県総合運動場へ着いたとき、男子百メートル決勝の招集まで、あと二十分だった。
日曜の昼にわざわざバスを二本乗り継いで、別に出場もしない大会へ来る。帰宅部としては、だいぶ道を踏み外している。
停留所を降りてからも、帰る理由は何度か思いついた。高城に会って何を言うか、まだ全部決めたわけではない。
それでも俺は入場口を抜けた。
来ると決めたのは俺だ。
◇
選手控えの裏手には、スパイクでコンクリートを歩く硬い音が絶えず響いていた。ゼッケンを留め直す指、短く繰り返される場内放送、芝の上で足を振る選手たち。観客席のざわめきより、息を吐く音のほうが近い。
高城はウォーミングアップ場の端にいた。
紺色のユニフォーム姿で、いつもより肩が広く見える。けれど、腕を振るたび指先が固く閉じ、首の筋まで張っていた。
その前に、八代、有川、宏弥が並んでいる。ずいぶん専門家がそろっている。
八代は高城の正面で、指を四つ折りながら呼吸を数えていた。
「吸いすぎない。四つで入れて、八つで流す。最後まで一本の音を切らないつもりで」
高城が長く息を吐く。最初より肩の上下が小さくなった。
有川はしゃがみ込み、足元から高城を見上げた。
「右の親指、握り込んでる。肩も脚も力入りすぎ」
「どう抜く」
「一回、全部上げて落とす。水も地面も、固くつかんだら逃げる」
高城は両肩を耳まで上げ、一気に落とした。握っていた拳も開く。有川は一度だけ頷いた。
最後に宏弥が、高城の胸へ二本指を向けた。
「完璧な瞬間を待ってたら、一生離せない。合図が来たら、迷ってるぶんまでまとめて放せばいい」
「弓と一緒にするな」
いつもどおり短い返事だったが、声はさっきより硬くない。
宏弥が先に俺へ気づき、八代が何も言わず一歩横へずれた。
三人の後ろから見ているだけでも、高城が走るところは見られる。
でも、それでは来た意味がない。
俺はまっすぐ高城の前へ出た。
高城の目が大きくなる。開いた指が、また握られかけて止まった。
「来ないと思った」
「俺が見たかったから来た」
一度、言葉を飲み込むように喉が動いた。
「侑真が見てるなら、負けたくない」
「俺を探して横向いたら負けるぞ。前だけ見ろ」
「分かってる」
「……自己ベスト出してこい」
高城は一瞬だけ黙り、はっきり頷いた。
そのとき、招集を告げる放送が入った。
高城は俺から視線を外し、選手通路へ向かった。
◇
男子百メートル決勝。
選手紹介の声が場内へ流れ、八人がそれぞれのレーンへ立つ。高城は第五レーンだった。
スターティングブロックを蹴る音。スパイクがトラックを引っかく音。風に混じる呼吸。
俺たちは最終コーナーの外側、金網のすぐ前に立った。
「位置について」
高城がブロックへ足をかける。
「用意」
腰が上がる。
高城の目は、自分のレーンの先だけを捉えていた。
号砲が鳴る。
八人の足音が、少しずつ一つの塊になる。
高城の飛び出しは一番ではなかった。外側の選手が先へ出る。内側からも一人、鋭く上がってきた。
けれど、高城は追って上体を急がせなかった。
八代が自分の膝へ四つ、指で拍を刻む。高城の腕振りと同じ間隔だった。
有川が低く言った。
「肩、上がってない」
コーナーの途中で、前との差が少し縮む。
走っていない俺の足裏まで、接地を思い出した。焦れば右肩が入り、身体が浮く。
高城の顎はぶれず、開いた指が後ろへまっすぐ引かれている。
前なら六十五を過ぎたあたりで短くなった呼吸が、今日は切れない。口元は歪み、首には筋が浮く。それでも吐くたび、力を次の一歩へ流している。
俺は無意識に息を合わせかけた。
吸って、吐く。
けれど、俺が吐くより先に、高城自身が長く吐いた。
俺の呼吸がなくても、高城の足は迷わない。
前の選手との差が、一歩ずつ削れていく。
残り三十。肩が並ぶ。
宏弥が目を細めた。
「離した」
高城はもう誰も見ていなかった。ゴールだけでもない。その先まで身体を運ぶように、腕を振り、最後の一歩を押し切った。
