夕暮れ時の駅のホームは、家路を急ぐ人々で混雑していた。
オレンジ色の西日が、ガラス張りの天井から差し込み、すべてのものを影へと変えていく。
「あー、楽しかった。橘くん、今日はいっぱい笑ってくれたし、大満足の満点!」
和奏は自動販売機で買った冷たいココアの缶を両手で包み込みながら、ホームのベンチで小さく足を揺らした。
その横顔は、夕日に照らされてどこか幻想的なほどに綺麗だった。
「……まあ、お前がそこまで言うなら、たまにはこういうのも悪くはなかった……ありがとな、和奏」
ポケットの中の、小さなバスケットボールのキーホルダーに触れながら、俺はボソッと呟いた。
自分でも驚くほど素直な言葉だった。
「……え」
和奏がココアを飲む手を止め、丸い目をさらに大きくして俺を見つめた。
「いま、なんて言った?聞こえなかった、もう一回言って!」
「二度は言わない」
「えー!橘くんのケチ!意地悪!録音しとけばよかったー!」
和奏はぷくっと頬を膨らませてジタバタとしたが、すぐにフッと、どこか遠くを見るような、静かな目をした。
「……でもね、私の方こそ、ありがとう」
「聞こえてんのかよ。てかお前が勝手に連れ回したんだろ」
「ううん。橘くんが、私と一緒に歩いてくれたから」
和奏はココアの缶を見つめたまま、掠れた声で言った。
「私ね、誰かのために何かができてるって思えるだけで……それだけで、本当に、生きててよかったなって思うんだ。橘くんが私のお惣菜を食べて、こうして一緒に笑ってくれる時間が、今の私の一番の光なんだよ~?」
「和奏……」
俺の胸が締め付けられるように痛んだ。
瞬間、電車の接近を告げるアナウンスがホームに鳴り響いた。
黄色い線の向こうから、強い風を伴って電車が滑り込んでくる。
「あ、電車来ちゃった!橘くん、また明日ね!ちゃんと夜勤の前にご飯食べるんだよー!」
和奏はいつもの眩しい笑顔に戻ると、俺の背中をポンと押して、開いたドアの中へと飛び乗った。
車内から、ガラス越しにブンブンと手を振る和奏。
俺はホームに取り残されながら、夕闇に消えていく電車のテールランプを、いつまでも見つめていた。
彼女が去ったあとの手のひらには、あの日と同じ、冷たい夏の雨の残滓のような、ひどく切ない冷気だけが残っていた。
翌日。
学校の教室は、いつもと変わらない騒がしさに包まれていた。
俺が席に座って教科書を眺めていると、廊下のほうから、またあの足音が近づいてくるのが分かった。
「……瑞稀。ちょっといいか」
声をかけてきたのは、拓海だった。
その後ろには、大きな身体を縮こまらせた木村も立っている。
「……部活の時間じゃないのに、どうした」
俺は席を立ち、二人を連れて人の少ない階段の踊り場へと向かった。
拓海は、俺の顔をじっと見つめたあと、前髪を気まずそうにかき上げながら、ポツリと言った。
「お前……昨日、駅で、あの他クラスの和奏って女子と一緒だったろ。OBの奴から橘が女の子とデートしてたって連絡が来てな」「っ……」
俺の顔が一瞬にして熱くなる。
まさかそんなところまで見られていたなんて、完全に想定外だった。
「あ!瑞稀先輩!」
木村が慌てたように一歩前に踏み出した。
その目は本気で俺を心配している真っ直ぐな瞳だった。
「俺たち、先輩が夜中に無茶して働いてるの、本当は知ってて……。止めなきゃって思ったんですけど、先輩の覚悟を邪魔しちゃいけないって、何もできなくて。でも、あの和奏さんが、先輩を外に連れ出してくれたって聞いて、俺、ホッとした」
「木村……」
「言う通りだ」
拓海が、俺の肩にポンと大きな手を置いた。
その手は、驚くほど温かかった。
「俺たちは、お前をコートに引き戻したい。その気持ちは今でも変わらねえ。だけど、お前が自分を犠牲にして、一人で暗闇の中でボロボロになっていくのを見るのは、もっと耐えられねえ。あの女子が、お前にとって息ができる場所になってるなら……俺たちは、それを全力で応援する」
拓海は少し照れくさそうに鼻を擦ると、にやりと兄貴らしい笑顔を浮かべた。
「だからさ、あんまり自分を追い詰めんなよ。お前には、俺たちもいるし、あの騒がしい専属栄養士もいるんだからな」
「……先輩たち、本当に、お節介すぎますよ」
俺は下を向いた。
誰も悪くない。
先輩たちも、木村も、みんな俺を愛してくれていた。
「……ありがとう。俺、もう少しだけ、頑張ってみる」
「おう。困ったことがあれば、いつでも言えよ」
拓海は俺の肩をもう一度強く叩くと、木村を連れて、満足そうな背中で去っていった。
