雨色な君の心に半透明な傘を翳すころ

「お前なんて生まれてこなきゃよかった!」
怒りに任せて声を上げた。
はっ、と思ったときには、もう遅かった。
自分の口から出た言葉の悪さに、自身の心臓が跳ねる。

俺を真っ直ぐに見上げる、俺の妹・詩織。
彼女の頬には、大粒の水がつたっていた。
瞳は光を一切失っていて、まるで死んだ魚のようだ。
絶望が、詩織を完全に呑み込んでいく。

次の瞬間、彼女はくしゃりと表情を歪めて笑った。
泣いているのか笑っているのかも分からない、狂ったように不気味な笑顔だった。
詩織はもう、俺に見向きもしなかった。

バッグを掴んでいた手を信じられないほどの軽さで離し、リビングを横切ってまっすぐベランダに向かって歩いていく。
「……詩織?」
嫌な予感が背筋を駆け上がる。

声が震えて、上手く出ない。
カーテンが風に揺れている。

詩織はベランダの柵を跨ぎ、最後に、ゆっくりと後ろを向いた。
俺の目をじっと見つめて、「ばいばい」 そう小さく、そう呟いた。

「……は?」
思考が完全に停止する。
反射的に、強く目を瞑ってしまった。

次に目を開けたとき妹は、その場から消えていた。
ベランダの向こうには、ただ、ぽっかりと灰色の空が広がっているだけだった。

こうなったのには理由がある。
かつての我が家は普通以上に幸せな家族だった。

俺は小学校の頃からバスケットボールに没頭し、自分で言うのもアレだが、地域ではそれなりに有名な選手だった。
中学、高校と進むにつれて推薦の話も来るようになり、俺の部屋にはトロフィーやメダルがいくつも並んでいた。

妹の詩織は、そんな俺の一番のファンだった。
試合があれば必ず客席の最前列で手を叩いて応援してくれたし、俺が帰れば「お兄ちゃん、お帰り!」と、まるで自分のことのように俺の勝利を喜んでくれた。
だけど、あの夜を境に、すべての歯車が狂い始めた。

あの日は、一晩中バケツをひっくり返したような大雨が降っていた。
俺の高校生活で大きな大会を控えた前夜、両親は俺の応援に駆けつけるため、仕事を早めに切り上げて車でこちらに向かっていた。
そして、二人は帰らぬ人となった。

豪雨で見通しの悪い交差点。
対向車線を走っていた一台の乗用車が、信じられないスピードでセンターラインを越えて、両親の車に正面衝突したのだ。
相手の車には家族三人が乗っていたらしい。その凄惨な事故によって、両親が、その場で死亡した。

残されたのは、高三になったばかりの俺と、中学生の詩織だけ。
親という大きな存在を失った俺たちの生活は、一瞬にして崩壊した。

葬儀が終わり、親戚たちが集まった席で、俺は現実を思い知らされることになった。
両親が遺した貯金はわずかで、家ローンや今後の生活費を考えれば、とてもじゃないが子供二人で生きていける額ではなかった。
親戚たちも皆、自分の生活で精一杯で、俺たち二人を同時に引き取る余裕なんてどこにもないと言い放った。

「瑞稀くんはバスケの特待生として別の県の寮がある学校へ転校したらどうかしら。詩織ちゃんは、うちで引き取るから」
親戚の一人が放ったその言葉が、詩織の心を決定的に壊した。

その日から、詩織の様子がおかしくなった。
ただでさえ両親を突然失ったショックで心が限界だったのに、唯一の肉親である俺とまで引き離される恐怖に、彼女は完全に呑まれてしまったのだ。
詩織は、俺に対する依存を狂気へと変えていった。

「お兄ちゃん、どこにも行かないで」
「詩織、俺はバスケの遠征に行くだけだよ。数日で戻るから」
「嘘。お兄ちゃんはもう帰ってこない。私を置いて、一人で遠くに行っちゃうんだ」

学校から帰ると、詩織は必ず俺の部屋の前に座り込んでいた。
俺が友達とスマホで話しているだけで、部屋のドアを叩き、泣いた。

遠征の準備を始めようとバッグを取り出すだけで、彼女はハサミを持ち出して、俺のユニフォームをズタズタに切り裂こうとした。
「私がこれをもっとボロボロにすれば、お兄ちゃんは遠征に行けなくなるよね?ずっと私と一緒にいてくれるよね?」
引きつった笑顔で、切り刻まれたユニフォームを抱きしめる詩織。
そんな妹の姿を見るたびに、俺の心は摩耗し、冷え切っていった。

(なんで俺が、こんな目に遭わなきゃいけないんだ)
(せっかく掴みかけたバスケの未来が、こいつのせいでめちゃくちゃになる)

最初は可哀想だと思っていた。
支えてやらなきゃいけないと思って、必死に耐えていた。
だけど、寝る間も惜しんで俺を監視し執着を向けてくる詩織に対して、俺の心の中に憎しみが芽生えていくのを止められなかった。

そして迎えた、親が亡くなって一か月後の朝。
またしても詩織は玄関に立ち塞がり、俺のバッグを掴んで離さなかった。
涙を流しながら、俺を見上げて、行かないでと繰り返す。

その瞬間、俺の中で何かが千切れた。
「いい加減にしろよ!邪魔なんだよ。お前なんか……生まれてこなきゃよかったんだ!」
怒りに任せて、心の一番深いところにあった最悪の本音をぶちまけた。
はっ、と思ったときにはもう遅かった。

「……そっか。私、生まれてこなきゃよかったんだね。ばいばい」