先頭で白線を越える。
そのまま数歩走り、身体を投げ出さずに速度を落とす。すぐにこちらを探さなかった。自分の脚で止まり、膝へ手もつかず、乱れた呼吸を立ったまま整える。
それから掲示板を見上げた。
表示された数字が点滅する。
場内放送が、一拍遅れて高城の優勝を告げた。続いた「県新記録」の言葉だけ、やけにはっきり耳へ入った。
八代が長い音を吹き終えたみたいに息を吐く。
「最後まで流れたね」
「力、抜けてた」
有川はそれだけ言って頷く。
宏弥は腕を組み、満足そうに笑った。
「ちゃんと届くまで見てた」
「お前ら、監督みたいだな」
「侑ちゃんは?」
「……速かった」
ほかに言葉が出なかった。
トラックの向こうで、高城がようやくこちらを見た。
汗で前髪を額へ貼りつけたまま、ほんの少しだけ口元を上げる。勝った顔というより、ちゃんと走り切った人間の顔だった。
俺も片手を上げた。
胸の奥がうるさかった。
たぶん、記録が出たせいだけじゃない。
◇
表彰が終わるまで待っていると、高城はメダルを首から下げたまま、スタンド下の通路へ来た。
八代たちは少し離れた自動販売機の前にいる。二人で話せる距離だけ、残してくれたらしい。
「待たせた」
「勝手に待ってただけ」
「見てたか」
「県新記録なら、嫌でも場内放送で聞こえる」
「走りは」
「最後まで肩、上がらなかった。……今までで一番いい走りだったと思う」
高城は一度だけ笑った。
「ありがとう」
そういうところは、相変わらず律儀である。
それから、高城の表情が戻る。
「この前のこと、謝りたい」
俺は壁から背を離す。
「言い訳は聞かない」
「しない」
高城は目を逸らさなかった。
「顧問に侑真の怪我を話した。返事を遮って、走らないと勝手に決めた。怖かったのは本当だ。でも、それは侑真の選択を奪っていい理由にならない。悪かった」
メダルが、呼吸に合わせて小さく揺れている。
謝られても、あのときの腹立たしさも古い傷も消えない。
それでも、高城は俺が何に怒ったのかを、自分の言葉で間違えずに言った。
「今度こそ、勝手に決めない」
「じゃあ俺が走るって言ったら?」
「応援する」
迷いのない返事だった。
「走らないって言ったら?」
「それも侑真が決めたこととして受け止める」
「途中で分からなくなったら?」
「決まるまで待つ。聞かれたら一緒に考える」
前なら、その答えを聞いて終わりにしたかもしれない。
でも、俺にも言っていないことがある。
「俺も、言うだけ言って逃げた」
高城が黙って聞く。
「お前の話を最後まで聞かないで、練習を途中でやめた。あのまま終わらせたくないって分かってたのに、そっちが来るのを待ってた。自分から来たら、許したみたいで負けた気がして」
「勝ち負けなのか」
「俺にとってはだいたいそうなんだよ」
「知ってる」
即答されると、それはそれで腹が立つ。
「侑真が怒るのは当然だ」
「今も腹は立ってる」
「ああ」
「約束を破ったことは、簡単には忘れない」
「忘れなくていい。次は、守る」
「でも、腹が立つのと、もう隣にいたくないのは別だった」
高城の目がわずかに揺れた。
通路の外から、次の競技を知らせる放送が聞こえる。誰かのスパイクが遠くを通り過ぎ、また二人ぶんの呼吸だけが残った。
高城が右手を差し出した。触れる寸前で止める。
「手、握っていいか」
「今日は聞くんだな」
「これからも聞く」
差し出された手のひらへ、俺から指を置いた。
高城の手が、短く俺の手を握る。
走り終えた体温はまだ高い。強くはないのに、指先から手首まで熱が移った。振りほどこうと思えば、すぐできる程度の力だった。
俺は振りほどかなかった。
一度だけ確かめるように握って、高城はすぐ離した。
「大会が終わったら、言いたいことがあるって言ったの、覚えてるか」
「忘れてない」
「今、聞くか」
俺は首を振った。
聞くのが怖いからじゃない。
俺にも、先に自分で決めて伝えることがある。
