も目を覚まさずに死んじゃうんだろうな。
自分の放ったたった一言のせいで、一人の人間が壊れてしまった。
その事実の重さに、全身の骨がバキバキと粉砕され、肉が押し潰されていくような強烈な錯覚に襲われる。
息を吸うことさえ罪に思えて、胸が苦しくて仕方がなかった。
その瞬間、静かに病室のドアがスライドし、沈痛な面持ちをした主治医が中に入ってきた。
先生は俺のボロボロの姿を哀れむように見つめたあと、カルテを抱え直して、あまりにも非情な現実を告げた。
「詩織さんの容態ですが……現在、非常に危ない状況に置かれています。高所からの落下による強い衝撃で、脳に重大な損傷を受けている。簡単に言えば、深い昏睡状態に入っています。いつ目を覚ますか、それとも、このまま……最悪の事態になるか、今の段階では何も言えません。瑞稀くん、覚悟だけはしておいてください」
は?医者の口から出た言葉の意味を、脳が拒絶する。胸の真ん中に、錆びついた太い鉄釘を力任せに打ち込まれたような激痛が走った。
それ以上、医者が何を話し、親戚たちがどんな声をあげていようとも、俺の耳にはもう、何も届かなかった。
世界から音が消え、ただ目の前が真っ白に明滅していた。
鼻を突くツンとした消毒液の臭いと、どこか遠くで鳴り響く電子的な機械のビープ音。
そこが病院の廊下なのだと理解するまでに、数秒の時間を要した。
頭上がやけに眩しい。
天井に等間隔で埋め込まれたLEDライトの光は、逃げ場のないほどに壁の白さを鋭く際立たせている。
その強すぎる光のせいで、足元に伸びる俺の影だけが、まるで底なしの泥のように不気味な漆黒へと変えてゆくようだった。
「……瑞稀、くん」
親戚の誰かが俺の肩を叩いた気がしたが、その声は水の中にいるみたいに鼓膜の手前で霧散した。
次に俺の目に映ったのは、開け放たれた病室のベッドの上で、まるで魂を抜かれた死んだ魚のように横たわる詩織の姿だった。
小さな身体に幾本もの管が繋がれ、痛々しい包帯が頭に巻かれている。
「あ……、あ……」
声にもならない悲鳴が喉の奥で引き攣り、俺はそのまま、冷たい床に膝から崩れ落ちた。
実は、詩織がベランダの柵を越えて、あの虚空へと飛び降りた瞬間の映像から、俺には全く記憶がないのだ。
どうやって警察に連絡したのか。どうやって救急車が来て、誰が詩織をここまで運んだのか。
頭の中に立ち込めた真っ黒なモヤがどうしても晴れない。
覚えているのは、ただ「ばいばい」と小さく微笑んだ詩織の、あの最後の顔だけだった。
「詩織……? 嘘だろ、おい……」
震える声を絞り出してベッドに縋り付き、その細い手を握りしめる。
けれど、彼女は冷たいブロンズ像のように固まったまま、身動き一つしなかった。
俺の手を握り返してくれる温かい力は、もうどこにも存在しなかった。
次に目を開けたとき、窓の外はうっすらと白み始めていた。
どうやら俺は、一日中、詩織のベッドの横で床に丸くなったまま眠ってしまっていたらしい。
ガチガチに固まった身体を起こし、微かに上下する詩織の胸を見つめる。
「……おはよう、詩織」
届くはずのない言葉を、カサカサに乾いた唇から零してみる。
当然、返事なんて返って来るわけがなかった。
静まり返った病室の中で、自分の頭の中が、どろどろとした黒い罪悪感だけで満たされてゆくのが分かった。
脳髄の奥で、誰かが「お前のせいだ」とずっと囁き続けている。
ああ、もう手遅れなんだ。詩織はこのまま、一度も目を覚まさずに死んじゃうんだろうな。
自分の放ったたった一言のせいで、一人の人間が壊れてしまった。
その事実の重さに、全身の骨がバキバキと粉砕され、肉が押し潰されていくような強烈な錯覚に襲われる。
息を吸うことさえ罪に思えて、胸が苦しくて仕方がなかった。
その瞬間、静かに病室のドアがスライドし、沈痛な面持ちをした主治医が中に入ってきた。
先生は俺のボロボロの姿を哀れむように見つめたあと、カルテを抱え直して、あまりにも非情な現実を告げた。
「詩織さんの容態ですが……現在、非常に危ない状況に置かれています。高所からの落下による強い衝撃で、脳に重大な損傷を受けている。簡単に言えば、深い昏睡状態に入っています。いつ目を覚ますか、それとも、このまま……最悪の事態になるか、今の段階では何も言えません。瑞稀くん、覚悟だけはしておいてください」
は?医者の口から出た言葉の意味を、脳が拒絶する。胸の真ん中に、錆びついた太い鉄釘を力任せに打ち込まれたような激痛が走った。
それ以上、医者が何を話し、親戚たちがどんな声をあげていようとも、俺の耳にはもう、何も届かなかった。
世界から音が消え、ただ目の前が真っ白に明滅していた。



