高城の背中越しに、顧問のスマホの画面が止まった。
制服姿の俺が、高城を追い抜いた直後。振り返った顔まで、しっかり残っている。
「山瀬侑真です」
高城が何か言う前に、自分で答えた。
顧問は俺と画面を見比べる。
「陸上経験は?」
「中学で、少し」
「少し、の走りじゃないな。革靴でこの接地なら、きちんと調整すればかなり――」
顧問の声に悪意はなかった。ただ、純粋に才能を見つけた人の目だった。
それが分かるからこそ、胸の奥が落ち着かない。
「今すぐ入部を決めろとは言わない。まず短距離の練習に参加してみないか。今季のリレーは補欠登録にも一枠余裕がある。出るかどうかは、そのあと考えればいい」
顧問は、固まった俺を急かすようなことはしなかった。
「ブランクがあるなら、練習量も別に組む。見学だけでもいい。動画一本で君のことを分かったつもりはないが、走る選択肢があるとは伝えておきたい」
昔の顧問なら、もう出場する前提で話を進めていた。目の前の人は、ちゃんと俺の返事を待っている。
出るかどうか。
その言葉を頭の中で一度転がしたところで、高城が言った。
「侑真は出ません」
低く、迷いのない声だった。
「練習にも参加しません。入部もしません」
「高城、お前に聞いてるんじゃない」
顧問が眉を寄せる。
「本人の意思を――」
「こいつは前に怪我をしています」
その言い方は、俺の気持ちを無視したように聞こえた。
空気が止まった。
俺は高城の横顔を見る。こっちは見ない。
「走らせるべきじゃありません」
顧問はすぐに勧誘を重ねなかった。スマホを下ろし、俺へ向き直る。
「そうだったのか。なら、無理はさせられない。返事は急がなくていいからな」
「……はい」
それだけ答えて、俺は歩き出した。
◇
「侑真」
背後から足音が追ってくる。階段の踊り場まで来たところで、振り返った。
「なんでお前が決めるんだよ」
高城の足が止まる。
「お前の怪我を知ったからだ」
「知ってたら、代わりに答えていいのか? 顧問は俺に聞いてた」
「また怪我するんじゃないかって、怖くなった」
まっすぐ返されて、余計に腹が立った。
「俺は何のためにあの話をしたと思ってる?」
「分かってる。勝手に触られるのも、走るかどうか決められるのも嫌だったんだよな?」
「分かってないだろ! 前に自分で言ったよな? 走るかは、俺が決めろって」
声が階段へ響いた。
通りかかった一年が、慌てて向きを変える。今は気にしていられない。
「走れって決められるのも嫌だった。痛くても必要だって言われて、俺の返事なんか最初から聞かれなかった」
「だから俺は――」
「走るなって決められるのも、同じくらい嫌なんだよ」
高城が黙った。
身体へ触れる前には何度も許可を取った。髪についた糸一本を取るときさえ聞いた。なのに、俺がこれから走るかどうかは、ひとことも聞かなかった。
「俺が断るかもしれない。参加してみるって言うかもしれない。補欠だけなら考えたかもしれない。今は自分でも分からない。でも、分からないまま考える権利まで、お前が取るなよ」
「守りたかった」
掠れた声だった。
「それは俺を守ってるんじゃない」
高城の目が、初めて揺れた。
「傷つく俺を見たくない、お前自身を守ってるだけだ」
言った瞬間、胸の内側も痛んだ。けれど、引っ込める気はなかった。
高城は一歩だけ近づき、そこで止まった。手は伸ばさない。
「侑真、話を――」
「期間限定の練習、今日で終わり」
「大会までは、まだ」
「走るかどうかは俺が決めるって、お前もそれでいいって言ったよな? その約束を破ったのはそっちだろ」
高城の唇が閉じる。
俺の怪我を顧問へ話したことも、俺の代わりに走らないと決めたことも、どちらも許可していない。
「化学は、もう赤点を取らないくらいには教わった。助かった」
「こんな終わり方をしたかったわけじゃない」
「俺だってそうだよ」
だから腹が立つ。
高城は追ってこなかった。
階段を下り切ってから、一度だけ足音を探した自分にも腹が立った。追ってきたらさらに怒るくせに、来ないことにもイラ立って、勝手だと思う。
感情に筋が通っていない。けれど、今までみたいに面倒の一言で蓋をする気にはなれなかった。
◇
次の日、俺は校舎裏の最短経路で帰った。
トラック側へ曲がらなければ、高城の走りを見ずに済む。足音も、呼吸も聞こえない。
別に困らない。帰宅部として正しい帰宅である。
スマホの連絡先には高城の名前が残っている。最後のやり取りは、宏弥が撮った動画を送った日だ。あのときは分かっていたはずなのに。
