翌日の放課後、俺と高城は弓道場に向かっていた。
右足首は歩くぶんには問題ない。けれど、有川に「身体を雑に使うやつ」とまで言われた翌日に、また全力で走るほど俺も馬鹿ではない。たぶん。
今日は大事を取って、俺の一本はなしになった。
その代わり、高城のフォームを動画で撮ることにした。
八代に直してもらった呼吸が、実際の走りでどこまで残っているのか。後半、どこで肩が落ち、身体が起きるのか。俺が隣を走れないなら、外から見ればいい。
◇
撮影役に俺が選んだのは、矢吹宏弥だった。
弓道部で、俺のいとこ。
明るい髪に、軽い口調。誰にでも気安く話しかけ、廊下で教師に注意されても笑って受け流す。校内ではだいたいチャラい男に分類されているし、本人も訂正する気はない。
むしろ、面白がってその印象に乗っかっている節さえある。
ただ、弓道を中心に動画を上げているSNSはフォロワーが十万人を超えていて、撮影技術は腹が立つくらいうまい。
そして、弓を持っている間だけは、普段の軽さが跡形もなく消える。
それに宏弥は、俺が帰宅部のくせに走り方を知っている理由も、右足のことも知っている。
高城の練習相手を内緒で引き受けていると話しても、余計なことは聞かず、誰にも言わない。
映像は高城の確認用だけ。俺が映り込んだものは残さない。
そこまでまとめて頼める相手は、こいつくらいだった。
高城にも、宏弥が俺のいとこで、期間限定で練習相手をしている事情は伝えてある。だから余計な心配はない。
少なくとも、そのはずだった。
◇
「ごめん、一本引き終わるまで待ってて。すぐ終わるから」
俺たちを見つけた宏弥は、いつもの調子で片手を上げた。
口元には笑みがあり、声も軽い。これから部活をするというより、どこかへ遊びに行く途中にしか見えなかった。
けれど、射場へ戻った途端、その空気が消えた。
俺たちは端へ寄り、息を潜める。
宏弥が、弓を構える。
さっきまで笑っていた口元は動かない。
足の置き方も、弓を上げる腕も、ひとつひとつが静かで、迷いがなかった。普段なら一秒の沈黙にも耐えられず何か言い出す男が、今は的だけを見ている。
呼吸さえ、弦の内側へしまい込んでいるようだった。
動かない。
けれど、止まっているわけではない。
張り詰めたものが、少しずつ一点へ集まっていく。
乾いた音が響いた。
矢は的の中心近くへ刺さる。
宏弥はすぐにはこちらを見なかった。
矢が届いたあとまで姿勢を残し、静かに弓を下ろす。
それから残心を解き、こちらを向いた瞬間だった。
「お待たせ、侑ちゃん。そっちが高城慧介くん?」
声も表情も、一瞬でいつもの宏弥に戻る。
さっきまで射場にいた男と同一人物だとは思えないほど、切り替えが早い。
「高城です」
「学校で侑ちゃんはやめろ、宏弥」
「家でも呼んでるじゃん」
「お前が何度言っても聞かないだけだろ」
「そうとも言う」
高城の眉間に、さっきの矢より深く何かが刺さる。
「山瀬でいい」
「慧介が決めることじゃなくない?」
宏弥は笑ってスマホを持ち上げた。
「走るときも弓と同じ。狙う場所から目を逸らしちゃダメ。慧介、最後まで前見てね」
高城は、いつの間にか名前で呼ばれていることには何も言わなかった。
「あと、離した瞬間で終わりじゃない。矢が届くまで姿勢は残る。走りもゴールで身体を投げ捨てないで。その先まで撮るから」
◇
撮影が始まると、宏弥はよく動いた。
地面すれすれから足元を撮り、スタンドへ上がって全体を撮り、高城が走り終えるたびに場所を変える。
数本撮り終えると、三人で画面を覗き込んだ。
六十メートルを越えたあたりで、高城の右肩がわずかに内側へ入っている。呼吸は前より流れているのに、ゴールへ近づくほど上体が急いでいた。
