「そこ、止めて」
宏弥の指で、視聴覚室の画面が止まった。
高城が俺を「侑真」と呼ぶようになって三日。いまだに返事が一拍遅れるのは、聞き慣れないせいということにしている。
右足首に違和感がないことを有川が確認し、今日、俺は三日ぶりに高城と走った。百メートルを一本。靴半分、先に白線を越えたのは俺だった。
その映像を見るために、撮影した宏弥、呼吸を見る八代、足を見る有川まで集められている。帰宅部一人に対して専門家が多すぎる。
画面の中では、スタート前の俺と高城が並んでいた。宏弥が俺の顔を拡大する。画質の無駄遣いだ。
「侑ちゃん、合図じゃなくて慧介を見て走ってるよ」
「見てない」
「見てるって。最初は肩。次に右足」
宏弥が映像を少し戻す。俺の顎がわずかに右へ動き、高城の肩が沈んだ瞬間、地面を押す。
「慧介が動いた瞬間に出てる。弓道は視線で狙いが分かるんだよ」
「俺は的じゃない」
高城が真顔で言う。
「たとえ話ね。で、侑ちゃんの狙いはゴールじゃなくて慧介」
「だから見てない」
「映像に否定しても勝てないよ」
だから、動画は嫌いだ。記憶なら都合よく修正できるのに。
画面の俺は高城の肩から足元まで、律儀に確認している。
八代が腕を組んだ。
「スタートだけじゃないね。途中で慧介の呼吸が変わると、山瀬くんも一歩あとに変わってる。二人で一つの拍を取ってるみたいだ」
「侑真、ゴール前でも高城見てる」
眠そうな声で有川まで加わる。
宏弥が再生した。決めた線を越えた俺は時計もゴールも見ず、速度を落としながら高城を振り返っている。
「何で俺を見る」
隣から低い声がした。
「横にいるから」
「八代が横でも見るか」
「大雅は走らないよ、慧介」
「有川なら」
「陸では省エネ」
本人が即答した。役に立たない。
宏弥が笑いながら、画面の俺の視線へ線を引く。まっすぐ高城の胸元へ伸びた。
「ほら。狙いは嘘つかない」
俺は椅子の背へ沈んだ。
「合図より、お前を見たほうが合わせやすいだけ」
「何を」
「……走るのを」
答えた途端、画面の中の高城より、隣にいる高城のほうが静かになった。
◇
宏弥が足元の映像へ切り替えると、有川が俺の右足の接地で止めた。
「ここ、まだ少し逃げてる」
「痛くない」
「痛みと癖は別。右だけ地面から離すのが早い」
それから高城へ顔を向けた。
「高城。侑真が走れるかどうか、勝手に判断しないで」
「先に侑真に聞くって、約束してる」
「侑真の右は、平気に見える日でも急に固まる。気をつけてやってほしい」
「おい。何も知らないくせに、勝手に本人の前で話を進めるな。お前に右足のこと、ちゃんと話してないだろ?」
俺が睨むと、有川は一度瞬いた。
「じゃあ、自分できちんと話しておいた方がいいと思うよ」
言うだけ言って、水泳部の練習があるからと立ち上がる。八代もケーブルをまとめ、宏弥は端末を閉じた。
「俺からは言わないよ。何があったかは知ってるけど。侑ちゃんの話だから」
珍しく軽くない声で言う。
「僕は事情を知らないけど」
八代も鞄を肩へかけた。
「慧介、急かすと余計に言えなくなるからね。息と同じだよ」
「分かってる」
◇
三人が出ていき、扉が閉まると、視聴覚室は急に広くなった。
高城はすぐには聞かなかった。机の上で組んだ俺の右手を見て、それから顔へ視線を戻す。
「昔のこと、聞いていいか」
「聞いてどうする」
「古傷があるんだろ? 知らないまま、大丈夫かとだけ言いたくない」
言葉を選んだ跡がある声だった。
「中学のとき、スタート練習で顧問に右足を直された」
「直された?」
「後ろから、何も言わずに足首をつかまれた。スパイクが地面に噛んだまま向きを変えられて、そのまま体重が乗った」
乾いた痛みは、今でも妙に鮮明だ。倒れた俺より先に、顧問は乱れたスターティングブロックを見た。
「触るなら先に言えって、前にも言ってた。でも、選手がいちいち驚くなって。足は腫れたけど、大会が近かったから保健室にも行かせてもらえなかった」
高城の手が、机の下で固く握られる。それでも口は挟まない。
