だけど、次の瞬間、世界は一瞬にして暗転した。
バケツをひっくり返したような、あの激しい豪雨の音が響き渡る。
フロントガラスの向こう、黒い海のような闇。
対向車線のライトが、視界を真っ白に塗り潰す。
『お前なんて、生まれてこなきゃよかったんだ!』
兄の、限界を迎えた悲痛な叫びが、激しい雨音に混じって頭の中に響き渡る。
嫌だ。行かないで。私を捨てないで。
暗闇の中で、詩織は必死に手を伸ばした。
だけど、自分の身体は鉛のように重く、奈落の底へとゆっくりと落ちていく。
もう、誰も私の名前を呼んでくれない。
私は、生まれてこなきゃよかったんだ――。
そうやって、冷たい絶望の雨に溺れ死にそうになっていた、その時だった。
真っ暗な世界の天井から、一筋の、驚くほど温かい光が、すうっと詩織の手元へと降りてきた。
その光は、どこかハチミツのような、そんな優しい本物の人間の温もりの匂いがした。
温かい、誰かの手が、詩織の右手をぎゅっと握り締めてくれる。
『大丈夫だよ』
その優しい声が、詩織の凍りついていた心を、一瞬にして綺麗に溶かしていった。
頭の中で降り続いていた冷たい雨が、静かに、静かに止んでいく。
(ああ……私、お兄ちゃんに、会いたいな……)
(もう一度、あのお兄ちゃんの、笑った顔が見たい――)
深い昏睡の淵で、詩織の心が小さな産声を上げた。
「待たせた、和奏。書類の手続き、思ったより時間がかかっちゃって」
ドアを引いて、俺が病室に戻ってきたとき。
和奏はいつもと変わらない笑顔でベッドの横に立っていた。
「ううん全然!私、詩織ちゃんとガールズトークしてたから、あっという間だったよ!」
和奏は自分のトートバッグを肩にかけ、小さくステップを踏むようにして俺の元へと歩み寄った。
「じゃあ、私は今日、用事があるからここでバイバイね。橘くん、ちゃんと妹さんの横にいてあげるんだよ」
「あ、おい……」
引き止める間もなく、和奏はクスッと笑うと病室を出ていってしまった。
俺は不思議に思いながらも、詩織のベッドの横のパイプ椅子に腰掛けた。
ふと、妹の顔を見つめた、その瞬間。
俺の身体が、息を呑んだまま硬直した。
深い昏睡状態のまま、ピクリとも動かないはずの詩織の、その閉じた両目の目尻から、一筋の、透明で温かい涙が、頬をつたって白いシーツへと、ゆっくりと零れ落ちていたのだ。
「詩織……?お前いま……泣いたのか……?」
俺は震える手で、詩織の涙をそっと拭った。
届くはずのない言葉。動くはずのない身体。
窓の外では、あの日からずっと降り続いていた灰色の雲の隙間から、ほんの一瞬だけ、真夏の太陽の光が、病室の床をまっすぐに照らし出していた。
バケツをひっくり返したような、あの激しい豪雨の音が響き渡る。
フロントガラスの向こう、黒い海のような闇。
対向車線のライトが、視界を真っ白に塗り潰す。
『お前なんて、生まれてこなきゃよかったんだ!』
兄の、限界を迎えた悲痛な叫びが、激しい雨音に混じって頭の中に響き渡る。
嫌だ。行かないで。私を捨てないで。
暗闇の中で、詩織は必死に手を伸ばした。
だけど、自分の身体は鉛のように重く、奈落の底へとゆっくりと落ちていく。
もう、誰も私の名前を呼んでくれない。
私は、生まれてこなきゃよかったんだ――。
そうやって、冷たい絶望の雨に溺れ死にそうになっていた、その時だった。
真っ暗な世界の天井から、一筋の、驚くほど温かい光が、すうっと詩織の手元へと降りてきた。
その光は、どこかハチミツのような、そんな優しい本物の人間の温もりの匂いがした。
温かい、誰かの手が、詩織の右手をぎゅっと握り締めてくれる。
『大丈夫だよ』
その優しい声が、詩織の凍りついていた心を、一瞬にして綺麗に溶かしていった。
頭の中で降り続いていた冷たい雨が、静かに、静かに止んでいく。
(ああ……私、お兄ちゃんに、会いたいな……)
(もう一度、あのお兄ちゃんの、笑った顔が見たい――)
深い昏睡の淵で、詩織の心が小さな産声を上げた。
「待たせた、和奏。書類の手続き、思ったより時間がかかっちゃって」
ドアを引いて、俺が病室に戻ってきたとき。
和奏はいつもと変わらない笑顔でベッドの横に立っていた。
「ううん全然!私、詩織ちゃんとガールズトークしてたから、あっという間だったよ!」
和奏は自分のトートバッグを肩にかけ、小さくステップを踏むようにして俺の元へと歩み寄った。
「じゃあ、私は今日、用事があるからここでバイバイね。橘くん、ちゃんと妹さんの横にいてあげるんだよ」
「あ、おい……」
引き止める間もなく、和奏はクスッと笑うと病室を出ていってしまった。
俺は不思議に思いながらも、詩織のベッドの横のパイプ椅子に腰掛けた。
ふと、妹の顔を見つめた、その瞬間。
俺の身体が、息を呑んだまま硬直した。
深い昏睡状態のまま、ピクリとも動かないはずの詩織の、その閉じた両目の目尻から、一筋の、透明で温かい涙が、頬をつたって白いシーツへと、ゆっくりと零れ落ちていたのだ。
「詩織……?お前いま……泣いたのか……?」
俺は震える手で、詩織の涙をそっと拭った。
届くはずのない言葉。動くはずのない身体。
窓の外では、あの日からずっと降り続いていた灰色の雲の隙間から、ほんの一瞬だけ、真夏の太陽の光が、病室の床をまっすぐに照らし出していた。



