都会のカフェをあとにしたその足で、俺は和奏に渡された手書きのメモを頼りに、指定された高級フィットネスジムへと向かった。
街の喧騒から少し外れた一等地に佇むその施設は、ガラス張りの外観に間接照明が美しく映える、場違いなほど洗練された空間だった。
面接を担当したチーフの男は、俺の痩せ細った体躯と、何よりその死んだ魚のような眼を一瞬だけ怪訝そうに見つめた。
だが、和奏の言った通り、バスケットボールで鍛え上げられた履歴書の経歴と夜間、一人で黙々と作業をこなせる人間が欲しいという向こうのニーズが完全に合致した。
「週五日、深夜23時から翌朝6時まで。主にマシンのアルコール消毒と、プールサイドの清掃、消耗品の補充だ。一人で回してもらうことになるが、大丈夫か?」
「はい。問題ありません」
愛想のない俺の返事に、チーフは逆に満足したように頷いた。
余計な人間関係を嫌う深夜の職場において、俺のような感情を失った貯金マシーンは都合が良かったのだろう。
その日のうちに採用が決まり、俺の夜の生活が始まった。深夜のジムは、不気味なほどに静かだった。昼間の熱気が嘘のように冷え切ったフロアで、俺は一枚のタオルとアルコールスプレーを手に、黙々とランニングマシンやダンベルを拭き上げていく。
シャッ、シャッ、と、静寂の中にスプレーの音だけが規則正しく響く。
重い鉄の塊であるダンベルに触れるたび、かつて毎日のように握り締めていたバスケットボールの感触が脳裏をよぎり、胸の奥がズキリと疼いた。
だが、俺はその痛みを無理やり思考の底へと沈め、ただ指先を動かした。
午前3時。誰もいないプールサイドで、きらきらと揺れる青い水面を見つめる。
ああ、俺は今、確かに詩織のために働いている。
一時間ごとに、俺の懐には確実に金が貯まっていく。
生活保護の支給額には一切手をつけず、この深夜の労働で得た賃金のすべてを、詩織の未来のための通帳へと叩き込む。
その事実だけが、崩壊した俺の心を辛うじてこの世界に繋ぎ止める、唯一の錨だった。
朝6時、夜勤を終えて外に出ると、夏の朝特有の、湿度の高い生ぬるい空気が全身を包み込んだ。
睡眠不足で重い頭を抱え、一睡もせずに俺が向かったのは、自分の家ではなく、籍だけが残っている高校だった。
生活保護の受給条件、そして叔父との約束である高校だけは卒業するという最低限の義務を果たすため、俺はボロボロの身体を引きずりながら、数ヶ月ぶりに学校の門をくぐった。
朝の教室は、俺にとって地獄そのものだった。登校してきた生徒たちの弾けるような笑い声、夏休みの予定を立てる賑やかな会話、机を並べてスマホを覗き込む日常の風景。そのすべてが、灰色の世界を生きる俺にとっては眩しすぎて、吐き気がした。
ガラリ、と教室のドアを開けた瞬間、それまで騒がしかった空間が、一瞬にして水を打ったように静まり返った。
好奇、同情、そして腫れ物に触れるような忌避の視線が、一斉に俺に突き刺さる。
「……あいつ、橘じゃん」
「久しぶりに来たね……。なんか、すごくやつれてない?」
「シーッ、聞こえるよ。ほら、妹の件とか、親のこととか色々あったしさ……」
ひそひそと交わされる密語が、鼓膜を容赦なく引っ掻く。
俺は誰とも目を合わせず、教室の最背後にある自分の席へと歩き、泥のように机に突っ伏した。
誰も話しかけてこない。そ
れが今の俺には、何よりも有り難く、そして何よりも惨めだった。
そんな針のむしろのような空間で、授業のチャイムが鳴り、そして終わっていく。
昼休みになり、周囲の生徒たちが机をくっつけて弁当を広げ始めたとき、俺は財布の中に残されたわずかな百円玉を握り締め、購買へ行くために席を立った。
少しでも食費を浮かせなければならない。
買うのは、一番安い50円のパサパサしたコッペパン一つだけだ。
廊下に出ると、背後から聞き覚えのある、重い足音が近づいてきた。
「瑞稀」
心臓がドクリと跳ねた。振り返ると、そこに立っていたのは拓海先輩だった。
その後ろには、気まずそうに視線を泳がせる後輩の木村もいる。
あの日、職員室の前で俺の背番号「5」を空番にすると言ってくれた、かつての仲間たち。
「……拓海先輩。木村」
「お前、学校に来てたんだな。顔色が最悪だぞ。ちゃんと飯食ってんのか?」
拓海先輩は、俺の痩せ細った頬を見て、父親のような痛切な表情を浮かべた。
その手には、コンビニの大きなおにぎりがいくつも入った袋が握られている。
きっと、俺に渡そうと買いに走ってくれたのだろう。
「食べてます。……すみません、今、購買に行くところなので」
俺はそれ以上関わるのを避けるように、一歩後ろへ下がった。
先輩たちの優しさが、今の俺には呪いになる。優しくされればされるほど、自分が彼らの期待を裏切り、コートを捨てた罪悪感で押し潰されそうになるからだ。
「瑞稀、お前、夜何やってるんだ? 噂で聞いたぞ。夜中に街のほうで、お前によく似た奴が働いてるって。まさか、お前……」
拓海先輩の目が、鋭く細められる。
「関係ないです。俺の勝手でしょ」
「関係なくないだろ!お前はまだ高校生なんだぞ。生活保護を受けてるって言ったって、そんな無茶な働き方してたら、身体が壊れる!」
先輩が俺の腕を掴もうと、手を伸ばした。