「侑ちゃん、ちょっとここ立って」
「俺は走らない」
「分かってる。立つだけ。今の慧介の崩れ、再現できる?」
言われたとおりに立つと、宏弥の手のひらが俺の肩へ載った。
「触るよ~。肩、ちょい下げて」
そのまま身体の向きを変えられる。
「腰、こっち。逃げるともったいない」
今度は脇腹に近い腰を軽く押された。
撮影中の距離が近いのは昔からだ。まして俺は身内である。
今さら気にすることもなく、言われるまま姿勢を直した。
「はい、いい形。侑ちゃん、映りいいよ」
「かっこいい?」
「どちらかというと、可愛い系じゃない?」
「嬉しくないんだけど」
思わず笑うと、スマホの向こうで宏弥も笑った。
俺を使った姿勢確認は一度で終わり、再び高城を撮ることになった。
ただ、その後の高城はちょっと変だった。
撮り直しの一本目は、ゴールを越えても速度を落としきれず、二本目は逆に早く起き上がった。
いつもなら走る時は全力で集中する男が、今は俺と宏弥の位置を気にしているように見える。
「慧介、こっち見ない。狙うのは侑ちゃんじゃなくて前」
「見てない」
「今ので二回目」
高城は答えず、スタート位置へ戻った。
撮影が終わる頃には、返事が「次」「分かった」「もう一回」だけになっていた。
宏弥は映像を確認しながら、ちらりと高城を見る。
「慧介。狙ってるものがあるなら、途中で視線逸らすなよ」
「何の話だ」
「弓道の話」
◇
宏弥が弓道場に戻ると、高城は俺へ「少し来て」とだけ言った。
連れていかれたのは、人気のないスタンド裏だった。
「何。動画なら、あとで宏弥が送るって」
「矢吹に触られても平気なんだな? 許可出す前に触らせてた」
低い声が返る。
「いとこだし、撮影の確認だろ」
「俺には、触る前に聞けって言った」
「宏弥は昔からああなんだよ」
「分かってる。矢吹が悪いとも思ってない。昔からあの距離なんだろうとも思ってる」
高城は一度、息を吐いた。
「分かってるけど、嫌だった」
「何が」
「肩も、腰も。お前が、触れられて当然みたいな顔しているのが」
「そんな顔してない」
「俺じゃないやつの前であんな顔してるのも、腹が立った」
「あんな顔?」
「笑ってた」
「俺だって笑うよ」
「俺の前では、あまり笑わない」
そんなところまで見ていたのか。
高城の視線は足首にも、スパイクにも落ちていない。ずっと俺の顔にある。
それが妙に居心地悪くて、なのに逸らされたくないと思った自分は、もっと居心地が悪かった。
落ち着かなくなって横を抜けようとした瞬間、高城の手が俺の手首を取った。
反射的に足が止まる。
約束を思い出したのか、高城はすぐ力を緩めた。逃がさないための手ではなく、離すかどうかを俺に委ねるような指先になる。
「悪い。勝手に触った」
それでも完全には離れないまま、高城が言った。
「矢吹には、侑ちゃんって呼ばせるんだ」
「子どもの頃から勝手に呼んでるだけだ」
「じゃあ、俺も勝手に呼ぶ」
「同じ理屈にするなよ」
高城の指が、俺の脈の上でわずかに動いた。
「侑真」
たった二文字が、近すぎる声で落ちてきた。
「勝手にするなよ」
「嫌ならやめる」
高城は今度こそ手を離した。選ぶのを待つように、まっすぐ俺を見る。
「……嫌とは言ってない」
言ったあとで、何を許したのか自分でも分からなくなった。
高城はほんの少し目を細める。
「行こう、侑真」
足の速さにも、記録にも、今日走るかどうかにも関係のないことで、高城は嫌だと言った。
手首に残った熱を握り込んでも、胸の内側は少しも静かにならない。
あいつが欲しいのは、本当にただの練習相手だけなのか?
