陸上部のエースより速い帰宅部ですが、恋からは逃げきれないようです

県総合運動場へ着いたとき、男子百メートル決勝の招集まで、あと二十分だった。
日曜の昼にわざわざバスを二本乗り継いで、別に出場もしない大会へ来る。帰宅部としては、だいぶ道を踏み外している。

停留所を降りてからも、帰る理由は何度か思いついた。高城に会って何を言うか、まだ全部決めたわけではない。
それでも俺は入場口を抜けた。

来ると決めたのは俺だ。



選手控えの裏手には、スパイクでコンクリートを歩く硬い音が絶えず響いていた。ゼッケンを留め直す指、短く繰り返される場内放送、芝の上で足を振る選手たち。観客席のざわめきより、息を吐く音のほうが近い。

高城はウォーミングアップ場の端にいた。

紺色のユニフォーム姿で、いつもより肩が広く見える。けれど、腕を振るたび指先が固く閉じ、首の筋まで張っていた。
その前に、八代、有川、宏弥が並んでいる。ずいぶん専門家がそろっている。

八代は高城の正面で、指を四つ折りながら呼吸を数えていた。

「吸いすぎない。四つで入れて、八つで流す。最後まで一本の音を切らないつもりで」

高城が長く息を吐く。最初より肩の上下が小さくなった。

有川はしゃがみ込み、足元から高城を見上げた。

「右の親指、握り込んでる。肩も脚も力入りすぎ」

「どう抜く」

「一回、全部上げて落とす。水も地面も、固くつかんだら逃げる」

高城は両肩を耳まで上げ、一気に落とした。握っていた拳も開く。有川は一度だけ頷いた。

最後に宏弥が、高城の胸へ二本指を向けた。

「完璧な瞬間を待ってたら、一生離せない。合図が来たら、迷ってるぶんまでまとめて放せばいい」

「弓と一緒にするな」

いつもどおり短い返事だったが、声はさっきより硬くない。

宏弥が先に俺へ気づき、八代が何も言わず一歩横へずれた。

三人の後ろから見ているだけでも、高城が走るところは見られる。

でも、それでは来た意味がない。

俺はまっすぐ高城の前へ出た。

高城の目が大きくなる。開いた指が、また握られかけて止まった。

「来ないと思った」

「俺が見たかったから来た」

一度、言葉を飲み込むように喉が動いた。

「侑真が見てるなら、負けたくない」

「俺を探して横向いたら負けるぞ。前だけ見ろ」

「分かってる」

「……自己ベスト出してこい」

高城は一瞬だけ黙り、はっきり頷いた。

そのとき、招集を告げる放送が入った。

高城は俺から視線を外し、選手通路へ向かった。



男子百メートル決勝。

選手紹介の声が場内へ流れ、八人がそれぞれのレーンへ立つ。高城は第五レーンだった。

スターティングブロックを蹴る音。スパイクがトラックを引っかく音。風に混じる呼吸。

俺たちは最終コーナーの外側、金網のすぐ前に立った。

「位置について」

高城がブロックへ足をかける。

「用意」

腰が上がる。

高城の目は、自分のレーンの先だけを捉えていた。

号砲が鳴る。

八人の足音が、少しずつ一つの塊になる。

高城の飛び出しは一番ではなかった。外側の選手が先へ出る。内側からも一人、鋭く上がってきた。

けれど、高城は追って上体を急がせなかった。

八代が自分の膝へ四つ、指で拍を刻む。高城の腕振りと同じ間隔だった。

有川が低く言った。

「肩、上がってない」

コーナーの途中で、前との差が少し縮む。

走っていない俺の足裏まで、接地を思い出した。焦れば右肩が入り、身体が浮く。

高城の顎はぶれず、開いた指が後ろへまっすぐ引かれている。

前なら六十五を過ぎたあたりで短くなった呼吸が、今日は切れない。口元は歪み、首には筋が浮く。それでも吐くたび、力を次の一歩へ流している。

俺は無意識に息を合わせかけた。

吸って、吐く。

けれど、俺が吐くより先に、高城自身が長く吐いた。

俺の呼吸がなくても、高城の足は迷わない。

前の選手との差が、一歩ずつ削れていく。

残り三十。肩が並ぶ。

宏弥が目を細めた。

「離した」

高城はもう誰も見ていなかった。ゴールだけでもない。その先まで身体を運ぶように、腕を振り、最後の一歩を押し切った。