その日の放課後。夕暮れの裏庭のベンチで、俺は和奏と二人で並んで座っていた。
蝉の声が遠くで響く中、和奏は重箱の片付けをしながら「えー! 拓海くんたちに目撃されてたの!?恥ずかしいー!」と、顔を真っ赤にして大騒ぎしている。
「お前の方が恥ずかしい行動ばっかりしてただろ。新幹線で大はしゃぎしたり」
「だって、お寿司が新幹線で来るんだよ?興奮するの普通じゃん!」
そんな他愛のない会話のあと、俺はポケットの中の、あの小さなバスケットボールのキーホルダーを指先で弄んだ。
彼ら仲間の優しさに触れて、そして和奏の温もりに救われて。
俺の中で、ずっと逃げ続けていた現実ともう一度ちゃんと向き合わなきゃいけないという覚悟が、静かに芽生えていた。
「……和奏」
「ん?なに、橘くん」
和奏が首を傾げて、俺の顔を覗き込む。
「今度の日曜日……一緒に行かないか」
「え?どこに?」
俺は深く息を吸い、彼女の大きな瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「病院。……俺の妹の、詩織のところだ。今の俺があるのは、お前が俺を支えてくれたからだ。だから……あいつに、お前を紹介したいんだ」
初めて口にした、妹の病院への誘い。
それは、俺が自分の罪の象徴である詩織のベッドの横に、初めて他人のそれも和奏という存在を連れていくという、大きな一歩だった。
俺の言葉を聞いた瞬間、和奏の動きが、完全に止まった。
彼女の顔から、さっきまでの明るい笑顔が、嘘のようにスッと消えていく。
「和奏……?」
その異様な反応に、俺の胸が不穏に騒ぎ出す。
和奏は、信じられないほど悲しそうな目で、俺をじっと見つめていた。
「私、が……妹さんの、お見舞いに……?」
「ああ。嫌なら、無理にとは言わないけど……」
「ううん、行く。行くよ」
和奏は無理に作ったような、歪な笑顔を浮かべると、俺の手を、ギュッと力任せに握り締めた。
「大丈夫。日曜日、二人で一緒に行こうね、橘くん。……私ね、ずっと、君の妹さんに、会いたかったの」
和奏はそう言うと、俺の手を握ったまま、西日の向こうを見つめた。
その瞳の奥には、これまで見たこともないような、あまりにも残酷な光が宿っていた。
オレンジ色の西日が、ガラス張りの天井から差し込み、すべてのものを影へと変えていく。
「あー、楽しかった。橘くん、今日はいっぱい笑ってくれたし、大満足の満点!」
和奏は自動販売機で買った冷たいココアの缶を両手で包み込みながら、ホームのベンチで小さく足を揺らした。
その横顔は、夕日に照らされてどこか幻想的なほどに綺麗だった。
「……まあ、お前がそこまで言うなら、たまにはこういうのも悪くはなかった……ありがとな、和奏」
ポケットの中の、小さなバスケットボールのキーホルダーに触れながら、俺はボソッと呟いた。
自分でも驚くほど素直な言葉だった。
「……え」
和奏がココアを飲む手を止め、丸い目をさらに大きくして俺を見つめた。
「いま、なんて言った?聞こえなかった、もう一回言って!」
「二度は言わない」
「えー!橘くんのケチ!意地悪!録音しとけばよかったー!」
和奏はぷくっと頬を膨らませてジタバタとしたが、すぐにフッと、どこか遠くを見るような、静かな目をした。
「……でもね、私の方こそ、ありがとう」
「聞こえてんのかよ。てかお前が勝手に連れ回したんだろ」
「ううん。橘くんが、私と一緒に歩いてくれたから」
和奏はココアの缶を見つめたまま、掠れた声で言った。
「私ね、誰かのために何かができてるって思えるだけで……それだけで、本当に、生きててよかったなって思うんだ。橘くんが私のお惣菜を食べて、こうして一緒に笑ってくれる時間が、今の私の一番の光なんだよ~?」
「和奏……」
俺の胸が締め付けられるように痛んだ。
瞬間、電車の接近を告げるアナウンスがホームに鳴り響いた。
黄色い線の向こうから、強い風を伴って電車が滑り込んでくる。
「あ、電車来ちゃった!橘くん、また明日ね!ちゃんと夜勤の前にご飯食べるんだよー!」
和奏はいつもの眩しい笑顔に戻ると、俺の背中をポンと押して、開いたドアの中へと飛び乗った。
車内から、ガラス越しにブンブンと手を振る和奏。
俺はホームに取り残されながら、夕闇に消えていく電車のテールランプを、いつまでも見つめていた。
彼女が去ったあとの手のひらには、あの日と同じ、冷たい夏の雨の残滓のような、ひどく切ない冷気だけが残っていた。
翌日。