消す理由も、こちらから送る言葉も見つからず、画面を閉じた。
そのはずなのに、バス停へ着いた俺は、まだ来ないバスより何度も学校の方向を見た。
見たいのは高城なのか、走っている人間なのか、自分でも分からなかった。
◇
翌日の昼休み、有川が俺の肩へ頬をつけたまま言った。
「侑真、消しゴム割れてる」
手元を見ると、無意識に握り潰していた。
「寿命」
有川は片目だけ開ける。
「高城に話した? 右足のこと?」
「話した」
「なんか、怒ってる? まだ高城に言いたいことがあるとか?」
「言いたいことは全部言った」
「言って終わった顔してないけど?」
腹が立つほど当ててくる。
俺は割れた消しゴムを机の端へ寄せた。
「俺が本当は走りたいのか、あいつと走りたいだけなのか、まだ分からない」
「うん」
「分からないってことを、分かってほしかった」
「それ、高城に言った?」
言っていない。
有川は答えを待たず、目を閉じた。
「お前が昔、何があったのかは聞かないけどさ」
「……」
「お前の気持ち、高城なら受け止めてくれるんじゃない?」
◇
放課後、音楽室の前を通ると、廊下の奥から低い声がした。
「守ることと、代わりに決めることは違うよ、慧介」
八代だった。
開いた倉庫の前で、高城とチューバのケースを運んでいる。俺は角を曲がる前で足を止めた。
「分かってる」
高城の声は硬い。
「分かっていたのに、怖かった。侑真がまた走れなくなるのが」
「山瀬くんのこと、いくら想っていても、息を代わりに吐くことはできないだろ? 選ぶのも同じだよ」
ケースの金具が、小さく鳴った。
「ちゃんと、本人の答えを聞かないと」
「聞きたい。でも、今行けば、また俺の都合で答えを急がせる」
八代がチューバのケースを床へ置いた。
「重いからって、僕に聞かず全部持たれたら困るよ。助けるなら、どこを持つかくらい相談してほしい。慧介は山瀬くんに同じことをしたんだと思う」
返事は聞こえなかった。
俺は姿を見せず、その場を離れた。
謝ってほしいだけなら、今の言葉で少しは満足したはずだ。
でも、そうじゃない。
俺は、高城に正しく反省してほしいんじゃない。俺が何を選ぶのかを、隣で見ていてほしかった。
制服姿の俺が、高城を追い抜いた直後。振り返った顔まで、しっかり残っている。
「山瀬侑真です」
高城が何か言う前に、自分で答えた。
顧問は俺と画面を見比べる。
「陸上経験は?」
「中学で、少し」
「少し、の走りじゃないな。革靴でこの接地なら、きちんと調整すればかなり――」
顧問の声に悪意はなかった。ただ、純粋に才能を見つけた人の目だった。
それが分かるからこそ、胸の奥が落ち着かない。
「今すぐ入部を決めろとは言わない。まず短距離の練習に参加してみないか。今季のリレーは補欠登録にも一枠余裕がある。出るかどうかは、そのあと考えればいい」
顧問は、固まった俺を急かすようなことはしなかった。
「ブランクがあるなら、練習量も別に組む。見学だけでもいい。動画一本で君のことを分かったつもりはないが、走る選択肢があるとは伝えておきたい」
昔の顧問なら、もう出場する前提で話を進めていた。目の前の人は、ちゃんと俺の返事を待っている。
出るかどうか。
その言葉を頭の中で一度転がしたところで、高城が言った。
「侑真は出ません」
低く、迷いのない声だった。
「練習にも参加しません。入部もしません」
「高城、お前に聞いてるんじゃない」
顧問が眉を寄せる。
「本人の意思を――」
「こいつは前に怪我をしています」
その言い方は、俺の気持ちを無視したように聞こえた。
空気が止まった。
俺は高城の横顔を見る。こっちは見ない。
「走らせるべきじゃありません」
顧問はすぐに勧誘を重ねなかった。スマホを下ろし、俺へ向き直る。
「そうだったのか。なら、無理はさせられない。返事は急がなくていいからな」
「……はい」
それだけ答えて、俺は歩き出した。
◇
「侑真」
背後から足音が追ってくる。階段の踊り場まで来たところで、振り返った。
「なんでお前が決めるんだよ」
高城の足が止まる。
「お前の怪我を知ったからだ」
「知ってたら、代わりに答えていいのか? 顧問は俺に聞いてた」
「また怪我するんじゃないかって、怖くなった」
まっすぐ返されて、余計に腹が立った。
「俺は何のためにあの話をしたと思ってる?」
「分かってる。勝手に触られるのも、走るかどうか決められるのも嫌だったんだよな?」
