陸上部のエースより速い帰宅部ですが、恋からは逃げきれないようです

翌日の放課後、俺と高城は弓道場に向かっていた。

右足首は歩くぶんには問題ない。けれど、有川に「身体を雑に使うやつ」とまで言われた翌日に、また全力で走るほど俺も馬鹿ではない。たぶん。

今日は大事を取って、俺の一本はなしになった。

その代わり、高城のフォームを動画で撮ることにした。

八代に直してもらった呼吸が、実際の走りでどこまで残っているのか。後半、どこで肩が落ち、身体が起きるのか。俺が隣を走れないなら、外から見ればいい。



撮影役に俺が選んだのは、矢吹宏弥だった。

弓道部で、俺のいとこ。

明るい髪に、軽い口調。誰にでも気安く話しかけ、廊下で教師に注意されても笑って受け流す。校内ではだいたいチャラい男に分類されているし、本人も訂正する気はない。

むしろ、面白がってその印象に乗っかっている節さえある。

ただ、弓道を中心に動画を上げているSNSはフォロワーが十万人を超えていて、撮影技術は腹が立つくらいうまい。
そして、弓を持っている間だけは、普段の軽さが跡形もなく消える。

それに宏弥は、俺が帰宅部のくせに走り方を知っている理由も、右足のことも知っている。
高城の練習相手を内緒で引き受けていると話しても、余計なことは聞かず、誰にも言わない。
映像は高城の確認用だけ。俺が映り込んだものは残さない。
そこまでまとめて頼める相手は、こいつくらいだった。