「顧問は親にも部員にも、軽くひねっただけだって言った。テープを巻けば走れる、欠場するほどじゃないって。俺は走らないって言ったけど、エントリーもリレーの順番も変えなかった」
俺は窓の外へ目を向けた。夕方のトラックに、陸上部の影が小さく動いている。
「大会当日、アップで痛みが増した俺へ、顧問は声を落として言った。『お前の脚が必要だ』って」
自分で口にすると、昔の声より平らに聞こえた。
「結局、出させられた。途中でまた痛めて、病院に行ったのは大会のあと。必要だったのは俺じゃなくて、速い脚だけだったんだと思う。走り終わっても、痛いかじゃなくて、タイムの話しかされなかった」
「それで、陸上をやめたのか」
「ああ。走るのまで嫌いになれたら、もっと楽だったけど」
窓の向こうを、短距離の一団が駆け抜ける。目で追いそうになり、やめた。
「だから、勝手に触られるのも、走れるかどうか他人に決められるのも、嫌なんだ。俺の身体だろ」
「ああ。侑真が決めることだ」
高城はゆっくり頷いた。
「話してくれて、ありがとう」
「礼を言われるような話じゃない」
「それでも」
◇
しばらくして、高城が言った。
「侑真のこと。最初は、速いから気になった」
やっぱりな。
「負けたのが悔しかった。条件をそろえて、もう一度走りたかった」
予想どおりすぎて、笑う気にもならない。
「でも今、見てるのはそこじゃない」
「じゃあ、どこだよ」
「俺に勝ったあと、必ず俺の顔を見るところ」
思わず高城を見る。目が合った。
「最初の日も、次に勝った日も。今日の映像でも、俺を見てる。侑真はタイムより先に俺を見る。走れない日も、俺の呼吸や肩を見てる」
「それは練習相手だから」
「練習相手ってだけなら、走らない日は気にならないはずだ」
正論で返すな。
「お前だって、プールで俺が右へ傾くたびに見てた。……俺のこと、気にしすぎだろ」
「侑真には言われたくない。……まあ。今だけは、練習相手だからってことにしておくよ」
何だ、その余裕は。腹が立つ。
「練習相手として、侑真は俺のことどう思ってる?」
「……俺だって、お前の記録だけを見てるわけじゃない」
「じゃあ、何を見てる?」
「負けても言い訳しないとことか。約束どおり化学を十五分で終わらせるとことか」
「そこなのか?」
「約束を守るかは大事だろ。あと、手を抜かないとこ」
最後だけ声が小さくなった。
高城の目が少し細くなる。笑ったわけではないのに、その顔を見ていると落ち着かない。
「髪、触っていいか」
「急に何」
「白い糸がついてる」
「……取れば」
高城の指が前髪へ触れた。こめかみを掠める体温は一瞬で、指先には本当に白い糸が一本ついている。
たったそれだけの許可を取る男に、胸の奥を乱されるのは納得がいかない。
「大会が終わったら、侑真に言いたいことがある」
「今言えよ」
「今は、練習相手として始めた約束の途中だから。終わってから言う」
「化学の話?」
「違う」
即答だった。
「聞くかどうかは、俺が決めていいんだよな」
「ああ。そのとき、侑真が決めてくれ」
聞くのが怖いような、早く聞きたいような。どちらにしても面倒な感情である。
◇
視聴覚室を出て昇降口へ向かう途中、職員室の前で陸上部の顧問に呼び止められた。
「高城。ちょうどよかった」
顧問の手にはスマホがある。
「これ、お前だよな」
画面で流れ始めた映像を見て、足が止まった。
金網の内側で笑う陸上部員。スタート位置につく高城。その外側の舗装路へ、制服姿の俺が飛び出す。
あの日、部員がふざけて撮っていた動画だ。
音は小さいのに、革靴が舗装路を叩く硬い音まで思い出せた。画面の俺は高城へ並び、追い抜き、校門の手前で一度だけ振り返った。
「部員が上げてたのを、今朝たまたま見つけた。外を走ってるのは――」
顧問の目が、スマホから俺へ移る。
「お前か?」
高城が半歩、俺の前へ出た。その背中が画面を隠す。
嫌な予感が、治りかけた右足首より先に身体を固くする。
それなのに、大会のあと、高城が俺の何を見て、何を言うつもりなのか。
そっちの方が気になっている自分が、いちばん厄介だった。
