翌朝、右足首は昨日よりましだった。
痛みが消えたわけではない。階段を下りるときだけ、奥に細い糸が引っかかる感じがする。そのまま高城へ送ると、三秒で返信が来た。
『今日は走らない』
決めるのはお前だと言った口で、ずいぶん勝手である。
『水の中で見てから俺が決める』
そう返したら、今度は既読だけついた。
◇
一時間目から、有川はいつもどおり寝ていた。先生に当てられても起きず、隣の俺が教科書の角で肘を押して、ようやく顔を上げる。
「四番」
「……答え?」
「問題番号。答えは自分で考えろ」
「侑真、冷たい」
そのまま有川はまた机へ沈んだ。
◇
休み時間になると、今度は机ではなく俺の肩へ頭をのせてきた。朝練した後の髪は、まだ少し湿っている。重いし、眠そうな体温がじわじわ移ってくる。
「自分の机で寝ろ」
「硬い」
「俺の肩は枕じゃない」
「枕より文句が多い」
額を押し返そうとしたところで、教室の後ろが静かになった。
高城が立っていた。
制服は今日もきっちり、表情もいつもどおり。なのに、俺の肩にのっている有川の頭を見てから、返事が普段より一文字ずつ減った気がした。
「有川」
「ん」
「起きろ」
「起きてる」
「離れろ」
有川は片目だけ開け、高城と俺を順番に見た。
「機嫌悪い?」
「別に」
短い。
有川がようやく身体を起こすと、高城は俺の足元へ視線を落とした。
「足は」
「階段で少し。歩くぶんには平気」
「そうか。放課後、プールへ行く」
「俺の予定を決めるな」
「見てから決めるんだろ」
送った文章をそのまま返される。高城は有川へ向き直った。
「頼む」
「了解」
そう言うと、有川はまた机へ伏せた。
「放課後の俺は、ちゃんと起きてるから」
◇
放課後の有川は、本当に起きていた。
プールサイドへ出た途端、背筋が伸び、眠そうだった目からぼんやりした色が消えている。キャップとゴーグルをつけてスタート台へ上がる姿は、教室で俺を枕にしていた人間とは思えない。
笛が鳴った。
有川の身体が、水面へ細く刺さる。
ほとんど飛沫を立てないまま、一本の線みたいに進んだ。腕が水をつかむたび速度が上がり、ターンでは壁に吸いついたかと思うほど小さく折れて、次の瞬間には反対へ飛び出している。
五十メートルを泳ぎ切って顔を上げた有川は、息を乱しながらも目だけは鋭かった。
県大会優勝者とは聞いていた。けれど、授業中に寝ている有川と、水の中の有川が同じ人間だと納得するには、しばらく時間が必要だった。
「何、その顔」
「替え玉を疑ってる」
「陸では省エネ」
「省エネで人の肩を使うな」
有川はプールの縁へ肘をかけた。
「侑真、入って。歩くだけ」
水の中で前後へ歩き、右足だけ小さく回す。浮力があるぶん痛みは薄いが、外へひねると動きが詰まった。
有川は俺の足首を水中で支え、左右を比べる。さっきまで水を切っていた指が、今は妙に慎重だった。
「右だけで立って。次、目閉じて」
「水の中で目を閉じる必要ある?」
「身体がどこを信用してるか見る」
言われたとおりにすると、右へ傾く前に左足が底を探した。有川は何も言わず、今度は壁につかまらせて、両足で同じ回数だけ水を蹴らせる。右は痛む前に動きが小さくなった。
こういう差だけは見逃さない。
「これ、昨日怪我した足じゃないよね?」
胸の奥が一瞬だけ固くなる。
「昨日も怪我してない」
「そうじゃなくて。前に怪我したところを、昨日傷めた感じ」
高城がプールサイドでしゃがんだ。
「いつ怪我した?」
「昔」
「陸上で?」
答えないでいると、有川はそれ以上聞かず、俺の足をゆっくり下ろした。
「腫れは少ない。でも右だけ、守る動きが残ってる。痛いかどうかより、左右で同じように動くか見たほうがいい」
「今日は?」
高城の問いに、有川は俺を見る。
「水の中なら。陸で全力は勧めない。決めるのは侑真」
高城も俺を見たが、何も言わない。
「今日は走らない」
俺が言うと、高城の肩がわずかに下がった。
「分かった」
有川はビート板を俺へ渡した。
「じゃあ十往復。蹴らないで、歩幅だけそろえる。終わったら冷やす」
「帰宅部への要求じゃない」
「競技者への要求でもない。身体を雑に使うやつへの要求」
言い返せないのが腹立たしい。
有川が自分の練習へ戻ると、高城はプールサイドに座ったまま、俺の往復を数えた。急かさず、フォームにも口を出さず、右へ傾いたときだけ眉を寄せる。
走れない俺に、そんな顔をする必要はないはずなのに。