「明日、放課後。最初の場所に来い」
日曜の昼にわざわざバスを二本乗り継いで、別に出場もしない大会へ来る。帰宅部としては、だいぶ道を踏み外している。
停留所を降りてからも、帰る理由は何度か思いついた。高城に会って何を言うか、まだ全部決めたわけではない。
それでも俺は入場口を抜けた。
来ると決めたのは俺だ。
◇
選手控えの裏手には、スパイクでコンクリートを歩く硬い音が絶えず響いていた。ゼッケンを留め直す指、短く繰り返される場内放送、芝の上で足を振る選手たち。観客席のざわめきより、息を吐く音のほうが近い。
高城はウォーミングアップ場の端にいた。
紺色のユニフォーム姿で、いつもより肩が広く見える。けれど、腕を振るたび指先が固く閉じ、首の筋まで張っていた。
その前に、八代、有川、宏弥が並んでいる。ずいぶん専門家がそろっている。
八代は高城の正面で、指を四つ折りながら呼吸を数えていた。
「吸いすぎない。四つで入れて、八つで流す。最後まで一本の音を切らないつもりで」
高城が長く息を吐く。最初より肩の上下が小さくなった。
有川はしゃがみ込み、足元から高城を見上げた。
「右の親指、握り込んでる。肩も脚も力入りすぎ」
「どう抜く」
「一回、全部上げて落とす。水も地面も、固くつかんだら逃げる」
高城は両肩を耳まで上げ、一気に落とした。握っていた拳も開く。有川は一度だけ頷いた。
最後に宏弥が、高城の胸へ二本指を向けた。
「完璧な瞬間を待ってたら、一生離せない。合図が来たら、迷ってるぶんまでまとめて放せばいい」
「弓と一緒にするな」
いつもどおり短い返事だったが、声はさっきより硬くない。
宏弥が先に俺へ気づき、八代が何も言わず一歩横へずれた。
三人の後ろから見ているだけでも、高城が走るところは見られる。
でも、それでは来た意味がない。
俺はまっすぐ高城の前へ出た。
高城の目が大きくなる。開いた指が、また握られかけて止まった。
「来ないと思った」
「俺が見たかったから来た」
一度、言葉を飲み込むように喉が動いた。
「侑真が見てるなら、負けたくない」
「俺を探して横向いたら負けるぞ。前だけ見ろ」
「分かってる」
「……自己ベスト出してこい」
高城は一瞬だけ黙り、はっきり頷いた。
そのとき、招集を告げる放送が入った。
高城は俺から視線を外し、選手通路へ向かった。
◇
男子百メートル決勝。
選手紹介の声が場内へ流れ、八人がそれぞれのレーンへ立つ。高城は第五レーンだった。
スターティングブロックを蹴る音。スパイクがトラックを引っかく音。風に混じる呼吸。
俺たちは最終コーナーの外側、金網のすぐ前に立った。
「位置について」
高城がブロックへ足をかける。
「用意」
腰が上がる。
高城の目は、自分のレーンの先だけを捉えていた。
号砲が鳴る。
八人の足音が、少しずつ一つの塊になる。
高城の飛び出しは一番ではなかった。外側の選手が先へ出る。内側からも一人、鋭く上がってきた。
けれど、高城は追って上体を急がせなかった。
八代が自分の膝へ四つ、指で拍を刻む。高城の腕振りと同じ間隔だった。
有川が低く言った。
「肩、上がってない」
コーナーの途中で、前との差が少し縮む。
走っていない俺の足裏まで、接地を思い出した。焦れば右肩が入り、身体が浮く。
高城の顎はぶれず、開いた指が後ろへまっすぐ引かれている。
前なら六十五を過ぎたあたりで短くなった呼吸が、今日は切れない。口元は歪み、首には筋が浮く。それでも吐くたび、力を次の一歩へ流している。
俺は無意識に息を合わせかけた。
吸って、吐く。
けれど、俺が吐くより先に、高城自身が長く吐いた。
俺の呼吸がなくても、高城の足は迷わない。
前の選手との差が、一歩ずつ削れていく。
残り三十。肩が並ぶ。
宏弥が目を細めた。
「離した」
高城はもう誰も見ていなかった。ゴールだけでもない。その先まで身体を運ぶように、腕を振り、最後の一歩を押し切った。
先頭で白線を越える。
