雨色な君の心に半透明な傘を翳すころ

「あー!見つけた! 橘くん、探したよー!」
静まり返りかけた廊下に、場違いなほど高くて明るい、鈴の音のような声が響き渡った。
遠巻きに見ていた生徒たちが、一斉に声の主へと視線を向ける。人混みをかき分けるようにして走ってきたのは、和奏だった。

彼女は夏服の制服のスカートをなびかせ、息を切らせながら、迷うことなく俺の元へと駆け寄ってきた。
その腕には、ずっしりと重そうな、可愛らしい風呂敷に包まれた三段重ねの重箱が抱えられている。
「和奏……?お前、なんでここに……」
俺の困惑を完全に無視して、和奏は拓海先輩と木村の間に割り込むと、俺の腕をぎゅっと抱きしめるようにして捕まえた。
「もう、橘くんが全然お昼休みに部屋から出てこないから、わざわざ他クラスから遠征してきちゃったじゃん。はい、これ今日の差し入れ!今日はね、橘くんの大好きな唐揚げてんこ盛り弁当だよ!」
「おい、離せ……!みんな見てるだろ!」

周囲の視線が、さらに異様なものへと変わっていくのが分かった。

あの悲劇の主人公として同情されていた橘瑞稀が、なぜか他クラスの可愛い女子生徒に熱烈に絡まれている。
教室内からも、何事かと覗き込む生徒たちの顔が見えた。
拓海先輩は、突然現れた和奏と、俺の腕を掴む彼女の手を見つめ、呆然と立ち尽くしていた。

「……瑞稀、その子は?」
「あ、初めまして先輩方!私は橘くんの非公認・専属栄養士の和奏です 橘くん、今はちょっと私がリハビリ中なので、先輩たちもあんまりイジめないであげてくださいね!」
和奏はペコリと頭を下げると、俺の腕を引っ張って歩き出した。

「ほら、橘くん行くよ!屋上が鍵閉まってたから、裏庭のベンチで食べよ!」
「待て、和奏……!」
抵抗する力も出ないまま、俺は和奏の圧倒的なペースに巻き込まれ、廊下の中心から連れ去られた。

背後で、拓海先輩が何かを言いたげに手を伸ばし、木村が目を見開いたまま固まっているのが見えた。校舎の裏手にある、普段は誰も来ない古い木造のベンチ。
頭上からは、夏の蝉の鳴き声がシャワーのように降り注ぎ、生い茂る木々の隙間から、強烈な木漏れ日が地面をまだらに照らしている。

和奏はベンチに腰掛けると、嬉しそうに風呂敷を広げ、重箱の蓋を開けた。
フワリと、お香のようにも思える、どこか懐かしくて香ばしい醤油と生姜の香りが、夏の熱気の中に広がっていく。
中には、信じられないほど綺麗に黄金色に揚げられた唐揚げと、ツヤツヤとした白米、そして彩り豊かな卵焼きが詰まっていた。

「……お前、これ、自分で作ったのか?」
俺はベンチの端に座り、警戒するように重箱を見つめた。
「うん!橘くんが夜勤でボロボロになるの見越して、朝早くから頑張っちゃった。はい、お箸」
和奏は前と同じように、パチンと割り箸を割って俺に握らせてくる。

その時、彼女の指先が、再び俺の手首に触れた。ゾクッ、と全身の毛穴が逆立つような冷気が、皮膚を通して脳髄へと駆け上がる。
昨日よりも、冷たい。
今日の気温は35度を超える猛暑日だ。
裏庭のアスファルトからは陽炎が立ち上っているというのに、和奏の指先は、まるで氷点下の氷をそのまま押し付けられたかのように冷え切っていた。
「……お前、本当に大丈夫なのか?その手の冷たさ、異常だろ。保健室に行った方がいい」
俺は箸を持ったまま、本気で心配になって彼女の顔を覗き込んだ。