宏弥の指で、視聴覚室の画面が止まった。
高城が俺を「侑真」と呼ぶようになって三日。いまだに返事が一拍遅れるのは、聞き慣れないせいということにしている。
右足首に違和感がないことを有川が確認し、今日、俺は三日ぶりに高城と走った。百メートルを一本。靴半分、先に白線を越えたのは俺だった。
その映像を見るために、撮影した宏弥、呼吸を見る八代、足を見る有川まで集められている。帰宅部一人に対して専門家が多すぎる。
画面の中では、スタート前の俺と高城が並んでいた。宏弥が俺の顔を拡大する。画質の無駄遣いだ。
「侑ちゃん、合図じゃなくて慧介を見て走ってるよ」
「見てない」
「見てるって。最初は肩。次に右足」
宏弥が映像を少し戻す。俺の顎がわずかに右へ動き、高城の肩が沈んだ瞬間、地面を押す。
「慧介が動いた瞬間に出てる。弓道は視線で狙いが分かるんだよ」
「俺は的じゃない」
高城が真顔で言う。
「たとえ話ね。で、侑ちゃんの狙いはゴールじゃなくて慧介」
「だから見てない」
「映像に否定しても勝てないよ」
だから、動画は嫌いだ。記憶なら都合よく修正できるのに。
画面の俺は高城の肩から足元まで、律儀に確認している。
八代が腕を組んだ。
「スタートだけじゃないね。途中で慧介の呼吸が変わると、山瀬くんも一歩あとに変わってる。二人で一つの拍を取ってるみたいだ」
「侑真、ゴール前でも高城見てる」
眠そうな声で有川まで加わる。
宏弥が再生した。決めた線を越えた俺は時計もゴールも見ず、速度を落としながら高城を振り返っている。
「何で俺を見る」
隣から低い声がした。
「横にいるから」
「八代が横でも見るか」
「大雅は走らないよ、慧介」
「有川なら」
「陸では省エネ」
本人が即答した。役に立たない。
宏弥が笑いながら、画面の俺の視線へ線を引く。まっすぐ高城の胸元へ伸びた。
「ほら。狙いは嘘つかない」
俺は椅子の背へ沈んだ。
「合図より、お前を見たほうが合わせやすいだけ」
「何を」
「……走るのを」
答えた途端、画面の中の高城より、隣にいる高城のほうが静かになった。
◇
宏弥が足元の映像へ切り替えると、有川が俺の右足の接地で止めた。
「ここ、まだ少し逃げてる」
「痛くない」
「痛みと癖は別。右だけ地面から離すのが早い」
それから高城へ顔を向けた。
「高城。侑真が走れるかどうか、勝手に判断しないで」
「先に侑真に聞くって、約束してる」
「侑真の右は、平気に見える日でも急に固まる。気をつけてやってほしい」
「おい。何も知らないくせに、勝手に本人の前で話を進めるな。お前に右足のこと、ちゃんと話してないだろ?」
俺が睨むと、有川は一度瞬いた。
「じゃあ、自分できちんと話しておいた方がいいと思うよ」
言うだけ言って、水泳部の練習があるからと立ち上がる。八代もケーブルをまとめ、宏弥は端末を閉じた。
「俺からは言わないよ。何があったかは知ってるけど。侑ちゃんの話だから」
珍しく軽くない声で言う。
「僕は事情を知らないけど」
八代も鞄を肩へかけた。
「慧介、急かすと余計に言えなくなるからね。息と同じだよ」
「分かってる」
◇
三人が出ていき、扉が閉まると、視聴覚室は急に広くなった。
高城はすぐには聞かなかった。机の上で組んだ俺の右手を見て、それから顔へ視線を戻す。
「昔のこと、聞いていいか」
「聞いてどうする」
「古傷があるんだろ? 知らないまま、大丈夫かとだけ言いたくない」
言葉を選んだ跡がある声だった。
「中学のとき、スタート練習で顧問に右足を直された」
「直された?」
「後ろから、何も言わずに足首をつかまれた。スパイクが地面に噛んだまま向きを変えられて、そのまま体重が乗った」
乾いた痛みは、今でも妙に鮮明だ。倒れた俺より先に、顧問は乱れたスターティングブロックを見た。
「触るなら先に言えって、前にも言ってた。でも、選手がいちいち驚くなって。足は腫れたけど、大会が近かったから保健室にも行かせてもらえなかった」
高城の手が、机の下で固く握られる。それでも口は挟まない。
