陸上部のエースより速い帰宅部ですが、恋からは逃げきれないようです

「嫌だ」

ようやく出た返事に、高城は一度だけ瞬きをした。

「理由は」

「面倒だから」

「陸上部に入れとは言わない。大会までの一か月だけでいい。放課後、俺の練習相手になってほしい」

一か月だけ、と言われたところで、面倒が期間限定の面倒になるだけだ。

「部員に頼めば?」

「頼んでる。だが、最後まで並べるやつがいない」

「県一位様は大変だな」

「茶化すな。俺は本気で頼んでる」

まっすぐすぎる目は、見ていると落ち着かない。昨日、金網越しにぶつかった視線を思い出してしまう。

「なおさら嫌。速いやつが必要なら、他を当たって」

「じゃあ、交換条件を出す」

「聞くだけ聞いて断る」

「化学」

踵を返しかけた足が止まった。

高城は制服のポケットから、折り畳まれた紙を出した。前回の化学の試験で赤点だった生徒の名前が並んでいる。

「なんで持ってんの、それ」

「化学準備室で先生に渡された。夏休みの補習を手伝えと言われた。化学の」

「個人情報の扱いが雑すぎる」

「山瀬、前回の試験で赤点だったんだろ? 来月の試験でも赤点なら、補習決定だよな? 化学の」

「化学、化学うるさいな」

「俺、今度、化学オリンピックに出るんだ。だから、俺に任せてもらえれば、次の試験では赤点を回避させてあげられる」

「さらっと腹立つな」

けれど、このままでは次の試験もかなり危ない。

高城は紙を畳み直した。

「走ったあと十五分。毎日教える」

「十五分でどうにかなる?」

「その時間、お前が寝なければ」

「条件が厳しい」

断る材料を探しているのに、頭の中では赤点の回避と面倒な補習の回避が天秤に載り始めていた。どちらも回避できるなら、一本くらい走るほうがいい。たぶん。

「……条件がある」

「言ってくれ」

即答だった。

「陸上部に誘わない」

「分かった」

「顧問にも言わない。俺が走ることも、タイムも、他の誰にも話さない」

「分かった」

「勝手に身体へ触らない。怪我してないか確認するときも、先に俺へ聞く」

そこで高城の返事が、ほんの一拍遅れた。視線が俺の足元へ落ちる。

「痛むところがあるのか」

「今はない。条件の話」

「……分かった。必ず聞く」

余計なことは尋ねなかった。その代わり、覚えるようにゆっくり頷いた。

「それから、一日一本。それ以上は走らない。放課後だけ。終わったら化学十五分」

「距離は?」

「そっちが決めれば」

「基本は百。大会の前日まで一か月」

「一か月過ぎたら終わり」

「ああ」

「ひとつでも破ったら、その場で終わりだから」

「約束する。必要なら書面にする」

「重い。部活の練習相手に契約書を出す高校生は嫌だ」

「なら、口約束で守る」

冗談が通じていない。いや、通じた上で真面目に返されている気もする。どちらにしても調子が狂う。

こうして俺は、赤点から逃げるために、陸上部のエースから逃げない契約を結んだ。



放課後、俺は帰宅部のくせに陸上部の練習が終わるのを待っていた。

西日の伸びたトラックで、高城は最後まで走っていた。部員が片づけを始めても、一人だけ短いダッシュを繰り返す。速いから練習が軽い、なんてことはないらしい。最後の一本を終えた頃には、黒い前髪の先から汗が落ちていた。