痛みが消えたわけではない。階段を下りるときだけ、奥に細い糸が引っかかる感じがする。そのまま高城へ送ると、三秒で返信が来た。
『今日は走らない』
決めるのはお前だと言った口で、ずいぶん勝手である。
『水の中で見てから俺が決める』
そう返したら、今度は既読だけついた。
◇
一時間目から、有川はいつもどおり寝ていた。先生に当てられても起きず、隣の俺が教科書の角で肘を押して、ようやく顔を上げる。
「四番」
「……答え?」
「問題番号。答えは自分で考えろ」
「侑真、冷たい」
そのまま有川はまた机へ沈んだ。
◇
休み時間になると、今度は机ではなく俺の肩へ頭をのせてきた。朝練した後の髪は、まだ少し湿っている。重いし、眠そうな体温がじわじわ移ってくる。
「自分の机で寝ろ」
「硬い」
「俺の肩は枕じゃない」
「枕より文句が多い」
額を押し返そうとしたところで、教室の後ろが静かになった。
高城が立っていた。
制服は今日もきっちり、表情もいつもどおり。なのに、俺の肩にのっている有川の頭を見てから、返事が普段より一文字ずつ減った気がした。
「有川」
「ん」
「起きろ」
「起きてる」
「離れろ」
有川は片目だけ開け、高城と俺を順番に見た。
「機嫌悪い?」
「別に」
短い。
有川がようやく身体を起こすと、高城は俺の足元へ視線を落とした。
「足は」
「階段で少し。歩くぶんには平気」
「そうか。放課後、プールへ行く」
「俺の予定を決めるな」
「見てから決めるんだろ」
送った文章をそのまま返される。高城は有川へ向き直った。
「頼む」
「了解」
そう言うと、有川はまた机へ伏せた。
「放課後の俺は、ちゃんと起きてるから」
◇
放課後の有川は、本当に起きていた。
プールサイドへ出た途端、背筋が伸び、眠そうだった目からぼんやりした色が消えている。キャップとゴーグルをつけてスタート台へ上がる姿は、教室で俺を枕にしていた人間とは思えない。
笛が鳴った。
有川の身体が、水面へ細く刺さる。
ほとんど飛沫を立てないまま、一本の線みたいに進んだ。腕が水をつかむたび速度が上がり、ターンでは壁に吸いついたかと思うほど小さく折れて、次の瞬間には反対へ飛び出している。
五十メートルを泳ぎ切って顔を上げた有川は、息を乱しながらも目だけは鋭かった。
県大会優勝者とは聞いていた。けれど、授業中に寝ている有川と、水の中の有川が同じ人間だと納得するには、しばらく時間が必要だった。
「何、その顔」
「替え玉を疑ってる」
「陸では省エネ」
「省エネで人の肩を使うな」
有川はプールの縁へ肘をかけた。
「侑真、入って。歩くだけ」
水の中で前後へ歩き、右足だけ小さく回す。浮力があるぶん痛みは薄いが、外へひねると動きが詰まった。
有川は俺の足首を水中で支え、左右を比べる。さっきまで水を切っていた指が、今は妙に慎重だった。
「右だけで立って。次、目閉じて」
「水の中で目を閉じる必要ある?」
「身体がどこを信用してるか見る」
言われたとおりにすると、右へ傾く前に左足が底を探した。有川は何も言わず、今度は壁につかまらせて、両足で同じ回数だけ水を蹴らせる。右は痛む前に動きが小さくなった。
こういう差だけは見逃さない。
「これ、昨日怪我した足じゃないよね?」
胸の奥が一瞬だけ固くなる。
「昨日も怪我してない」
「そうじゃなくて。前に怪我したところを、昨日傷めた感じ」
高城がプールサイドでしゃがんだ。
「いつ怪我した?」
「昔」
「陸上で?」
答えないでいると、有川はそれ以上聞かず、俺の足をゆっくり下ろした。
「腫れは少ない。でも右だけ、守る動きが残ってる。痛いかどうかより、左右で同じように動くか見たほうがいい」
「今日は?」
高城の問いに、有川は俺を見る。
「水の中なら。陸で全力は勧めない。決めるのは侑真」
高城も俺を見たが、何も言わない。
「今日は走らない」
俺が言うと、高城の肩がわずかに下がった。
「分かった」
有川はビート板を俺へ渡した。
「じゃあ十往復。蹴らないで、歩幅だけそろえる。終わったら冷やす」
「帰宅部への要求じゃない」
「競技者への要求でもない。身体を雑に使うやつへの要求」
言い返せないのが腹立たしい。
有川が自分の練習へ戻ると、高城はプールサイドに座ったまま、俺の往復を数えた。急かさず、フォームにも口を出さず、右へ傾いたときだけ眉を寄せる。
走れない俺に、そんな顔をする必要はないはずなのに。



