雨色な君の心に半透明な傘を翳すころ

だが、和奏は一瞬だけ、まつ毛を伏せて寂しそうに微笑むと、自分の頬を両手でパチンと叩いた。
「大丈夫、大丈夫!さっきまで保冷剤をずっと握りしめてたから、そのせいだよ。それより、早く食べないと冷めちゃうよ?ほら、アーンはしてあげないから、自分で食べて」

彼女の言葉の不自然さに、胸の奥で小さな違和感がチクリと疼いた。保冷剤を握っていたくらいで、こんな、人間の体温を完全に失ったような冷たさになるわけがない。
だが、それ以上に、重箱から漂う唐揚げの凶暴なほどの良い香りが、俺の飢えた胃袋を刺激した。

夜勤明けで何も食べていない身体が、本能的にその温もりを求めていた。
ガブッ、と唐揚げを一口、口に放り込む。
サクッとした小気味良い音と共に、ジューシーな肉汁が口いっぱいに広がった。
「……うまい」
「でしょ! 隠し味にちょっとだけハチミツを入れてるんだから」

和奏はベンチの上で、小さな足をパタパタと揺らしながら、俺が美味そうに食べる姿を、まるで宝物でも眺めるような優しい目で見つめていた。
「橘くん、バイト、どうだった?」
「……きつかったけど、一人でやれるから楽だ。時給もいい。来月には、詩織の口座にまとまった額が入れられそうだ」
「そっか。よかった……。お兄ちゃん、頑張ったね」
和奏の口から出たお兄ちゃんという響きに、俺の箸がピタリと止まった。
胸の奥の、一番触れられたくない傷口を、優しく撫でられたような感覚。
「……俺を、その名前で呼ぶな」

俺は低く、地を這うような声で言った。
「俺は、妹を捨てようとした最低の人間だ。あいつからお兄ちゃんを奪ったのは、俺なんだ。お前にそんな風に呼ばれる資格は、俺にはない」

あの日、玄関でバッグを掴んで泣いていた詩織の姿が、脳裏に鮮烈にフラッシュバックする。
自分が放った凶悪な言葉の残響が、耳の奥でざあざあと雨の音に変わっていく。
暗い沈黙が、二人の間に流れた。
蝉の声だけが、うるさいほどに響いている。

和奏は静かに、俺の握りしめる震える手を、彼女の両手で包み込んだ。
「つめっ……」
あまりの冷たさに声を上げそうになったが、和奏のその手の力強さに、俺は身動きが取れなくなった。
冷たいのに、驚くほど深い、絶対的な温もりのようなものが、その拒絶の奥へと染み込んでくる。

和奏は俺の目を真っ直ぐに見つめ、一文字一文字、諭すように言った。
「奪ってないよ。橘くんは、今も必死に、妹さんのために自分を削って戦ってる。それは立派な、世界でたった一人のお兄ちゃんだよ」
「和奏……」
「だからね、自分を許さなくていいから、ご飯だけは食べて。私が、君が倒れないように、一生分の光を、毎日ここに届けに来てあげるから」
一生分の光。
その言葉が、なぜか俺の心の最も深い空洞に、ぴったりとはまった気がした。

目の前にいるこの少女はなぜ、これほどまでに俺の痛みを正確に理解し、そして、それを包み込もうとしてくれるのだろうか。
「……本当、お前、意味分かんねえよ」

俺は視線をそらし、涙を誤魔化すように、残りの唐揚げをご飯と一緒に口の中へとかき込んだ。
和奏はそんな俺を見て、嬉しそうに、心の底からクスクスと笑っていた。

その笑顔は、夏の眩しい太陽の光を浴びて、ほんの一瞬だけまるで、ガラス細工のように透き通って、消えてしまいそうなほどに儚く見えた。