陸上部のエースより速い帰宅部ですが、恋からは逃げきれないようです

高城の背中越しに、顧問のスマホの画面が止まった。

制服姿の俺が、高城を追い抜いた直後。振り返った顔まで、しっかり残っている。

「山瀬侑真です」

高城が何か言う前に、自分で答えた。

顧問は俺と画面を見比べる。

「陸上経験は?」

「中学で、少し」

「少し、の走りじゃないな。革靴でこの接地なら、きちんと調整すればかなり――」

顧問の声に悪意はなかった。ただ、純粋に才能を見つけた人の目だった。

それが分かるからこそ、胸の奥が落ち着かない。

「今すぐ入部を決めろとは言わない。まず短距離の練習に参加してみないか。今季のリレーは補欠登録にも一枠余裕がある。出るかどうかは、そのあと考えればいい」

顧問は、固まった俺を急かすようなことはしなかった。

「ブランクがあるなら、練習量も別に組む。見学だけでもいい。動画一本で君のことを分かったつもりはないが、走る選択肢があるとは伝えておきたい」

昔の顧問なら、もう出場する前提で話を進めていた。目の前の人は、ちゃんと俺の返事を待っている。

出るかどうか。

その言葉を頭の中で一度転がしたところで、高城が言った。

「侑真は出ません」

低く、迷いのない声だった。

「練習にも参加しません。入部もしません」

「高城、お前に聞いてるんじゃない」

顧問が眉を寄せる。

「本人の意思を――」

「こいつは前に怪我をしています」

その言い方は、俺の気持ちを無視したように聞こえた。

空気が止まった。

俺は高城の横顔を見る。こっちは見ない。

「走らせるべきじゃありません」

顧問はすぐに勧誘を重ねなかった。スマホを下ろし、俺へ向き直る。

「そうだったのか。なら、無理はさせられない。返事は急がなくていいからな」

「……はい」

それだけ答えて、俺は歩き出した。



「侑真」

背後から足音が追ってくる。階段の踊り場まで来たところで、振り返った。

「なんでお前が決めるんだよ」

高城の足が止まる。

「お前の怪我を知ったからだ」

「知ってたら、代わりに答えていいのか? 顧問は俺に聞いてた」

「また怪我するんじゃないかって、怖くなった」

まっすぐ返されて、余計に腹が立った。

「俺は何のためにあの話をしたと思ってる?」

「分かってる。勝手に触られるのも、走るかどうか決められるのも嫌だったんだよな?」

「分かってないだろ! 前に自分で言ったよな? 走るかは、俺が決めろって」

声が階段へ響いた。

通りかかった一年が、慌てて向きを変える。今は気にしていられない。

「走れって決められるのも嫌だった。痛くても必要だって言われて、俺の返事なんか最初から聞かれなかった」

「だから俺は――」

「走るなって決められるのも、同じくらい嫌なんだよ」

高城が黙った。

身体へ触れる前には何度も許可を取った。髪についた糸一本を取るときさえ聞いた。なのに、俺がこれから走るかどうかは、ひとことも聞かなかった。

「俺が断るかもしれない。参加してみるって言うかもしれない。補欠だけなら考えたかもしれない。今は自分でも分からない。でも、分からないまま考える権利まで、お前が取るなよ」

「守りたかった」

掠れた声だった。

「それは俺を守ってるんじゃない」

高城の目が、初めて揺れた。

「傷つく俺を見たくない、お前自身を守ってるだけだ」

言った瞬間、胸の内側も痛んだ。けれど、引っ込める気はなかった。

高城は一歩だけ近づき、そこで止まった。手は伸ばさない。

「侑真、話を――」

「期間限定の練習、今日で終わり」

「大会までは、まだ」

「走るかどうかは俺が決めるって、お前もそれでいいって言ったよな? その約束を破ったのはそっちだろ」

高城の唇が閉じる。

俺の怪我を顧問へ話したことも、俺の代わりに走らないと決めたことも、どちらも許可していない。

「化学は、もう赤点を取らないくらいには教わった。助かった」

「こんな終わり方をしたかったわけじゃない」

「俺だってそうだよ」

だから腹が立つ。

高城は追ってこなかった。

階段を下り切ってから、一度だけ足音を探した自分にも腹が立った。追ってきたらさらに怒るくせに、来ないことにもイラ立って、勝手だと思う。

感情に筋が通っていない。けれど、今までみたいに面倒の一言で蓋をする気にはなれなかった。



次の日、俺は校舎裏の最短経路で帰った。

トラック側へ曲がらなければ、高城の走りを見ずに済む。足音も、呼吸も聞こえない。

別に困らない。帰宅部として正しい帰宅である。

スマホの連絡先には高城の名前が残っている。最後のやり取りは、宏弥が撮った動画を送った日だ。あのときは分かっていたはずなのに。

消す理由も、こちらから送る言葉も見つからず、画面を閉じた。

そのはずなのに、バス停へ着いた俺は、まだ来ないバスより何度も学校の方向を見た。

見たいのは高城なのか、走っている人間なのか、自分でも分からなかった。



翌日の昼休み、有川が俺の肩へ頬をつけたまま言った。

「侑真、消しゴム割れてる」

手元を見ると、無意識に握り潰していた。

「寿命」

有川は片目だけ開ける。

「高城に話した? 右足のこと?」

「話した」

「なんか、怒ってる? まだ高城に言いたいことがあるとか?」

「言いたいことは全部言った」

「言って終わった顔してないけど?」

腹が立つほど当ててくる。

俺は割れた消しゴムを机の端へ寄せた。

「俺が本当は走りたいのか、あいつと走りたいだけなのか、まだ分からない」

「うん」

「分からないってことを、分かってほしかった」

「それ、高城に言った?」

言っていない。

有川は答えを待たず、目を閉じた。

「お前が昔、何があったのかは聞かないけどさ」

「……」

「お前の気持ち、高城なら受け止めてくれるんじゃない?」



放課後、音楽室の前を通ると、廊下の奥から低い声がした。

「守ることと、代わりに決めることは違うよ、慧介」

八代だった。

開いた倉庫の前で、高城とチューバのケースを運んでいる。俺は角を曲がる前で足を止めた。

「分かってる」

高城の声は硬い。

「分かっていたのに、怖かった。侑真がまた走れなくなるのが」

「山瀬くんのこと、いくら想っていても、息を代わりに吐くことはできないだろ? 選ぶのも同じだよ」

ケースの金具が、小さく鳴った。

「ちゃんと、本人の答えを聞かないと」

「聞きたい。でも、今行けば、また俺の都合で答えを急がせる」

八代がチューバのケースを床へ置いた。

「重いからって、僕に聞かず全部持たれたら困るよ。助けるなら、どこを持つかくらい相談してほしい。慧介は山瀬くんに同じことをしたんだと思う」

返事は聞こえなかった。

俺は姿を見せず、その場を離れた。

謝ってほしいだけなら、今の言葉で少しは満足したはずだ。

でも、そうじゃない。

俺は、高城に正しく反省してほしいんじゃない。俺が何を選ぶのかを、隣で見ていてほしかった。