先頭で白線を越える。

そのまま数歩走り、身体を投げ出さずに速度を落とす。すぐにこちらを探さなかった。自分の脚で止まり、膝へ手もつかず、乱れた呼吸を立ったまま整える。

それから掲示板を見上げた。

表示された数字が点滅する。

場内放送が、一拍遅れて高城の優勝を告げた。続いた「県新記録」の言葉だけ、やけにはっきり耳へ入った。

八代が長い音を吹き終えたみたいに息を吐く。

「最後まで流れたね」

「力、抜けてた」

有川はそれだけ言って頷く。

宏弥は腕を組み、満足そうに笑った。

「ちゃんと届くまで見てた」

「お前ら、監督みたいだな」

「侑ちゃんは?」

「……速かった」

ほかに言葉が出なかった。

トラックの向こうで、高城がようやくこちらを見た。

汗で前髪を額へ貼りつけたまま、ほんの少しだけ口元を上げる。勝った顔というより、ちゃんと走り切った人間の顔だった。
俺も片手を上げた。

胸の奥がうるさかった。

たぶん、記録が出たせいだけじゃない。



表彰が終わるまで待っていると、高城はメダルを首から下げたまま、スタンド下の通路へ来た。

八代たちは少し離れた自動販売機の前にいる。二人で話せる距離だけ、残してくれたらしい。

「待たせた」

「勝手に待ってただけ」

「見てたか」

「県新記録なら、嫌でも場内放送で聞こえる」

「走りは」

「最後まで肩、上がらなかった。……今までで一番いい走りだったと思う」

高城は一度だけ笑った。

「ありがとう」

そういうところは、相変わらず律儀である。

それから、高城の表情が戻る。

「この前のこと、謝りたい」

俺は壁から背を離す。

「言い訳は聞かない」

「しない」

高城は目を逸らさなかった。

「顧問に侑真の怪我を話した。返事を遮って、走らないと勝手に決めた。怖かったのは本当だ。でも、それは侑真の選択を奪っていい理由にならない。悪かった」

メダルが、呼吸に合わせて小さく揺れている。

謝られても、あのときの腹立たしさも古い傷も消えない。

それでも、高城は俺が何に怒ったのかを、自分の言葉で間違えずに言った。

「今度こそ、勝手に決めない」

「じゃあ俺が走るって言ったら?」

「応援する」

迷いのない返事だった。

「走らないって言ったら?」

「それも侑真が決めたこととして受け止める」

「途中で分からなくなったら?」

「決まるまで待つ。聞かれたら一緒に考える」

前なら、その答えを聞いて終わりにしたかもしれない。

でも、俺にも言っていないことがある。

「俺も、言うだけ言って逃げた」

高城が黙って聞く。

「お前の話を最後まで聞かないで、練習を途中でやめた。あのまま終わらせたくないって分かってたのに、そっちが来るのを待ってた。自分から来たら、許したみたいで負けた気がして」

「勝ち負けなのか」

「俺にとってはだいたいそうなんだよ」

「知ってる」

即答されると、それはそれで腹が立つ。

「侑真が怒るのは当然だ」

「今も腹は立ってる」

「ああ」

「約束を破ったことは、簡単には忘れない」

「忘れなくていい。次は、守る」

「でも、腹が立つのと、もう隣にいたくないのは別だった」

高城の目がわずかに揺れた。

通路の外から、次の競技を知らせる放送が聞こえる。誰かのスパイクが遠くを通り過ぎ、また二人ぶんの呼吸だけが残った。

高城が右手を差し出した。触れる寸前で止める。

「手、握っていいか」

「今日は聞くんだな」

「これからも聞く」

差し出された手のひらへ、俺から指を置いた。

高城の手が、短く俺の手を握る。

走り終えた体温はまだ高い。強くはないのに、指先から手首まで熱が移った。振りほどこうと思えば、すぐできる程度の力だった。
俺は振りほどかなかった。

一度だけ確かめるように握って、高城はすぐ離した。

「大会が終わったら、言いたいことがあるって言ったの、覚えてるか」

「忘れてない」

「今、聞くか」

俺は首を振った。

聞くのが怖いからじゃない。

俺にも、先に自分で決めて伝えることがある。

「明日、放課後。最初の場所に来い」