そのまま数歩走り、身体を投げ出さずに速度を落とす。すぐにこちらを探さなかった。自分の脚で止まり、膝へ手もつかず、乱れた呼吸を立ったまま整える。
それから掲示板を見上げた。
表示された数字が点滅する。
場内放送が、一拍遅れて高城の優勝を告げた。続いた「県新記録」の言葉だけ、やけにはっきり耳へ入った。
八代が長い音を吹き終えたみたいに息を吐く。
「最後まで流れたね」
「力、抜けてた」
有川はそれだけ言って頷く。
宏弥は腕を組み、満足そうに笑った。
「ちゃんと届くまで見てた」
「お前ら、監督みたいだな」
「侑ちゃんは?」
「……速かった」
ほかに言葉が出なかった。
トラックの向こうで、高城がようやくこちらを見た。
汗で前髪を額へ貼りつけたまま、ほんの少しだけ口元を上げる。勝った顔というより、ちゃんと走り切った人間の顔だった。
俺も片手を上げた。
胸の奥がうるさかった。
たぶん、記録が出たせいだけじゃない。
◇
表彰が終わるまで待っていると、高城はメダルを首から下げたまま、スタンド下の通路へ来た。
八代たちは少し離れた自動販売機の前にいる。二人で話せる距離だけ、残してくれたらしい。
「待たせた」
「勝手に待ってただけ」
「見てたか」
「県新記録なら、嫌でも場内放送で聞こえる」
「走りは」
「最後まで肩、上がらなかった。……今までで一番いい走りだったと思う」
高城は一度だけ笑った。
「ありがとう」
そういうところは、相変わらず律儀である。
それから、高城の表情が戻る。
「この前のこと、謝りたい」
俺は壁から背を離す。
「言い訳は聞かない」
「しない」
高城は目を逸らさなかった。
「顧問に侑真の怪我を話した。返事を遮って、走らないと勝手に決めた。怖かったのは本当だ。でも、それは侑真の選択を奪っていい理由にならない。悪かった」
メダルが、呼吸に合わせて小さく揺れている。
謝られても、あのときの腹立たしさも古い傷も消えない。
それでも、高城は俺が何に怒ったのかを、自分の言葉で間違えずに言った。
「今度こそ、勝手に決めない」
「じゃあ俺が走るって言ったら?」
「応援する」
迷いのない返事だった。
「走らないって言ったら?」
「それも侑真が決めたこととして受け止める」
「途中で分からなくなったら?」
「決まるまで待つ。聞かれたら一緒に考える」
前なら、その答えを聞いて終わりにしたかもしれない。
でも、俺にも言っていないことがある。
「俺も、言うだけ言って逃げた」
高城が黙って聞く。
「お前の話を最後まで聞かないで、練習を途中でやめた。あのまま終わらせたくないって分かってたのに、そっちが来るのを待ってた。自分から来たら、許したみたいで負けた気がして」
「勝ち負けなのか」
「俺にとってはだいたいそうなんだよ」
「知ってる」
即答されると、それはそれで腹が立つ。
「侑真が怒るのは当然だ」
「今も腹は立ってる」
「ああ」
「約束を破ったことは、簡単には忘れない」
「忘れなくていい。次は、守る」
「でも、腹が立つのと、もう隣にいたくないのは別だった」
高城の目がわずかに揺れた。
通路の外から、次の競技を知らせる放送が聞こえる。誰かのスパイクが遠くを通り過ぎ、また二人ぶんの呼吸だけが残った。
高城が右手を差し出した。触れる寸前で止める。
「手、握っていいか」
「今日は聞くんだな」
「これからも聞く」
差し出された手のひらへ、俺から指を置いた。
高城の手が、短く俺の手を握る。
走り終えた体温はまだ高い。強くはないのに、指先から手首まで熱が移った。振りほどこうと思えば、すぐできる程度の力だった。
俺は振りほどかなかった。
一度だけ確かめるように握って、高城はすぐ離した。
「大会が終わったら、言いたいことがあるって言ったの、覚えてるか」
「忘れてない」
「今、聞くか」
俺は首を振った。
聞くのが怖いからじゃない。
俺にも、先に自分で決めて伝えることがある。
「明日、放課後。最初の場所に来い」