右足首は歩くぶんには問題ない。けれど、有川に「身体を雑に使うやつ」とまで言われた翌日に、また全力で走るほど俺も馬鹿ではない。たぶん。
今日は大事を取って、俺の一本はなしになった。
その代わり、高城のフォームを動画で撮ることにした。
八代に直してもらった呼吸が、実際の走りでどこまで残っているのか。後半、どこで肩が落ち、身体が起きるのか。俺が隣を走れないなら、外から見ればいい。
◇
撮影役に俺が選んだのは、矢吹宏弥だった。
弓道部で、俺のいとこ。
明るい髪に、軽い口調。誰にでも気安く話しかけ、廊下で教師に注意されても笑って受け流す。校内ではだいたいチャラい男に分類されているし、本人も訂正する気はない。
むしろ、面白がってその印象に乗っかっている節さえある。
ただ、弓道を中心に動画を上げているSNSはフォロワーが十万人を超えていて、撮影技術は腹が立つくらいうまい。
そして、弓を持っている間だけは、普段の軽さが跡形もなく消える。
それに宏弥は、俺が帰宅部のくせに走り方を知っている理由も、右足のことも知っている。
高城の練習相手を内緒で引き受けていると話しても、余計なことは聞かず、誰にも言わない。
映像は高城の確認用だけ。俺が映り込んだものは残さない。
そこまでまとめて頼める相手は、こいつくらいだった。
高城にも、宏弥が俺のいとこで、期間限定で練習相手をしている事情は伝えてある。だから余計な心配はない。
少なくとも、そのはずだった。
◇
「ごめん、一本引き終わるまで待ってて。すぐ終わるから」
俺たちを見つけた宏弥は、いつもの調子で片手を上げた。
口元には笑みがあり、声も軽い。これから部活をするというより、どこかへ遊びに行く途中にしか見えなかった。
けれど、射場へ戻った途端、その空気が消えた。
俺たちは端へ寄り、息を潜める。
宏弥が、弓を構える。
さっきまで笑っていた口元は動かない。
足の置き方も、弓を上げる腕も、ひとつひとつが静かで、迷いがなかった。普段なら一秒の沈黙にも耐えられず何か言い出す男が、今は的だけを見ている。
呼吸さえ、弦の内側へしまい込んでいるようだった。
動かない。
けれど、止まっているわけではない。
張り詰めたものが、少しずつ一点へ集まっていく。
乾いた音が響いた。
矢は的の中心近くへ刺さる。
宏弥はすぐにはこちらを見なかった。
矢が届いたあとまで姿勢を残し、静かに弓を下ろす。
それから残心を解き、こちらを向いた瞬間だった。
「お待たせ、侑ちゃん。そっちが高城慧介くん?」
声も表情も、一瞬でいつもの宏弥に戻る。
さっきまで射場にいた男と同一人物だとは思えないほど、切り替えが早い。
「高城です」
「学校で侑ちゃんはやめろ、宏弥」
「家でも呼んでるじゃん」
「お前が何度言っても聞かないだけだろ」
「そうとも言う」
高城の眉間に、さっきの矢より深く何かが刺さる。
「山瀬でいい」
「慧介が決めることじゃなくない?」
宏弥は笑ってスマホを持ち上げた。
「走るときも弓と同じ。狙う場所から目を逸らしちゃダメ。慧介、最後まで前見てね」
高城は、いつの間にか名前で呼ばれていることには何も言わなかった。
「あと、離した瞬間で終わりじゃない。矢が届くまで姿勢は残る。走りもゴールで身体を投げ捨てないで。その先まで撮るから」
◇
撮影が始まると、宏弥はよく動いた。
地面すれすれから足元を撮り、スタンドへ上がって全体を撮り、高城が走り終えるたびに場所を変える。
数本撮り終えると、三人で画面を覗き込んだ。
六十メートルを越えたあたりで、高城の右肩がわずかに内側へ入っている。呼吸は前より流れているのに、ゴールへ近づくほど上体が急いでいた。
