雨色な君の心に半透明な傘を翳すころ

「お前なんて生まれてこなきゃよかった!」
怒りに任せて声を上げた。
はっ、と思ったときにはもう遅かった。
自分の口から出た言葉の悪さに自身の体が震える。

俺を真っ直ぐに見上げる、俺の妹・詩織。
彼女の頬には、大粒の水がつたっていた。

瞳は光を一切失っていて、まるで死んだ魚のようだ。

次の瞬間、彼女はくしゃりと表情を変えて笑った。
泣いているのか笑っているのかも分からない不気味な笑顔だった。
詩織はもう、俺に見向きもしなかった。

バッグを掴んでいた手を信じられないほどの軽さで離し、まっすぐベランダに向かって歩いていく。

「……詩織?」
嫌な予感が背筋を駆け上がる。

声が上手く出ない。

詩織はベランダの柵を跨ぎ、最後に、ゆっくりと後ろを向いた。
俺の目をじっと見つめて、「ばいばい」
そう小さく、そう呟いた。

「……は?」

詩織がこうなったのには理由がある。
かつて我が家は普通以上に幸せな家族だった。

俺は小学校の頃からバスケットボールに没頭し、自分で言うのもアレだが地域ではそれなりに有名な選手だった。
中学、高校と進むにつれて推薦の話も来るようになり、俺の部屋にはトロフィーがいくつも並んでいた。

詩織はそんな俺の一番のファンだった。
試合があれば最前列で応援してくれたし、俺が帰れば「お帰り!」と、俺の勝利を喜んでくれた。

だけどあの夜を境にすべての歯車が狂い始めた。

あの日は、一晩中大雨が降っていた。
俺の高校生活で最も大きな大会を控えた夜、両親は俺の応援に駆けつけるため仕事を早めに切り上げて車でこちらに向かっていた。

そして、2人は帰らぬ人となった。

見通しの悪い交差点。
対向車線を走っていた一台の乗用車が、信じられないスピードでセンターラインを越えて、両親の車に正面衝突したのだ。
相手の車には家族3人が乗っていたらしい。その凄惨な事故によって、両親がその場で死亡した。

残されたのは、高3になったばかりの俺と、中学生の詩織だけ。
親という大きな存在を失った俺たちの生活は崩壊した。

葬儀が終わり、親戚たちが集まった席で俺は現実を思い知らされることになった。
両親が遺した貯金はわずかで、ローンや今後の生活費を考えれば、とても子供2人で生きていける額ではなかった。
親戚たちも皆、自分の生活で精一杯で俺たち2人を同時に引き取る余裕なんてどこにもないと言った。

「瑞稀くんはバスケの特待生として寮がある学校へ転校したらどうかしら。詩織ちゃんは、うちで引き取るから」
親戚の1人が放ったその言葉が、詩織の心を壊した。

その日から、詩織の様子がおかしくなった。
ただでさえョックで心が限界だったのに、唯一の肉親である俺とまで引き離される恐怖に、彼女は完全に呑まれてしまった。
詩織は俺に依存していった。

「お兄ちゃん、どこにも行かないで」
「詩織、俺はバスケの遠征に行くだけだよ。数日で戻るから」
「嘘。お兄ちゃんはもう帰ってこない」

学校から帰ると、詩織は必ず俺の部屋の前に座り込んでいた。
俺が友達とスマホで話しているだけで、部屋のドアを叩いた。

遠征の準備を始めようとバッグを取り出すだけで、彼女はハサミを持ち出して、俺のユニフォームを切り裂こうとした。
「私がこれをボロボロにすれば、お兄ちゃんは遠征に行けなくなってずっと私と一緒にいてくれるよね?」
そんな妹の姿を見るたびに、俺の心は疲れていった。

(なんで俺が、こんな目に遭わなきゃいけないんだ)
(せっかく掴みかけたバスケの未来が、こいつのせいでめちゃくちゃになる)

最初は可哀想だと思っていた。
支えてやらなきゃいけないと思って、必死に耐えていた。
だけど、寝る間も惜しんで俺を監視してくる詩織に対して、俺の心の中に憎しみが芽生えていくのを止められなかった。

そして迎えた、親が亡くなって1か月後の朝。
またしても詩織は玄関に立ち塞がり、俺のバッグを掴んで離さなかった。
俺を見上げて行かないでと繰り返す。

その瞬間、俺の中で何かが千切れた。
「いい加減にしろよ!邪魔なんだよ。お前なんか……生まれてこなきゃよかったんだ!」

「……そっか。私、生まれてこなきゃよかったんだね。ばいばい」

次の瞬間ベランダには冷たい風だけが残っていた。