「分かってないだろ! 前に自分で言ったよな? 走るかは、俺が決めろって」
声が階段へ響いた。
通りかかった一年が、慌てて向きを変える。今は気にしていられない。
「走れって決められるのも嫌だった。痛くても必要だって言われて、俺の返事なんか最初から聞かれなかった」
「だから俺は――」
「走るなって決められるのも、同じくらい嫌なんだよ」
高城が黙った。
身体へ触れる前には何度も許可を取った。髪についた糸一本を取るときさえ聞いた。なのに、俺がこれから走るかどうかは、ひとことも聞かなかった。
「俺が断るかもしれない。参加してみるって言うかもしれない。補欠だけなら考えたかもしれない。今は自分でも分からない。でも、分からないまま考える権利まで、お前が取るなよ」
「守りたかった」
掠れた声だった。
「それは俺を守ってるんじゃない」
高城の目が、初めて揺れた。
「傷つく俺を見たくない、お前自身を守ってるだけだ」
言った瞬間、胸の内側も痛んだ。けれど、引っ込める気はなかった。
高城は一歩だけ近づき、そこで止まった。手は伸ばさない。
「侑真、話を――」
「期間限定の練習、今日で終わり」
「大会までは、まだ」
「走るかどうかは俺が決めるって、お前もそれでいいって言ったよな? その約束を破ったのはそっちだろ」
高城の唇が閉じる。
俺の怪我を顧問へ話したことも、俺の代わりに走らないと決めたことも、どちらも許可していない。
「化学は、もう赤点を取らないくらいには教わった。助かった」
「こんな終わり方をしたかったわけじゃない」
「俺だってそうだよ」
だから腹が立つ。
高城は追ってこなかった。
階段を下り切ってから、一度だけ足音を探した自分にも腹が立った。追ってきたらさらに怒るくせに、来ないことにもイラ立って、勝手だと思う。
感情に筋が通っていない。けれど、今までみたいに面倒の一言で蓋をする気にはなれなかった。
◇
次の日、俺は校舎裏の最短経路で帰った。
トラック側へ曲がらなければ、高城の走りを見ずに済む。足音も、呼吸も聞こえない。
別に困らない。帰宅部として正しい帰宅である。
スマホの連絡先には高城の名前が残っている。最後のやり取りは、宏弥が撮った動画を送った日だ。あのときは分かっていたはずなのに。
消す理由も、こちらから送る言葉も見つからず、画面を閉じた。
そのはずなのに、バス停へ着いた俺は、まだ来ないバスより何度も学校の方向を見た。
見たいのは高城なのか、走っている人間なのか、自分でも分からなかった。
◇
翌日の昼休み、有川が俺の肩へ頬をつけたまま言った。
「侑真、消しゴム割れてる」
手元を見ると、無意識に握り潰していた。
「寿命」
有川は片目だけ開ける。
「高城に話した? 右足のこと?」
「話した」
「なんか、怒ってる? まだ高城に言いたいことがあるとか?」
「言いたいことは全部言った」
「言って終わった顔してないけど?」
腹が立つほど当ててくる。
俺は割れた消しゴムを机の端へ寄せた。
「俺が本当は走りたいのか、あいつと走りたいだけなのか、まだ分からない」
「うん」
「分からないってことを、分かってほしかった」
「それ、高城に言った?」
言っていない。
有川は答えを待たず、目を閉じた。
「お前が昔、何があったのかは聞かないけどさ」
「……」
「お前の気持ち、高城なら受け止めてくれるんじゃない?」
◇
放課後、音楽室の前を通ると、廊下の奥から低い声がした。
「守ることと、代わりに決めることは違うよ、慧介」
八代だった。
開いた倉庫の前で、高城とチューバのケースを運んでいる。俺は角を曲がる前で足を止めた。
「分かってる」
高城の声は硬い。
「分かっていたのに、怖かった。侑真がまた走れなくなるのが」
「山瀬くんのこと、いくら想っていても、息を代わりに吐くことはできないだろ? 選ぶのも同じだよ」
ケースの金具が、小さく鳴った。
「ちゃんと、本人の答えを聞かないと」
「聞きたい。でも、今行けば、また俺の都合で答えを急がせる」
八代がチューバのケースを床へ置いた。
「重いからって、僕に聞かず全部持たれたら困るよ。助けるなら、どこを持つかくらい相談してほしい。慧介は山瀬くんに同じことをしたんだと思う」
返事は聞こえなかった。
俺は姿を見せず、その場を離れた。
謝ってほしいだけなら、今の言葉で少しは満足したはずだ。
でも、そうじゃない。
俺は、高城に正しく反省してほしいんじゃない。俺が何を選ぶのかを、隣で見ていてほしかった。



