陸上部のエースより速い帰宅部ですが、恋からは逃げきれないようです

「今日は走る前に、相談がある」

翌週の放課後、高城は開口一番そう言った。

「断る」

「まだ何も言ってない」

「高城の相談は、だいたい俺の帰宅を遅らせる」

「幼なじみに、俺の呼吸を見てもらいたい」

高城はそこで言葉を切った。

「お前が練習相手だとは、まだ話してない。タイムも何も。話していいか」

先週交わした条件を、面倒なくらい覚えているらしい。

「タイムは言わない。陸上部と顧問にも黙ってる。それならいい」

「約束する」



連れていかれたのは音楽室だった。扉の向こうから、低い音が床まで震わせている。

演奏が止まり、俺よりずっと背の高い男子が、巨大な黒いケースを抱えて出てきた。

「ありがとう、慧介。ちょうど人手が欲しかったんだ」

柔らかく笑う顔は、制汗剤のCMにいそうなくらい爽やかだった。高城と同じように制服をきっちり着ているのに、こっちは王子様寄りである。

「山瀬、幼なじみの八代大雅。吹奏楽部でチューバを吹いてる」

「八代です」

「山瀬。今だけ高城の練習相手」

「タイムや詳しいことは聞くな」

高城が横から付け足す。

八代は目を丸くしてから、楽しそうに笑った。

「よろしくね、山瀬くん」

そう言いながら、八代はケースを運ぶため、ブレザーを脱ぎ、シャツの袖を肘までまくった。

俺は二度見した。

細身に見えた腕が、全然細くない。前腕には筋がくっきり浮き、ケースを持ち上げた瞬間、シャツ越しの肩と背中まで盛り上がった。

「……チューバって筋トレ器具?」

「楽器だよ。一応」

「いい筋肉してるな~」

「触る?」

「大雅、早く運ぶぞ」

なぜか高城が俺と八代の間へ入り、ケースの片側を持った。視界がほぼ高城の背中になる。

「俺も持つ?」

「山瀬はいい。足を使う前に腕を疲れさせる必要はない」

八代は高城の向こうで、楽しそうに目を細めていた。

「慧介、僕の腕を見られるの、そんなに気になる?」

「別に」

「あ! 山瀬くんが俺の筋肉に興味持つのが嫌?」

「重いなら黙って持て」

「重くないよ」

「じゃあ一人で持て」

幼なじみの会話は、仲がいいのか悪いのか分からない。



楽器を倉庫へ運ぶと、八代もグラウンドまでついてきた。

八代はポケットから銀色のマウスピースを出し、唇へ当てた。低い震えが、一息ぶん途切れず続く。途中で揺れそうなのに、音の太さは最後まで変わらない。

「息は、たくさん吸えばいいわけじゃない。吐き始めと流す速さをそろえる。音楽なら拍があるから、身体が焦っても戻れるんだ」

八代は俺たちを向かい合わせに立たせた。

「まず四拍で吸って、八拍で吐く。胸じゃなくて、お腹と背中を広げる感じ。管楽器は息を止めたら音が続かない。走るのも同じだろ?」

八代の手拍子に合わせ、高城が息を吸う。四拍目で肩がわずかに上がった。

「この癖、走ってるときはどこで出ると思う?」

俺の口が先に動いた。

「最初の三歩。それから六十五を過ぎたあたり。追いつこうとすると、二回目が早くなる」

二人の視線が同時に俺へ向く。

しまった。

八代が首を傾げた。

「山瀬くん、ずっと高城の呼吸を見てきたみたいだね」

「走ってれば分かるだろ」

「一緒に走ったばかりにしては、ずいぶん詳しいなと思って」

「音がでかいんだよ、高城の息」

「でかくない」

即座に否定される。そこは黙ってろ。

八代は追及せず、「山瀬くんの耳は頼りになるね」と笑った。

「互いの背中に手を当ててみて。息がどこへ入るか分かりやすいから」

高城が俺を見る。

「背中、触っていいか」

約束を、いちいち確かめる声だった。

「……いいよ」

高城の手のひらが、体育着越しに肩甲骨の間へ触れた。指先だけじゃない。広い手がぴたりとつく。

「山瀬くんも少し肩が上がってるね」

八代に言われ、高城の視線が俺の肩へ移った。

「肩も触っていいか」

「確認が丁寧すぎると、逆に恥ずかしいな」

「触っていいのか」

「いい」

もう片方の手が肩へ載る。軽く押さえられただけなのに、高城に前後を挟まれたみたいで落ち着かない。

「四つ吸って、八つ吐くよ」

八代が数える。

吸うたび、高城の手へ背中が押し返される。吐けば少し離れるはずなのに、体温だけは残った。呼吸を意識すると、触れられている場所まで意識してしまう。こういう練習は精神に悪い。