顧問と部員が校舎側へ消えてから、高城が俺のところへ来た。

「待たせた」

「待ってない。帰る途中に立ってただけ」

「体育着で?」

「細かい男は嫌われるぞ」

高城は何も言わず、口元だけ少し動かした。笑ったのかもしれない。俺が見直す前に、もういつもの真面目な顔へ戻っていた。

使うのは、トラックの直線。高城は百メートル先の白線を確かめ、腕時計にスタート用のカウントを設定した。

俺が体育靴の踵を踏んでいると、高城がしゃがむ。

「靴紐、触っていいか」

「靴だけなら」

「足には触らない」

念を押すところが妙に律儀だ。高城は結び目を指で押し、片方だけほどいて結び直した。

「緩い。途中でほどける」

「体育の授業じゃ困ってない」

「今日は俺と走る」

「はいはい」

高城の指が離れたあとの紐は、左右きっちり同じ長さだった。こういう性格なのだろう。

スタート位置へ並ぶ。高城はスパイク、俺は体育靴。貸すと言われたが、人の靴で走るほうが落ち着かないから断った。鞄は白線の外へ置く。昨日みたいに背中で跳ねるものはない。

「足の位置、ここでいいか」

「いい」

腕時計が短く鳴る。

三秒後、もう一度。

最後の電子音と同時に、地面を押した。

最初の十歩で、高城が前へ出る。さすがに速い。疲れているはずなのに、腰の位置がぶれず、腕の振りがまっすぐ推進力に変わっていく。

胸の奥が、勝手に熱くなった。

夕方の乾いた土の匂い。足元で弾ける小石の音。風が耳を塞ぎ、代わりに二人分の足音だけが近くなる。忘れたふりをしていたものが、身体の内側から次々に起き上がってくる。

体育靴の底が土を噛む。吸って、吐く。高城の呼吸が半歩先にある。追いつこうとするんじゃない。自分の足が置きたい場所へ置く。

五十。まだ高城が前。

七十で肩が並ぶ。

横目に見えた高城の顔は、苦しそうなのに、少しも緩んでいなかった。

だから俺も、最後まで緩めなかった。

白線を、ほとんど同時に駆け抜ける。

勢いを殺して振り返ると、高城が膝へ手をつきながら、俺を見た。

「……山瀬」

「何」

「お前の勝ちだ。肩半分」

俺も息が上がっていた。たった百メートルなのに、肺が久しぶりの熱を持て余している。

「部活のあとだったし、そっちは疲れてただろ」

「その条件でいいと言ったのは、俺だ」

「靴も違う」

「言い訳にはならない。負けは負けだ」

悔しそうに眉を寄せているくせに、高城の目は白線と俺の足元を何度も行き来していた。

「前半は俺。六十を越えてから、お前の接地が短くなった。上体も浮かない。明日は俺の加速を少し変える。距離は同じで――」

そこまで言って、高城が止まる。

「明日も百でいいか」

勝手に決めず、俺の返事を待っている。

「負けたのに、なんでちょっと嬉しそうなんだよ」

高城はまだ乱れた呼吸のまま、まっすぐ俺を見た。

「追いたいやつを、やっと見つけたから」

胸の奥が、走り終えたせいではない音を立てた。

「……言い方」

「何か変か」

「別に」

本人が分かっていないなら、俺だけ気にするのは負けたみたいで腹が立つ。

高城は腕時計を見て、「十五分」と言った。

トラック脇のベンチへ移動すると、鞄から化学の教科書とノートが出てきた。ノートの中には、日付ごとの練習内容と秒数が細かく並んでいた。余白には、腕振り、接地、後半、と小さな字で何度も書き直されている。

才能だけで走っている人間のノートには見えなかった。

「山瀬、ここ。物質量の式」

走った直後なのに、文字は腹が立つほど整っている。

「今、人の努力を見て少し感心してたところ」

「化学にも感心しろ」

「無理を言うな」

「一モルは、粒子をまとめて数える単位だ」

「卵の一ダースみたいな?」

「考え方は近い」

「六・〇二掛ける十の二十三乗個入りの卵」

「想像するな。机が潰れる」

「高城でもそういうこと言うんだ」

「お前が変な例を出すからだ」

高城はきっちり十五分だけ教え、タイマーが鳴ると問題集を閉じた。

「今日は終わり」

「本当に十五分なんだ」

「約束だから」

空はもう薄い藍色で、グラウンドには俺たちの影だけが長く残っていた。

「明日も同じ時間に」

「来るとは言ってない」

「また明日、山瀬」