高城にも、宏弥が俺のいとこで、期間限定で練習相手をしている事情は伝えてある。だから余計な心配はない。

少なくとも、そのはずだった。



「ごめん、一本引き終わるまで待ってて。すぐ終わるから」

俺たちを見つけた宏弥は、いつもの調子で片手を上げた。

口元には笑みがあり、声も軽い。これから部活をするというより、どこかへ遊びに行く途中にしか見えなかった。

けれど、射場へ戻った途端、その空気が消えた。

俺たちは端へ寄り、息を潜める。

宏弥が、弓を構える。

さっきまで笑っていた口元は動かない。

足の置き方も、弓を上げる腕も、ひとつひとつが静かで、迷いがなかった。普段なら一秒の沈黙にも耐えられず何か言い出す男が、今は的だけを見ている。

呼吸さえ、弦の内側へしまい込んでいるようだった。

動かない。

けれど、止まっているわけではない。

張り詰めたものが、少しずつ一点へ集まっていく。

乾いた音が響いた。

矢は的の中心近くへ刺さる。

宏弥はすぐにはこちらを見なかった。

矢が届いたあとまで姿勢を残し、静かに弓を下ろす。

それから残心を解き、こちらを向いた瞬間だった。

「お待たせ、侑ちゃん。そっちが高城慧介くん?」

声も表情も、一瞬でいつもの宏弥に戻る。

さっきまで射場にいた男と同一人物だとは思えないほど、切り替えが早い。

「高城です」

「学校で侑ちゃんはやめろ、宏弥」

「家でも呼んでるじゃん」

「お前が何度言っても聞かないだけだろ」

「そうとも言う」

高城の眉間に、さっきの矢より深く何かが刺さる。

「山瀬でいい」

「慧介が決めることじゃなくない?」

宏弥は笑ってスマホを持ち上げた。

「走るときも弓と同じ。狙う場所から目を逸らしちゃダメ。慧介、最後まで前見てね」

高城は、いつの間にか名前で呼ばれていることには何も言わなかった。

「あと、離した瞬間で終わりじゃない。矢が届くまで姿勢は残る。走りもゴールで身体を投げ捨てないで。その先まで撮るから」



撮影が始まると、宏弥はよく動いた。

地面すれすれから足元を撮り、スタンドへ上がって全体を撮り、高城が走り終えるたびに場所を変える。

数本撮り終えると、三人で画面を覗き込んだ。

六十メートルを越えたあたりで、高城の右肩がわずかに内側へ入っている。呼吸は前より流れているのに、ゴールへ近づくほど上体が急いでいた。

「侑ちゃん、ちょっとここ立って」

「俺は走らない」

「分かってる。立つだけ。今の慧介の崩れ、再現できる?」

言われたとおりに立つと、宏弥の手のひらが俺の肩へ載った。

「触るよ~。肩、ちょい下げて」

そのまま身体の向きを変えられる。

「腰、こっち。逃げるともったいない」

今度は脇腹に近い腰を軽く押された。

撮影中の距離が近いのは昔からだ。まして俺は身内である。

今さら気にすることもなく、言われるまま姿勢を直した。

「はい、いい形。侑ちゃん、映りいいよ」

「かっこいい?」

「どちらかというと、可愛い系じゃない?」

「嬉しくないんだけど」

思わず笑うと、スマホの向こうで宏弥も笑った。

俺を使った姿勢確認は一度で終わり、再び高城を撮ることになった。

ただ、その後の高城はちょっと変だった。

撮り直しの一本目は、ゴールを越えても速度を落としきれず、二本目は逆に早く起き上がった。

いつもなら走る時は全力で集中する男が、今は俺と宏弥の位置を気にしているように見える。

「慧介、こっち見ない。狙うのは侑ちゃんじゃなくて前」

「見てない」

「今ので二回目」

高城は答えず、スタート位置へ戻った。

撮影が終わる頃には、返事が「次」「分かった」「もう一回」だけになっていた。

宏弥は映像を確認しながら、ちらりと高城を見る。

「慧介。狙ってるものがあるなら、途中で視線逸らすなよ」

「何の話だ」

「弓道の話」



宏弥が弓道場に戻ると、高城は俺へ「少し来て」とだけ言った。

連れていかれたのは、人気のないスタンド裏だった。

「何。動画なら、あとで宏弥が送るって」

「矢吹に触られても平気なんだな? 許可出す前に触らせてた」

低い声が返る。

「いとこだし、撮影の確認だろ」

「俺には、触る前に聞けって言った」

「宏弥は昔からああなんだよ」

「分かってる。矢吹が悪いとも思ってない。昔からあの距離なんだろうとも思ってる」

高城は一度、息を吐いた。

「分かってるけど、嫌だった」

「何が」

「肩も、腰も。お前が、触れられて当然みたいな顔しているのが」

「そんな顔してない」

「俺じゃないやつの前であんな顔してるのも、腹が立った」

「あんな顔?」

「笑ってた」

「俺だって笑うよ」

「俺の前では、あまり笑わない」

そんなところまで見ていたのか。

高城の視線は足首にも、スパイクにも落ちていない。ずっと俺の顔にある。

それが妙に居心地悪くて、なのに逸らされたくないと思った自分は、もっと居心地が悪かった。

落ち着かなくなって横を抜けようとした瞬間、高城の手が俺の手首を取った。

反射的に足が止まる。

約束を思い出したのか、高城はすぐ力を緩めた。逃がさないための手ではなく、離すかどうかを俺に委ねるような指先になる。

「悪い。勝手に触った」

それでも完全には離れないまま、高城が言った。

「矢吹には、侑ちゃんって呼ばせるんだ」

「子どもの頃から勝手に呼んでるだけだ」

「じゃあ、俺も勝手に呼ぶ」

「同じ理屈にするなよ」

高城の指が、俺の脈の上でわずかに動いた。

「侑真」

たった二文字が、近すぎる声で落ちてきた。

「勝手にするなよ」

「嫌ならやめる」

高城は今度こそ手を離した。選ぶのを待つように、まっすぐ俺を見る。

「……嫌とは言ってない」

言ったあとで、何を許したのか自分でも分からなくなった。

高城はほんの少し目を細める。

「行こう、侑真」

足の速さにも、記録にも、今日走るかどうかにも関係のないことで、高城は嫌だと言った。

手首に残った熱を握り込んでも、胸の内側は少しも静かにならない。

あいつが欲しいのは、本当にただの練習相手だけなのか?