「侑ちゃん、ちょっとここ立って」
「俺は走らない」
「分かってる。立つだけ。今の慧介の崩れ、再現できる?」
言われたとおりに立つと、宏弥の手のひらが俺の肩へ載った。
「触るよ~。肩、ちょい下げて」
そのまま身体の向きを変えられる。
「腰、こっち。逃げるともったいない」
今度は脇腹に近い腰を軽く押された。
撮影中の距離が近いのは昔からだ。まして俺は身内である。
今さら気にすることもなく、言われるまま姿勢を直した。
「はい、いい形。侑ちゃん、映りいいよ」
「かっこいい?」
「どちらかというと、可愛い系じゃない?」
「嬉しくないんだけど」
思わず笑うと、スマホの向こうで宏弥も笑った。
俺を使った姿勢確認は一度で終わり、再び高城を撮ることになった。
ただ、その後の高城はちょっと変だった。
撮り直しの一本目は、ゴールを越えても速度を落としきれず、二本目は逆に早く起き上がった。
いつもなら走る時は全力で集中する男が、今は俺と宏弥の位置を気にしているように見える。
「慧介、こっち見ない。狙うのは侑ちゃんじゃなくて前」
「見てない」
「今ので二回目」
高城は答えず、スタート位置へ戻った。
撮影が終わる頃には、返事が「次」「分かった」「もう一回」だけになっていた。
宏弥は映像を確認しながら、ちらりと高城を見る。
「慧介。狙ってるものがあるなら、途中で視線逸らすなよ」
「何の話だ」
「弓道の話」
◇
宏弥が弓道場に戻ると、高城は俺へ「少し来て」とだけ言った。
連れていかれたのは、人気のないスタンド裏だった。
「何。動画なら、あとで宏弥が送るって」
「矢吹に触られても平気なんだな? 許可出す前に触らせてた」
低い声が返る。
「いとこだし、撮影の確認だろ」
「俺には、触る前に聞けって言った」
「宏弥は昔からああなんだよ」
「分かってる。矢吹が悪いとも思ってない。昔からあの距離なんだろうとも思ってる」
高城は一度、息を吐いた。
「分かってるけど、嫌だった」
「何が」
「肩も、腰も。お前が、触れられて当然みたいな顔しているのが」
「そんな顔してない」
「俺じゃないやつの前であんな顔してるのも、腹が立った」
「あんな顔?」
「笑ってた」
「俺だって笑うよ」
「俺の前では、あまり笑わない」
そんなところまで見ていたのか。
高城の視線は足首にも、スパイクにも落ちていない。ずっと俺の顔にある。
それが妙に居心地悪くて、なのに逸らされたくないと思った自分は、もっと居心地が悪かった。
落ち着かなくなって横を抜けようとした瞬間、高城の手が俺の手首を取った。
反射的に足が止まる。
約束を思い出したのか、高城はすぐ力を緩めた。逃がさないための手ではなく、離すかどうかを俺に委ねるような指先になる。
「悪い。勝手に触った」
それでも完全には離れないまま、高城が言った。
「矢吹には、侑ちゃんって呼ばせるんだ」
「子どもの頃から勝手に呼んでるだけだ」
「じゃあ、俺も勝手に呼ぶ」
「同じ理屈にするなよ」
高城の指が、俺の脈の上でわずかに動いた。
「侑真」
たった二文字が、近すぎる声で落ちてきた。
「勝手にするなよ」
「嫌ならやめる」
高城は今度こそ手を離した。選ぶのを待つように、まっすぐ俺を見る。
「……嫌とは言ってない」
言ったあとで、何を許したのか自分でも分からなくなった。
高城はほんの少し目を細める。
「行こう、侑真」
足の速さにも、記録にも、今日走るかどうかにも関係のないことで、高城は嫌だと言った。
手首に残った熱を握り込んでも、胸の内側は少しも静かにならない。
あいつが欲しいのは、本当にただの練習相手だけなのか?