その手を、拒絶するように振り払おうとした、その瞬間。
街の喧騒から少し外れた一等地に佇むその施設は、ガラス張りの外観に間接照明が美しく映える、場違いなほど洗練された空間だった。
面接を担当したチーフの男は、俺の痩せ細った体躯と、何よりその死んだ魚のような眼を一瞬だけ怪訝そうに見つめた。
だが、和奏の言った通り、バスケットボールで鍛え上げられた履歴書の経歴と夜間、一人で黙々と作業をこなせる人間が欲しいという向こうのニーズが完全に合致した。
「週五日、深夜23時から翌朝6時まで。主にマシンのアルコール消毒と、プールサイドの清掃、消耗品の補充だ。一人で回してもらうことになるが、大丈夫か?」
「はい。問題ありません」
愛想のない俺の返事に、チーフは逆に満足したように頷いた。
余計な人間関係を嫌う深夜の職場において、俺のような感情を失った貯金マシーンは都合が良かったのだろう。
その日のうちに採用が決まり、俺の夜の生活が始まった。深夜のジムは、不気味なほどに静かだった。昼間の熱気が嘘のように冷え切ったフロアで、俺は一枚のタオルとアルコールスプレーを手に、黙々とランニングマシンやダンベルを拭き上げていく。
シャッ、シャッ、と、静寂の中にスプレーの音だけが規則正しく響く。
重い鉄の塊であるダンベルに触れるたび、かつて毎日のように握り締めていたバスケットボールの感触が脳裏をよぎり、胸の奥がズキリと疼いた。
だが、俺はその痛みを無理やり思考の底へと沈め、ただ指先を動かした。
午前3時。誰もいないプールサイドで、きらきらと揺れる青い水面を見つめる。
ああ、俺は今、確かに詩織のために働いている。
一時間ごとに、俺の懐には確実に金が貯まっていく。
生活保護の支給額には一切手をつけず、この深夜の労働で得た賃金のすべてを、詩織の未来のための通帳へと叩き込む。
その事実だけが、崩壊した俺の心を辛うじてこの世界に繋ぎ止める、唯一の錨だった。
朝6時、夜勤を終えて外に出ると、夏の朝特有の、湿度の高い生ぬるい空気が全身を包み込んだ。
睡眠不足で重い頭を抱え、一睡もせずに俺が向かったのは、自分の家ではなく、籍だけが残っている高校だった。
生活保護の受給条件、そして叔父との約束である高校だけは卒業するという最低限の義務を果たすため、俺はボロボロの身体を引きずりながら、数ヶ月ぶりに学校の門をくぐった。
朝の教室は、俺にとって地獄そのものだった。登校してきた生徒たちの弾けるような笑い声、夏休みの予定を立てる賑やかな会話、机を並べてスマホを覗き込む日常の風景。そのすべてが、灰色の世界を生きる俺にとっては眩しすぎて、吐き気がした。
ガラリ、と教室のドアを開けた瞬間、それまで騒がしかった空間が、一瞬にして水を打ったように静まり返った。
好奇、同情、そして腫れ物に触れるような忌避の視線が、一斉に俺に突き刺さる。
「……あいつ、橘じゃん」
「久しぶりに来たね……。なんか、すごくやつれてない?」
「シーッ、聞こえるよ。ほら、妹の件とか、親のこととか色々あったしさ……」
ひそひそと交わされる密語が、鼓膜を容赦なく引っ掻く。
俺は誰とも目を合わせず、教室の最背後にある自分の席へと歩き、泥のように机に突っ伏した。
誰も話しかけてこない。そ
れが今の俺には、何よりも有り難く、そして何よりも惨めだった。
そんな針のむしろのような空間で、授業のチャイムが鳴り、そして終わっていく。
昼休みになり、周囲の生徒たちが机をくっつけて弁当を広げ始めたとき、俺は財布の中に残されたわずかな百円玉を握り締め、購買へ行くために席を立った。
少しでも食費を浮かせなければならない。
買うのは、一番安い50円のパサパサしたコッペパン一つだけだ。
廊下に出ると、背後から聞き覚えのある、重い足音が近づいてきた。
「瑞稀」
心臓がドクリと跳ねた。振り返ると、そこに立っていたのは拓海先輩だった。
その後ろには、気まずそうに視線を泳がせる後輩の木村もいる。
あの日、職員室の前で俺の背番号「5」を空番にすると言ってくれた、かつての仲間たち。
「……拓海先輩。木村」
「お前、学校に来てたんだな。顔色が最悪だぞ。ちゃんと飯食ってんのか?」
拓海先輩は、俺の痩せ細った頬を見て、父親のような痛切な表情を浮かべた。
その手には、コンビニの大きなおにぎりがいくつも入った袋が握られている。
きっと、俺に渡そうと買いに走ってくれたのだろう。
「食べてます。……すみません、今、購買に行くところなので」
俺はそれ以上関わるのを避けるように、一歩後ろへ下がった。
先輩たちの優しさが、今の俺には呪いになる。優しくされればされるほど、自分が彼らの期待を裏切り、コートを捨てた罪悪感で押し潰されそうになるからだ。
「瑞稀、お前、夜何やってるんだ? 噂で聞いたぞ。夜中に街のほうで、お前によく似た奴が働いてるって。まさか、お前……」
拓海先輩の目が、鋭く細められる。
「関係ないです。俺の勝手でしょ」
「関係なくないだろ!お前はまだ高校生なんだぞ。生活保護を受けてるって言ったって、そんな無茶な働き方してたら、身体が壊れる!」
先輩が俺の腕を掴もうと、手を伸ばした。
その手を、拒絶するように振り払おうとした、その瞬間。