学校の教室は、いつもと変わらない騒がしさに包まれていた。
俺が席に座って教科書を眺めていると、廊下のほうから、またあの足音が近づいてくるのが分かった。
「……瑞稀。ちょっといいか」
声をかけてきたのは、拓海だった。
その後ろには、大きな身体を縮こまらせた木村も立っている。
「……部活の時間じゃないのに、どうした」
俺は席を立ち、二人を連れて人の少ない階段の踊り場へと向かった。
拓海は、俺の顔をじっと見つめたあと、前髪を気まずそうにかき上げながら、ポツリと言った。
「お前……昨日、駅で、あの他クラスの和奏って女子と一緒だったろ。OBの奴から橘が女の子とデートしてたって連絡が来てな」「っ……」
俺の顔が一瞬にして熱くなる。
まさかそんなところまで見られていたなんて、完全に想定外だった。
「あ!瑞稀先輩!」
木村が慌てたように一歩前に踏み出した。
その目は本気で俺を心配している真っ直ぐな瞳だった。
「俺たち、先輩が夜中に無茶して働いてるの、本当は知ってて……。止めなきゃって思ったんですけど、先輩の覚悟を邪魔しちゃいけないって、何もできなくて。でも、あの和奏さんが、先輩を外に連れ出してくれたって聞いて、俺、ホッとした」
「木村……」
「言う通りだ」
拓海が、俺の肩にポンと大きな手を置いた。
その手は、驚くほど温かかった。
「俺たちは、お前をコートに引き戻したい。その気持ちは今でも変わらねえ。だけど、お前が自分を犠牲にして、一人で暗闇の中でボロボロになっていくのを見るのは、もっと耐えられねえ。あの女子が、お前にとって息ができる場所になってるなら……俺たちは、それを全力で応援する」
拓海は少し照れくさそうに鼻を擦ると、にやりと兄貴らしい笑顔を浮かべた。
「だからさ、あんまり自分を追い詰めんなよ。お前には、俺たちもいるし、あの騒がしい専属栄養士もいるんだからな」
「……先輩たち、本当に、お節介すぎますよ」
俺は下を向いた。
誰も悪くない。
先輩たちも、木村も、みんな俺を愛してくれていた。
「……ありがとう。俺、もう少しだけ、頑張ってみる」
「おう。困ったことがあれば、いつでも言えよ」
拓海は俺の肩をもう一度強く叩くと、木村を連れて、満足そうな背中で去っていった。
その日の放課後。夕暮れの裏庭のベンチで、俺は和奏と二人で並んで座っていた。
蝉の声が遠くで響く中、和奏は重箱の片付けをしながら「えー! 拓海くんたちに目撃されてたの!?恥ずかしいー!」と、顔を真っ赤にして大騒ぎしている。
「お前の方が恥ずかしい行動ばっかりしてただろ。新幹線で大はしゃぎしたり」
「だって、お寿司が新幹線で来るんだよ?興奮するの普通じゃん!」
そんな他愛のない会話のあと、俺はポケットの中の、あの小さなバスケットボールのキーホルダーを指先で弄んだ。
彼ら仲間の優しさに触れて、そして和奏の温もりに救われて。
俺の中で、ずっと逃げ続けていた現実ともう一度ちゃんと向き合わなきゃいけないという覚悟が、静かに芽生えていた。
「……和奏」
「ん?なに、橘くん」
和奏が首を傾げて、俺の顔を覗き込む。
「今度の日曜日……一緒に行かないか」
「え?どこに?」
俺は深く息を吸い、彼女の大きな瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「病院。……俺の妹の、詩織のところだ。今の俺があるのは、お前が俺を支えてくれたからだ。だから……あいつに、お前を紹介したいんだ」
初めて口にした、妹の病院への誘い。
それは、俺が自分の罪の象徴である詩織のベッドの横に、初めて他人のそれも和奏という存在を連れていくという、大きな一歩だった。
俺の言葉を聞いた瞬間、和奏の動きが、完全に止まった。
彼女の顔から、さっきまでの明るい笑顔が、嘘のようにスッと消えていく。
「和奏……?」
その異様な反応に、俺の胸が不穏に騒ぎ出す。
和奏は、信じられないほど悲しそうな目で、俺をじっと見つめていた。
「私、が……妹さんの、お見舞いに……?」
「ああ。嫌なら、無理にとは言わないけど……」
「ううん、行く。行くよ」
和奏は無理に作ったような、歪な笑顔を浮かべると、俺の手を、ギュッと力任せに握り締めた。
「大丈夫。日曜日、二人で一緒に行こうね、橘くん。……私ね、ずっと、君の妹さんに、会いたかったの」
和奏はそう言うと、俺の手を握ったまま、西日の向こうを見つめた。
その瞳の奥には、これまで見たこともないような、あまりにも残酷な光が宿っていた。