「顧問は親にも部員にも、軽くひねっただけだって言った。テープを巻けば走れる、欠場するほどじゃないって。俺は走らないって言ったけど、エントリーもリレーの順番も変えなかった」
俺は窓の外へ目を向けた。夕方のトラックに、陸上部の影が小さく動いている。
「大会当日、アップで痛みが増した俺へ、顧問は声を落として言った。『お前の脚が必要だ』って」
自分で口にすると、昔の声より平らに聞こえた。
「結局、出させられた。途中でまた痛めて、病院に行ったのは大会のあと。必要だったのは俺じゃなくて、速い脚だけだったんだと思う。走り終わっても、痛いかじゃなくて、タイムの話しかされなかった」
「それで、陸上をやめたのか」
「ああ。走るのまで嫌いになれたら、もっと楽だったけど」
窓の向こうを、短距離の一団が駆け抜ける。目で追いそうになり、やめた。
「だから、勝手に触られるのも、走れるかどうか他人に決められるのも、嫌なんだ。俺の身体だろ」
「ああ。侑真が決めることだ」
高城はゆっくり頷いた。
「話してくれて、ありがとう」
「礼を言われるような話じゃない」
「それでも」
◇
しばらくして、高城が言った。
「侑真のこと。最初は、速いから気になった」
やっぱりな。
「負けたのが悔しかった。条件をそろえて、もう一度走りたかった」
予想どおりすぎて、笑う気にもならない。
「でも今、見てるのはそこじゃない」
「じゃあ、どこだよ」
「俺に勝ったあと、必ず俺の顔を見るところ」
思わず高城を見る。目が合った。
「最初の日も、次に勝った日も。今日の映像でも、俺を見てる。侑真はタイムより先に俺を見る。走れない日も、俺の呼吸や肩を見てる」
「それは練習相手だから」
「練習相手ってだけなら、走らない日は気にならないはずだ」
正論で返すな。
「お前だって、プールで俺が右へ傾くたびに見てた。……俺のこと、気にしすぎだろ」
「侑真には言われたくない。……まあ。今だけは、練習相手だからってことにしておくよ」
何だ、その余裕は。腹が立つ。
「練習相手として、侑真は俺のことどう思ってる?」
「……俺だって、お前の記録だけを見てるわけじゃない」
「じゃあ、何を見てる?」
「負けても言い訳しないとことか。約束どおり化学を十五分で終わらせるとことか」
「そこなのか?」
「約束を守るかは大事だろ。あと、手を抜かないとこ」
最後だけ声が小さくなった。
高城の目が少し細くなる。笑ったわけではないのに、その顔を見ていると落ち着かない。
「髪、触っていいか」
「急に何」
「白い糸がついてる」
「……取れば」
高城の指が前髪へ触れた。こめかみを掠める体温は一瞬で、指先には本当に白い糸が一本ついている。
たったそれだけの許可を取る男に、胸の奥を乱されるのは納得がいかない。
「大会が終わったら、侑真に言いたいことがある」
「今言えよ」
「今は、練習相手として始めた約束の途中だから。終わってから言う」
「化学の話?」
「違う」
即答だった。
「聞くかどうかは、俺が決めていいんだよな」
「ああ。そのとき、侑真が決めてくれ」
聞くのが怖いような、早く聞きたいような。どちらにしても面倒な感情である。
◇
視聴覚室を出て昇降口へ向かう途中、職員室の前で陸上部の顧問に呼び止められた。
「高城。ちょうどよかった」
顧問の手にはスマホがある。
「これ、お前だよな」
画面で流れ始めた映像を見て、足が止まった。
金網の内側で笑う陸上部員。スタート位置につく高城。その外側の舗装路へ、制服姿の俺が飛び出す。
あの日、部員がふざけて撮っていた動画だ。
音は小さいのに、革靴が舗装路を叩く硬い音まで思い出せた。画面の俺は高城へ並び、追い抜き、校門の手前で一度だけ振り返った。
「部員が上げてたのを、今朝たまたま見つけた。外を走ってるのは――」
顧問の目が、スマホから俺へ移る。
「お前か?」
高城が半歩、俺の前へ出た。その背中が画面を隠す。
嫌な予感が、治りかけた右足首より先に身体を固くする。
それなのに、大会のあと、高城が俺の何を見て、何を言うつもりなのか。
そっちの方が気になっている自分が、いちばん厄介だった。