交代して、高城の背中へ手を置く。硬い。走っているときはしなやかなのに、止まっている今のほうが妙に緊張している。

「高城、肩じゃなくてこっち」

背中を軽く押すと、次の息が手のひらを広く押し返した。

「そう。それなら止まらない」

「分かった」

すぐ近くで返った声まで、呼吸と一緒に胸へ響いた。

八代が満足そうに頷く。

「本番は僕が四拍だけ刻む。あとは二人で合わせて」

「俺は別に合わせなくても」

「合わせられるだろ」

高城が当然のように言う。

腹が立ったので、勝つことにした。



スタートへ並ぶ。八代の手拍子が、夕方のトラックへ四つ響いた。

最後の一拍で息を吐き、高城と同時に地面を押す。

今日は最初から高城の肩が上がらない。足音が鋭いのに、呼吸だけは細く長く流れている。俺は半歩後ろで、自分の息を合わせた。

吸う。二歩。吐く。三歩。

教わったばかりのはずなのに、身体は前から知っていたみたいに高城の周期へ重なる。

六十を過ぎても、高城は固くならない。

七十。肩が並ばない。

悔しくて一段上げる。高城も上げる。二人分の息が風の中でほどけず、白線まで続いた。

先に越えたのは、高城だった。靴一足ぶん。

「……改善、早すぎ」

速度を落としながら言うと、高城が振り返った。息は上がっているのに、目だけが妙に明るい。

「山瀬が俺の方の呼吸に合わせたからだ」

「八代の指導のおかげだろ」

「それもある。でも、お前が隣にいた」

またその言い方だ。

言い返そうとして、右足を着いた瞬間、足首の外側に細い痛みが走った。

ほんの一瞬、歩幅が乱れる。

高城がすぐ戻ってきた。

「足、どうした」

「何も」

「今、かばった」

誤魔化すより早く、八代も俺の足元を見る。

高城はしゃがみかけて、止まった。

「足首、触っていいか」

「少し変なだけ」

「触っていいか」

逃がさない声に、俺は息を吐いた。

「……右。軽くなら」

高城の指が靴下の上から足首へ触れる。押すというより、腫れがないか確かめる程度だった。それでも古い場所を正確になぞられ、反射的に足を引きそうになる。

「痛いところは」

「そこ。走れないほどじゃない」

高城は顔を上げた。すぐ中止しろと言われると思った。

けれど、返ってきたのは違う言葉だった。

「やめるかどうかは、お前が決めろ。ただし隠すな」

胸の奥で、昔の声が一瞬だけ重なった。

『走れる。お前の脚が必要だ』

同じ脚を見ているはずなのに、高城の言葉は俺を縛らなかった。

「今日はもう走ったし、終わり。明日は朝の感じで決める」

「分かった。痛みが増えたら連絡しろ」

「連絡先、知らない」

高城が固まる。

八代が吹き出した。

「そこから?」

「笑うな」

高城はスマホを取り出し、俺の前へ差し出した。断る理由を考える前に、八代が右足首を見ながら言う。

「明日、水泳部の有川光生に見てもらおう。水の中なら負担を減らして動きを確かめられるし、身体の調整にも詳しい」

「有川なら俺のクラス。親友」

「じゃあ、話が早い。教室で寝てる有川じゃなく、選手の有川を紹介するよ」

プールでは別人になるという話は知っている。けれど、自分がそちらの彼とも会うことになるとは思わなかった。

俺は高城の連絡先を受け取りながら、ため息をついた。

帰宅部の放課後が、日に日に帰宅から遠ざかっている。